2019年4月30日火曜日

金子兜太「戦あるなと起きて花野を歩くなり」(『俳誌総覧 2019年版』より)・・



 『俳誌総覧』2019年版(東京四季出版)、ブログタイトルにした句は、西井洋子の筆と思われる、同誌「編集余滴」結びに置かれた、八鬼歌仙「戦あるなの巻」の初折の表よりの孫引きである。「俳句四季」の「創刊35周年に寄せて」には、愚生を含めて54名の寄稿であるが、なかでも別格は、齋藤愼爾「平成の終焉、平成の精神」と筑紫磐井「俳句史とは何であるか」の論考である。その齋藤愼爾の論のなかほどに原満三寿についての言及がある。

(前略)原は「俳諧という構造が、日本文化の異端の装置として機能していた」ことを想起せよと主張する。俳諧を俳句といおうがなんといおうが、本来的に機能していた精神が形骸化していしまい、生々しく生きる現代の文化や生活の活性化に何ら寄与するところがないことを慨嘆する。原の俳句・俳諧論は大略「かつて俳諧とは徘徊であった。うろつき、さまよい歩くことであった。また俳諧の〈俳〉という字は、人と、そむく意と音を示す非(ヒ・ハイ)とからなる。〈人に非ず〉と示すように非人を意味していた。(中略)
「俳諧は論理や因果律に対し、常にノンである。俳諧を遠して、人間の生の世界の矛盾をあばき出し、克服しようとする。その時はじめて、〈人間が人間プラス何ものかになる〉。すなわち、人間に非ざるものになる。非人になる。俳人になる、自分を非人化する空間が俳諧なのだ。非人になるしたたかな覚悟がなければ、けっして俳諧は実現しないのである。」(「俳諧としてとしての俳句」)

 と述べ、あるいはまた、江里昭彦の、

(前略)そのとき有季定型俳句は、創造力が衰えても作品を量産できる〈果てしない反復〉の装置と化す。定型のうちで定型化された情緒を反芻(すう)していれば、いつまでも(これは死ぬまでと同義)俳人でいられるわけです。だから私は虚子俳句をターミナルケア(終末看護)だと思っています」(「虚子の近代は汲み尽くされたか」)

 を引用し、筆法鋭い。そして、

(前略)私は十代のときから金子氏に親炙してきたが、批判は自由であった。『いま、兜太は』(金子兜太、青木健編、岩波書店、平成二十八年十二月刊)にも「兜太への測鉛」を発表、批判を試みている。地上から金子氏は不在になったが、文学史(殊に俳句史)では生存している。闘いを終焉させるわけにはいかない。

 と結んでいる。あと一つの筑紫磐井の論考には、小見出しの「二、俳句史を考える」に、

 歴史をまとめ上げる力を「史観」と呼んでみたいと思う。「史観」が存在しなければ歴史はうまれない。近・現代俳句についても同様のことが言える。

として、結びに、

(前略)こうして、虚子が示した図式は兜太によって整理され分り易くなる。虚子は自分自身(②客観写生⑥たかし・茅舎⑦立子・杞陽らの虚子・ホトトギスに忠実だった人たちを含め)を客観的に位置づけてこなかったからどうしても兜太のような第三者的な史観が必要になるのである。それが虚子にとっても決して悪くはなかったことは、近・現代俳句史の中で二本の柱のひとつとして虚子ーつまり風詠的傾向が盤石であったことが分かる点である。そして後代の我々にも、俳句の可能性がはっきり二つであることを示してくれてるのである。
 【注】近・現代俳句史の最大の偉人である正岡子規は位置づけられていないが、私は「2、表現的傾向」の劈頭に、写生的傾向(子規・碧梧桐〉を位置づけてもよいと思っている。それくらい子規と虚子は相容れなかったのである。

 と記している。その他の寄稿は、「俳句四季」が35周年を迎えた祝辞に満ちているが、その中では、大久保白村「俳句の力は大間違い」は、実直に現在の俳句の状況を撃っていよう。

 (前略)この頃、殆ど聞かないが、「ペンは剣よりも強し」とは戦時中も聞いたような気がするが何故かこの頃とんと聞かれなくなった。(中略)
 戦後七十年以上を経過したいま俳句は本当の意味で力ある句を残しただろうか。
  歩き出す廊下の奥の戦争が   赤村
これは時事川柳作家の数年前の作品であるが、いまや確実に日本は戦える国に変貌しつつある。戦える国に変貌せざるを得ない問題が日本近海では数多い。
 その国際情勢に目を向けず、日本の俳人は「美しい国、日本」「俳句で平和を」というが、実作で勝負していない。 

 そのことは、たぶん俳句における表現の自由にも及んでいるに違いないのだ。渡辺誠一郎は、正岡子規の言葉を引用して言う。

 (前略)さらに初心者向けの言葉ではあるが、「俳句をものせんと思はば思ふままをものすべし」とか、「俳句は殊に言語、文法、切字、仮名遣など一切なき者と心得て可なり」とした大らかさが失われたように感じる。俳句表現に、もう少し開かれた空気が広がれば次の時代のエネルギーに繋がるのではないか。子規は句会においては、「先生」ではなく、「升(のぼ)さん」と呼ばれていた。そんな自由な俳句の場が大切だと思う。

と、穏やかなながら苦言を提している。以下は自選句一覧より。

  フレコンバックの中なる春の土のこゑ   正木ゆう子
  月光を攫いて戻らざる波か         岸本葉子



2019年4月29日月曜日

穴井太「梅咲くや酒屋へ一里黄泉へ二里」(「信濃俳句通信」5月号・VOL410 より)・・



 「信濃俳句通信」5月号(信濃俳句通信社)、巻頭の扉、佐藤文子「きらり・この一句」に、恥ずかしながら、愚生の句と、エッセイが目に飛び込んで来た。思わず御礼の葉書をしたためようと思ったが、このブログに、自己宣伝を兼ねてアップすることにした。以下、全文を引用する。

   かきあげる怒髪も木々もかの昭和   大井恒行

 昭和も平成も去り、新しい時代がやって来た。やって来たところで何も変わりは映えはしない。心の中も変わるわけではない。考えてみるとあの昭和はすごかった。多くの人たちは政治を、世の中を変えようとした。激しい怒りのために髪の毛も逆立った。
 『大井恒行句集』(一九九九年、十二月ふらんす堂)より所収。大井さんを紹介して下さったのは穴井太。現代俳句協会総会の懇親会の後の二次会だったと思う。昭和最後の年だった。先日、久しぶりに、やはり現俳総会の後、出会った。昭和二十三年生まれの大井さんは少しも年を取っていなかった。

 いえいえ、白髪になり髭も白く、当時とは比べるべくもなく老いていたと思う。佐藤文子は、愚生からすれば姉貴格であるが、若さと、タフさでいうと、はるかに華やかでもあり、少しも年を取っていないのはむしろ佐藤文子のほうだ(青年部時代には、ずいぶんお世話になった)。
 「信濃俳句通信」で、愚生が必ず読むのが、一に佐藤文子の連載「草の罠ー穴井太伝説㊽」である。㊽とあるから、48回、もうすぐ5年になろうとしている。そうすると、穴井太の風貌を想い出すのだ。そして、二に、石森史郎「武蔵野寓だより」、170回の長期連載である。滋味がある。今回は「タンポポ・ダンディライオンへの郷愁」の題がついている。前者の「草の罠」には、次のようにあった。

 (前略)穴井太が晩年もっとも親しくしていたのは、村上護だった。ひょっこり九州の戸畑の駅に降り立つ村上護は、一杯やりませんかと穴井を訪ね、友好を重ねた。穴井は、村上護を私たちに紹介し、その関係で松本にも何かイベントがあると、よく顔をだしてくださった。

 とある。そういえば、愚生もたしか「信濃俳句通信」何周年かの祝賀会での帰り、あずさ号で松本から東京まで同席し、車中の歓談をしたことがある(それが、彼との生前最後の歓談となってしまったが・・)。その村上護も逝かれた。
 ともあれ、同誌同号より、以下に・・。

   春雨の雫したたる忘れ傘       佐藤文子
   ゴールではなく始まりや花吹雪      〃
   瞑想のふりに酔ひたる朧の夜     中村和代
   春の海くじらを探しに遠出する    平林木子




★閑話休題・・「多摩のあけぼの」No.130(東京多摩地区現代俳句協会)・・・


 このようなことはめったにないことなので、恥をかえりみず、自己宣伝を重ねておく。「多摩のあけぼの」の「一句鑑賞129号から」に、川名つぎおが愚生の句を鑑賞してくれているのだ。以下に引用しておきたい。

  幻術の寒月光は蛻(ぬけがら)に   大井恒行

 中七までの景は月光か雪原か、雪上の月光かと目をくらます。それが世の中。あとは記憶へ歴史へと幻想や模擬化させる。韻文型式を生かした相対化であり、残った結五の蛻・ぬけがらのみが現認された現在にすぎない、とマニフェスト。




2019年4月28日日曜日

武藤紀子「存在(ザイン)としての灰色の鶯を」(『たてがみの掴み方 俳人・武藤紀子に迫る』より)・・)・・



 インタビュアー・橋本小たか『たてがみの掴み方 俳人・武藤紀子に迫る』(ふらんす堂)、言ってしまえば、武藤紀子の句の自句自解なのだけれど、一般的なイメージを超えた自句自解である。そんなに喋っていいの・・・という感じ、それでも、たぶん一筋縄ではないものを彼女は持っているのだろうと想像させる。愚生などがいちいち紹介するよりも本書に直接あたっていただくのがベストである。その一端は、インタビュアー・橋本小たかの「はじめにひと言」の最期に以下のように記されている。

 話は昔と今を気ままに飛びかい、
 語りは東京弁と関西弁と名古屋弁のちゃんぽん。
 素材がすこぶるいいので、そのまんまおさめた。

 読んで元気になる「先生の話」と
 あなたもぜひ出会ってみてください。

 よって、愚生は、攝津幸彦を語った部分を多く、勝手に引用したいと思う。

紀子:(前略)まず攝津幸彦さんなんだけど、とにかく句も分かんないだけど絶対この人と思ったの。私が第一句集を贈ったら葉書をもらって、いま体の調子が良くないけどまた手紙でも書きましょう、と書いてくださってすごく期待していたら亡くなった。今になってみたらみんな攝津さんのことを結構書いてるし、絶対忘れられない人として残っているのよ。私の目は節穴じゃなかったわと。(中略)

その三人だわ(愚生:注、攝津幸彦・田中裕明・長谷川櫂)、私の目は絶対間違いないなと思って、その内の二人が亡くなって。田中裕明さんはすごいのは分るけど、生きていたとしてもつかなかっただろうし、あんまり違うから。攝津幸彦さんはすごい残念だった。もし生きていたら、私は絶対行って、ついてた。あの人が今やりたい現代俳句のすごいところをやってた人だと思うんだわ。
ーそのすごいところを具体的に言うと・・・
紀子:それが分かんないから、すごいのさ。普通の凡人は有季定型の写生を二十年やってそれから初めて自分の思いとか、そういうのを写生から飛ばしてやっていけるって思う。最初のころの私は攝津幸彦に知り合ったとしても、とてもついていけない。今でもついていけないかもしれないだけど、でも、今だったらなんとかついていこうとできたのにと思うね。だから早く死んでしまわはって残念だなあと思う。

 ちなみインタビューのなかで、攝津幸彦の句が5句引用されている。その中の3句を挙げておこう。

  姉にあねもね一行二句の毛はなりぬ   幸彦
  絵日傘のうしろ奪はれやすきかな
  露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな
 
 著者本人の句を挙げないで失礼するわけにはいかない。ブログタイトルに挙げた「存在(ザイン)としての灰色の鶯を」の句について語っている部分を以下に引用しよう。

 紀子:この句は「Sein」って言葉から作った句なの。私はいつも吟行へ行って俳句を作るから、頭の中で俳句を作らないなんていっているけど嘘ばっかりなのよ。この句は「Sein」っていう言葉をどこかで見たのよ。ふりがなが書いてあってね。この言葉はいい言葉、これで俳句を作って雅樹君の鼻をあかしてやろうと思ったわけ。そのとき。
―(笑い)
紀子:そしたら岡崎の田舎へ吟行にいったのよ。春の頃で川べりを歩いていたら、びひゃって鳥が飛んだの。目にもとまらない速さで飛んだから、私は鳥にも詳しくないしさ。何にも分かんない。だけど鶯だと思ったわけ。違ったっていいや鶯で。その「鶯」と「Sein」で何かできないかしらとそのとき思ったわけ。しばらく考えてて、鶯っていうのは声はしょっちょう聞くわねえ。だけど姿ってのはなかなか見られない鳥なのよ。地味でさ。鶯色っていうからさ、目白?あれを見てみんな鶯を見たっていうのよ。(中略)
 ええい鶯にしちゃおうと。灰色の濃いような塊がひゆーっと行っただけだったの。だから「灰色の鶯」になったわけ。鶯の本質はあれなんだ。きれいな鶯色をしているやつじゃないんだっていうので、「Sein」が付いた。ここで(笑)。あーできたと思ったわけ。はっきり言うと、ちゃんと理屈に合っているかどうかぜんぜん分からない。

 そう、この分からないという謎がいいように思う。いい句はなかなか分からないけどいいのだとおもわせる。俳句の本で、これだけ、ざっくばらんに俳句作品の本質的なところを面白く読ませてくれる本も珍しい。ともあれ、本書中に挙げらている句を、著者自身の好きだという句と嫌いだという句のいくつかを挙げておこう。

    ・著者自身の好きな句から・・・
  黍の穂や沖ノ鳥島風力五      紀子
  初ざくら海を感じている扉
  住吉の松の下こそ涼しけれ
  死の端が見えてをるなり青簾
  信長のやうな人なり白浴衣
   子宮癌手術より五年
  完璧な椿生きてゐてよかつた  
 
   ・嫌いな句から・・・
  播州にをり白い蓮紅い蓮
  たつた今蛤置きしところ濡れ
  埋火のおほかた白し桜魚
  耳遠き人と話して秋の海
  ゆくてよりうしろにまはる花吹雪
  こほろぎの出でては入るや榾の箱

武藤紀子(むとう・のりこ) 昭和24年、石川県生まれ。



★閑話休題・・武藤紀子「ある日魚目のふところに入る綿虫よ」(「円座」第49号)・・


 ところで、インタビュアーの橋本小たかの本誌連載(43)は「十数えてあたたまる① 素十『初鴉』を読む(3)」である。「初鴉」つながりで、同号の、

  初鴉翼ふたつをばさばさと   中田剛

 数字つがりで、素十「いつまでも一つ郭公早苗取」の句について、本連載稿で、橋本小たかは、

 (前略)とある一羽の鳥の鳴き声にしばらく聞き入ることは誰にでもきっとある。しかし、それを「いつまでも一つ郭公」と単純化することはできない。せいぜい「さっきから同じ郭公」くらいか。と書いて気づく。(中略)「同じ郭公」といわず「一つ郭公」、「一つ」ということで郭公の存在が確かになる。そして確かな存在感があるくせに、実際はその声しか聞いていないという、郭公との距離感。かなり奥行のあるつくりになっている。

 と述べている。

 橋本小たか(はしもと・こたか) 1974年、岡山県生まれ。

2019年4月27日土曜日

志垣澄幸「着弾のたびに崩るる防空壕(がう)の壁そのたびごとに死を思ひゐき」(「合歓」第84号より)・・



 「合歓」第84号(合歓の会)、同誌では、久々湊盈子による毎号のインタビュー記事が、いつも見逃せない。今号は志垣澄幸。その中に、

ー第九歌集『青の世紀』のなかに、
・戦争は反対なれど敗戦の記録フィルムをみつつ悔しき
という一首があって、胸を衝かれましたが、(中略)
志垣 予科練に憧れ、海軍士官少年航空隊とか、そういうものに憧れて自分もそういう幹部候補生になりたいと思っていました。戦時の少年は完全にマインドコントロールされていたわけですよ。(中略)
志垣 私より少し年上の方たちは、戦地に赴き戦争の悲惨さを身をもって知っていますから、戦争は絶対反対ということになりますが、私達の世代は大きくなったら戦地でお国のために戦うのだと思っておりました。そんな軍国少年のまま終戦になったのです。

 インタビュー中に志垣澄幸の歌が引用されているので、以下に抄出する。

  いくたび幼くて死をおもひたる記憶甦りて山裾は雨    澄幸
  丘に立つ一本ゆゑにひもすがら蟬こもらせて樅の木は啼く
  国歌斉唱から一日はじまる学園にはや十年勤めてきたる
  誰も居ぬ風呂場の水に宇宙よりしのび入りたり光がおよぐ
  幾万の魚の命を奪ひたるわれは目刺にされむ彼の世に

 発行人の久々湊盈子が「九条歌人の会」の呼びかけ人というからだけではないだろうが、誌面には、本人のエッセイ「南島遭難始末記」という沖縄紀行があり、また中山眞理子のエッセイ「所載の一冊⑦『辺野古を詠う 第五集』」、特別寄稿には、加藤英彦「病んでいる日本へ」がある。前者の『辺野古を詠う 第五集』(紅短歌会 2018年)には、

 「紅短歌会(主宰玉城洋子氏)は沖縄県糸満市を拠点として一九八二年に創設された。〇二年から辺野古吟行をはじめ、十六年間で詠んだ歌一一一六首がこの歌集に収めれている。

 という。感銘深い歌も多く引用、紹介されているが、残念ながら作者名が記されていない。この書評の結びには、

 (前略)これまでも国政選挙、知事選などで民意は繰り返し示されているが、工事は強引に進められている。
 ・「辺野古しかない」といふ圧力 もう胡麻化されたくない海に向かへば
 ・島人(シマンチュ)が唄ふ青き辺野古の海 武器などいらぬ基地などいらぬ
 ・悲しみを決意にかえて今日も座す辺野古の海は青く澄みたり
 県民投票という形を取らざるを得なかった一因は本土の「無関心」であり、問われているのは私たちである。

 と痛切に記されている。 

 また、加藤英彦「病んでいる日本へ」は、「梅雨空に九条守れの女性デモ」の句が、さいたま市公民館の「公民館だより」に掲載拒否されたことについての、当局の対応に対する論評であり、

 政治的な中立性とは特定の主張を隠蔽することではない。真に中立を守るのであれば、どのような主張にも表現の場を解放して自由な論議に委ねればよいのだ。表現の自由を保障するということは本来そういうことだろう。異議を唱えるのであれば、対抗言論で応じればよい。それが言論の自由市場である。

 と述べている。ともあれ、同誌同号より、いくつかの歌を以下に挙げておきたい。

  前山をおほふ桜に生(あ)れ変はる句を遺し逝けりふるさとの兄    桑原正紀
  死の日まで何年あるか書初めは「晩年渾身」の四文字えらぶ     久々湊盈子
  抵抗といふ言葉に元気湧きしかな戦(いくさ)に負けて十四・五年は  八白水明
  六十六年人生最後のつぶやきは「まあ いいや」なんてそれはないだろ 阪本ゆかり
  実るものに一言あらむ是非もなく柿もぶだうも種なしにされ      六道地蔵
  空仰ぎどうしたもんかとつぶやけば何とかなるさと雲が流れる    野上千賀子
  深々とつきし吐息に一斉の視線を浴びて昼の電車に         藤島眞喜子
  燻し銀の六角堂は荘厳に六道輪廻の説法を聴く            弓田 博
  もう二度と訪ねることのない施設もう聞くこと叶わぬ「またね」   吉村たい子
  今日や明日とは思わざる故それぞれが所望の最期を語りて笑う    渋谷みづほ
  平成は昭和の後始末なりて無言館にきく声なき声を         小田亜起子
  「モルダウ」の旋律ふいに浮かび来るわが脳裏にも絶えぬ川あり    石原洋子
  青刈りの稲より作るしめ飾りささかみ村の稲の香ぞする        吉田久枝
  讃歌といふもあまりに哀し苦しかる二年に満たぬ横綱在位       楠井孝一
  メディアにて目学耳学肥えきたるわれは五輪の評論家になる     久保田和子
  珊瑚から生りし島ゆえ竹富の海をましろき砂がふちどる        恩田てる
  兵たりし馬上の叔父の写真(うつしゑ)を祖母の棺にそつと入れたり 柏木節子  
   



2019年4月26日金曜日

大牧広「春北風のいのちをしぼるひびきして」(「俳句」5月号より)・・


 大牧広の訃に接した。4月20日、膵臓がんでの死去、享年88。ブログタイトルにした「春北風」の句は、「俳句」5月号の西村和子・佐藤郁良・鴇田智哉の合評鼎談「第5回『俳句』3月号を読む」の中から抽いた。大牧広との最初の出会いは、愚生と一緒に、現代俳句通信講座の講師を務められたときだ。その後、愚生が「俳句界」(文學の森)の世話になっていた時期に、金子兜太との対談などを含めてけっこうお会いする機会があった。何よりも、「俳人九条の会」の呼びかけ人になるよう要請されたのも氏の差配だった。第53回蛇笏賞に、句集『朝の森』(ふらんす堂)が選ばれていたのに、贈賞式を待たず逝かれた。とにかくご冥福を祈る。合掌。
 ところで「俳句」5月号(角川文化振興財団)は「総力特集・さらば平成」である。座談会のメンバーは宇多喜代子・正木ゆう子・小川軽舟・高山れおな・関悦史と魅力的な布陣だが、アンケートによる数字の結果を基調とした「平成百人一句」であるせいか、テレビ番組ふうの俳人人気度ランキングを見せるような企画になっている。とはいえ、覗き見趣味的な、通俗もきらいではない方なので、いろいろ、楽しませてもらった。しかし、なかでは、もっとも真面目に、平成時代の俳句を分析して読ませてくれているのは、鴇田智哉の巻頭随想・俳句に見る平成「俳句の不謹慎さ、そして主体感」であった。少しく引用したい。まずは、小見出しの「3 若い俳人の増加」に、
 
 ここでは「分析型テクニック派」とでも呼ぶべき作家が表れていることを挙げたい。 〈雨粒を恋ふ夕顔の首刎ねよ 生駒大祐〉〈顔痩せて次なる菊を持てりけり 堀下翔〉、少し上の世代では〈煮凝を纏ふや目玉転がせば 岡田一実〉などである。これらの句に共通するのは、助詞・助動詞への細かなこだわり、意味をくっきり結ばないこと(特に作中主体像をはっきり結びすぎない叙法をすること)へのあこがれではないかと思う。一つの大きな流れとしてとらえておきたい。

 と言い、また、「4 俳句と災害の関連」では、

「○○詠」という言い方を、(とくに読者が)何の疑問もなく口にすることは、俳句という形式に対するある「鈍感さ」が伴っている。句の外での情報で意味を補っているからだ。その鈍感さは逆に作者がどの程度被災した人か、ということへの敏感さへとつながる。句に意味を見出そうとする読み方が、その根底にあるだろう。しかし、俳句はそもそも、意味を申し伝えるものなのだろうか。意味に偏った読み方をしたとき露呈されるのは、俳句にまつわる鈍感さ、不謹慎さではなかろうか。平成にて大災害が起こり、それが俳句に影響を与えたことから、はからずも、俳句がそもそももっている、ある種の軽さ、不謹慎さが、顕在化したのだと、私はおもっている。
  
 と、述べているが、前記した、同誌の合評鼎談の中では、彼が三人の中ではもっとも若いせいか、すこしく遠慮がちで、不謹慎さが不足しているように思えた。そして、「5 おわりに(主体感について)」では、

 俳句を読むとき、あらゆる句には、その句特有の「主体」(のようなもの)が感じられる。たとえば、〈初夢のなかをどんなに走つたやら 飯島晴子〉〈たはぶれに美僧をつれて雪解野は〉〈空豆空色負けるということ 阿部完市〉〈墓石に映つてゐるは夏蜜柑 岸本尚毅〉の四句それぞれに別の「主体」あるいは「見えない語り手」(のようなもの)が感じられる。よく使われる「作中主体」というものともちょっと違う、俳句の一句一句にその都度オリジナルにたち現れる「おばけ」のようなもののことだ。(中略)
ちなみに、さきに挙げた「分析型テクニック派」の句から醸し出されるのは、幽霊のようにその都度たちあらわれるやわらかな主体感だったりする。古今のあらゆる句には、その句特有の主体感があり、私たちはそれをうすうす感じてきたと思う。ただ、俳句が語られるとき、これは今までの時代、あまり言語化されてこなかったと思う。主体感を感じ取る感性を育て、それを言語化して語ることは、これから俳句を読み、また作る上での鍵になるという予感が、私にはある。
 俳句というものの歴史が長くなればなるほど、登場する作家の数は積み重なり、読みの経験もうずたかく積っていくわけだから、単純にいえば、昭和の読者よりも平成の読者のほうが、俳句についてより豊かで幅広くかつ繊細な読みをすることが可能であると考えられる。次の時代はそれがさらに、進むということになるのはないか。

 と述べている。インターネットの時代がそれをさらに加速させ、その状況を支えることになっ来ているのだろう。ともあれ、同誌同号から、愚生の昔の仲間で好みの句を以下に挙げておきたい。

  よかったようなそうでなかったような春よ  宇多喜代子
  足元のおぼつかぬまま春立てり        仁平 勝
  太陽の溶けかかるかに霞立つ         澤 好摩
  木を植ゑてむかし天皇誕生日         桑原三郎



2019年4月24日水曜日

池田澄子「前へススメ前へススミテ還ラザル」(「俳句界」5月号より)・・



「俳句界」5月号(文學の森)の特集は「平成俳句とその後」と「不易と流行」であるが、この特集はその内実において、リンクしているといってもいいのだが(いずれも未来志向の企画)、面白さ、興味深さ、現在への批評的な眼差しからすれば、圧倒的に前者の方に指を屈したい。まず、座談会「平成俳句とその後を語る」のメンバーは、髙柳克弘、仙田洋子、田中亜美、生駒大祐。「平成を代表する句~7句選」では、西池冬扇、高山れおな、藤田直子、村越敦。ブログタイトルにした池田澄子「前へススミテ」の句は、藤田直子が選んだ句で、愚生も納得の一句。「豈」同人に贔屓すると言われても、そうだ、と答えるしかないが、他にも、池田澄子「アマリリスあしたあたしは雨でも行く」、そして、攝津幸彦「ぶらぶらを春の河まで棄てにゆく」「荒星や毛布にくるむサキソフォン」が入っていたのは、同志として素直に嬉しい。選者の高山れおな(「豈」同人)が「豈」のメンバーを入れていないこと、「平成年間に俳人として最も働き盛りだったのは現在六十前後から七十代の人たちだろうが、あえてその上と下の年代から入選した」というのも、彼の見識である。加えて彼の選句において、特集の平成以後を視野に入れた、

   知らない町の吹雪のなかは知っている    佐藤文香
 ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ       田島健一
 ヒヤシンスしあわせがどうしても要る    福田若之
 水かげろう根より枯れゆく虹と兄(せ)  九堂夜想 

(前略)後者では、さらに鴇田智哉、関悦史、生駒大祐らがいるのは言うまでもない。

 というのも、冷静にみてそうだと思うし、これも彼の見識である。その一人、生駒大祐は、上記、座談会の「AIは俳人を超えるか?」で、

 AIがモチベーションをもって詠むことは出来ないとおもいますが、俳句賞をとる確率はあるのではないでしょうか。一句二句なら当然ありうるし、連作でも数十句くらいなら出来るかと。そんな時代を生きる我々は「なぜ詠むのか」ということが考えるべき課題なのかなと思うんです。より本質的な議論なり考えなりが深まるというふうに、AIが作用する可能性もある。

 と延べている。この座談会そのものは、司会に髙柳克弘による問題意識がよく反映されていて内容のあるものにしている。例えば、

 髙柳 私は、もう少し俳人の虚の意識というか、フィクションの力を信じたい気がします。大事なのは、われわれはジャーナリストではなく、文学者であるということでしょう。震災や戦地の現実を伝えることが役目ではなくて、その真実を考えて、どう作品化するかということ。

 と、語り、結び近くでは、

(前略)私は社会から距離をとっている立ち位置なので、社会の真ん中にいる者には見えないものが見えるかもしれない。それが、今後ますます格差が拡大したり、しいたげられ、圧迫されたと感じる人が多くなって来る時代において共感を呼んでもらえるかもしれない。それは隠者文学たる俳諧というものの何か一つ大きな流れ、主流につながっていくのではないかと。疎外されたものから何が見えるのか、俳句を通して表現することが、自分の責務としてあるのかなと思います。

 と述べているのは、彼の覚悟を披歴したもの、といえよう。
 その他、佐高信の「甘口でコンニチハ!」のゲストはジャーナリストの安田純平。安田はシリアで拘束されていたときに、字余りの句「柿食えば涙がにじむシリアの暗闇」「柿あまく人生悔やむシリアの暗がり」と詠んだという。一度目の2004年には三日間拘束され、「人質」ではなく「スパイ」容疑だったと語っている。そして、

安田(前略)今回のことで、また〇四年のことが「人質」とネット上で言われています。このデマ・誤報が流れたことで、世界中の人々が「人質が解放されている。ということは日本は金を払うんだ」と思ってしまっているんですよ。今回の拘束者はまさにそう考えて私を人質にしたわけです。今回のことで特に言いたいのは、「拘束」と「人質」の意味は、全く違うんだということです。人質解放交渉のためには生存証明を絶対取らなければならないんですが、拘束された四十ヶ月の間、自分の存在証明はとられていない。生存証明とうのは本人にしか答えられない質問を聞いて、それが返ってくることで、その相手が本当に人質を捕まえていて、人質が生きている、という証明になる。写真や動画はいつ撮ったかわからないし、個人情報を書くだけだったら、半年前でも書けちゃうので証明になりません。
 外務省は二〇一五年八月に、家族から質問事項を聞き取っているんですが、それを私に聞いてきたのは、解放後の二〇一八年十月二十四日です。捕まっている間に確認を取らなかったということは、交渉すらしなかった、ということなんです。(中略)
 それはずっと考えていたので、どうすれば身代金うんぬんというデマをふせげるかと。奴らは、いろんな外国人をいっぱい捕まえていて、あわよくば金を取り、だめなら帰すということをしているわけです。解放されたときは、日本側が全然知らないということをはっきりさせて帰ろうと思っていたんです。(中略)
 さっきの「人質」もそうですが、もはや日本人が日本語の意味をちゃんとわかっていない。日本人が日本語を大事にしなくてどうするんだと思うんですけど。

 と述べている。つまり、04年のときに、メデアが「人質」と書いてしまい、つまり、身柄の代わりに何かを要求されたときに初めて使われる言葉が「人質」であるにもかかわらず、そうではないときに「人質」と書くメデアの危険性ついて、デマほど危険なものはないということでもある。



2019年4月23日火曜日

大森藍「一揺れもなき新緑の底にひとり」(『象の耳』)・・



 大森藍第二句集『象の耳』(金雀枝舎)、集名の由来について、著者「あとがき」には、

  句集名『象の耳)は〈かなしみのなほ秋風の象の耳〉の句に拠る。子どものころ親しんだ宮沢賢治の『オッペルと象』の童話が、なにかの祈りに胸に甦る時がある。こころやさしい象子ども時代の断片を拾うのだとすれば、なぜかこの象は、かなしみと共に私の内でリンクする。

 とある。帯の惹句は今井聖、それには、

 象の耳を見ては哀しいと思い、活断層の上に立つと己をひりひりと実感する。
 夕虹に祈りの色を加えては、阿弖流為の憤りを風の中に聴く。
 大森藍の作品世界には状況を見据えた上での「知性」と「想像力」が拮抗している。

 という。俳句を始めて25年、米寿の女性である。当然ながら戦争による体験、敗戦による価値観の転換、あるいは大震災の記憶は、いまだに鮮明である。それらの様々が句となって表されている。残された時間はもう長くない、と仰っているが、自愛を重ねて、さらに長生きをされ、様々を見届けていただきたいと思う。ともあれ、以下に愚生の好みに偏するがいくつかの句を挙げておこう。

   薄氷に夢寐(むび)の涙を閉ぢこめて     藍
   黴の書の傍線朱きより怒濤
   神の黙にんげんの黙梅ひらく
   踝に波の記憶や盆太鼓
   台風一過濁流に椅子起き上がる
   半分に満たぬ骨壺蟬時雨
   影を濃くわが髙空に鷹を飼ふ
   吊り橋のその先見えず春の雪
   「熊出ます」東北大学工学部
   つぎの世へ足を伸ばしぬ目借時
   時の日の道曲がるたび細くなる
   人類にセシウム蛇は穴に入る

 大森藍(おおもり・あい)1931年、宮城県塩竈市生まれ。



「しんぶん 赤旗」4月10日(水)↑

★閑話休題・・今泉康弘「松本竣介と街と渡邊白泉」(「しんぶん 赤旗」4月10日・水曜エッセー)・・・


今泉康弘「松本竣介と街と渡邊白泉」、松本竣介は36歳で亡くなった夭折画家。その代表作に「街」があるが、不思議な符号のように、1938年作の渡邉白泉「銃後といふ不思議な町を丘で見た」の句と同年8月に制作された絵なのだという。そのことを、

 この白泉の句は1938年作。俊介の「街」と同じ年の作である。「銃後」とは、戦場の後方や、直接戦闘に加わらない一般国民を指す。このとき、戦場は中国大陸にあったが、国内の全ての場所が「銃後」と呼ばれて戦争体制に組み込まれていあった。その「銃後」と呼ばれている町を丘の上から見る。町にはさまざまな建物があり、さまざまな人々が生活している。その姿は戦時色に染められていく。そこににじむ悲しみー。竣介と白泉、この二人の作品は同じ年に作られており、、どちらも戦時下の「まち」を描いた作品である。直接の影響関係はないのだけれど、ここには何かつながりがあるのではないだろうか?

 と記している。愚生が好きなのは、一般的で、彼の代表作だと思うが、立ち尽くしている青年を描いた「立てる象」である。今泉康弘は、戦前に当局から弾圧された新興俳句運動に造詣が深い。現俳壇では、新興俳句の研究者と言えば川名大を第一人者にあげるのにやぶさかではないが、その川名大を継いでいる志篤い青年俳人が今泉康弘である。
 余談だが、愚生の地元の府中市美術館にも松本竣介の絵が一枚所蔵されていたように思う(今、調べたら「ビルの横」らしい)。
 ともあれ、5回の連載を楽しみに読みたいと思う。

 ・松本竣介(まつもと・しゅんすけ) 1912年4月19日~1948年6月8日、東京府生まれ。
 ・渡邊白泉(わらなべ・はくせん) 1913年3月24日~1969年1月30日、東京市生まれ。
 ・今泉康弘(いまいずみ・やすひろ)1967年、群馬県生まれ。

 

2019年4月22日月曜日

髙橋みずほ「ひとつ卵てのひらにうけて子の光かな」(『髙橋みずほ歌集』)・・



 現代短歌文庫143『髙橋みずほ歌集』(砂子屋書房)、本集の作品には、髙橋みずほ第二歌集『フルへッヘンド』(各章題は象形文字にて、略)全編を収め、自選歌集の『凸』『しろうるり』『春の輪』『坂となる道』『ゆめの種』そして、愚生のパソコンスキルでは出て来ない文字の『?』の各集の抄出からなる。加えて彼女自身の歌論・エッセイ、そして、解説には、針生一郎「髙橋みずほとの出会いメモ」、東郷雄二「髙橋みずほと縦の時間」、古橋信孝「原初的な認識ー歌集『凸』評」、荻原裕幸「ずれながら音をー歌集『坂となる道』評」が収載されている。
 『フルへッヘンド』の著者「あとがき」の中ほどに、

 はじめて外国の言葉を訳すという手さぐりの仕事に、本来の、言葉と向き合う姿勢、言葉と真向かう苦しさの原点をみるような気がする。言葉への緊迫感の薄い時代にこそ、みずからの言葉とは何かと深く問う強さが必要なのかもしれない。顔の真中でひそかに成長し続ける鼻に重ねて、みずからの方向を見据えつつ、一搔きひとかき言の葉を堆み上げてゆく仕事をしてゆきたいと思う。

 と、志を述べている。その歌の特質について東郷雄二は、

 (前略)
  樹にあたる風を散らす葉の揺れを集めて幹の伸びてゆく先 (中略)

 髙橋の短歌が時間認識に重点を置いていることを明らかにする手掛かりがふたつある。ひとつは動詞の多さと、起動相の述語の多さである。たとえば上に挙げた二首目「樹にあたる」を見ると、「あたる」「散らす」「集める」「伸びてゆく」と一首のなかに四つも動詞がある。一般に作歌心得として一首に動詞はせいぜい三つまでと言われており、その心得に照らせば動詞過剰の歌である。動詞は「出来事」を表し、出来事は時間の中で生起する。だから動詞は歌の中に時間の流れを作り出す。髙橋が動詞を多用する理由はここにある。また起動相(inchoative)とは、「~しはじめる」という動作・状態の開始を表すアスペクト表現をいう。

 と、指摘している。あるいは、また、荻原裕幸は、

   紫陽花の花粒はじける六月に父の日ありてほのか雨
 
 私の短歌感覚は、この結句の字足らずに軽く躓く。書くことが溢れて、一首の姿を整え切れずに破調になる、というのならば理解しやすいのだが、、この字足らずは、少し補って「ほのかに雨は」などとすれば、容易に回避することが可能だ。それをあえて破調にしている節があるので軽く躓くのだ。この私のように、躓く読者が存在することは、たぶん作者にもわかっているのではないかと思う。むしろ作者は、読者にそこで軽く躓いて欲しいのではなかろうか。(中略)
 読者が躓くことによって、調子のいいことばの流れが、実は何を奪っているのかを示そうとしているようだ。理知的でかつ感覚的な、ある種の実験なのかも知れない。最後に、この作者の正調の秀歌も一首あげておく。

  ずれながら音を放ちてゆくように絵筆のあとにのこる彩り
 
 と、髙橋みずほ短歌の特徴を言い当てている。ともあれ、愚生の恣意的にだが、いくつかの歌を以下に挙げておきたい。
 
  さらさらと流れてゆく日々に追いつけぬ雨のひびきは      みずほ
  どの町に降る雨音も繰り返すくりかえしてはわからなくなり   
  人ひとり段ボール箱に守られて高架線下に眠り続ける
  今日という日の終わるも長針の重なりずれて始まりという
  天井へ向かうタクトにすべられて指揮者の上で音止まる
  電線につかまる鳥の足二本離すときをつかめず揺れて
  風が来て髪の誘いに絡まって抜け出られぬままの影法師
  川幅の太さのままに海となる北上川の長き圧力
  みどり葉のかじりとった青空に飛んでいったのだろうか虫は
  しんととろりと面のそこから白い秋はしんととろりと
  きれば切るほどねばりがでてくるとテレビのなかで刃物がうごく
  にんげんににんげんの影ひきてゆきたるいつまでもにんげん
   
 髙橋みずほ(たかはし・みずほ) 1957年、仙台生まれ。


 

2019年4月20日土曜日

武藤幹「風に乗り囀り届く獄舎かな」(第190回遊句会」・・



 一昨日、4月18日(木)は、第190回遊句会(於:たい乃家)だった。兼題は、囀り・山葵・卯波。一人一句を以下に挙げておこう。

    アートでディレクター「石飛公也」曰く
  山葵には明朝体が良く似合ふ       村上直樹
  卯波立つ灯台守のいた岬        中山よしこ
  囀りも訛(なま)りて聞こゆ鄙の宿    橋本 明
  災八年破船を洗う卯波かな        川島紘一
  とは言えどチューブの山葵の恋の果て  原島なほみ
  えべっさん卯波に乗って鯛を抱き     渡辺 保
  囀りをぬけて牧野の牛帰る       山口美々子
  山葵にも瞬間芸となる甘み      たなべきよみ
  幸あれと卯波にのりて令和来ぬ      石川耕治
  今は凪(なぎ)辺野古竹島卯波立つ    天畠良光
  「生検」の白黒つく日卯波立つ      武藤 幹
  カフェテリア言葉途絶えて卯波立つ    山田浩明
  囀りや忘れられたる遊園地        石原友夫
  卯波これフィッシュボーンアンテナに似る 大井恒行
   
☆番外欠席投句☆

  島を出る子等追ひかける卯波かな     林 桂子
  卯波立つペットボトルのサーフィン    加藤智也
  信濃来て蕎麦の切れはし新わさび    春風亭昇吉
  囀りにとけいる森の青さかな       前田勝己

番外欠席投句の一句目「島を出る」には、出席者中、圧倒的な11名の票を集めた。本句会、欠席投句史上最高得点とのことだった。次回、191回遊句会の兼題は、薫風・風呂・牡丹。




★閑話休題・・江良純雄「陽炎の向こうで鴉魔女となる」(元夢座第三回定例句会)・・


 愚生も、このところ句会への参加が少し増えて(もちろん、俳人としては、他の人達に比べて圧倒的に少ないのだが)、本日、4月20日(土)も、元「夢座」のメンバーと句会をした。
 1987年3月、紀伊國屋書店地下のカレー屋で発足した「夢座」句会が、先日、31年の歩みに一区切りつけて、解散し、元夢座句会のみは継続されている。近々、ニュースタートを切るための会の名、運営方が決まるらしい。元「夢座」代表の渡邉樹音は、投句せず、選句のみの参加だった。雑詠3句持ち寄り、席題一句は「鴉・烏」。
 以下に一人一句を挙げておこう。

   あらぶきしとどまりにほふ三椏の花    照井三余
   五月病まさかの眉の置きどころ      江良純雄
   銀幕に春の雪降るエンドロール      銀 畑二
   うとうとに烏兎怱々よ春の母       大井恒行

 次回は、5月18日(土)、ルノアール小滝橋店にて開催予定。




2019年4月17日水曜日

岡田美幸「電球が光り止まない傘の下眩しそうだね回転木馬」(『現代鳥獣戯画』)・・



 岡田美幸歌集『現代鳥獣戯画』(コールサック社)、タイトルに因む歌は、

  ぼくうさぎ さみしくないよカラフルな鳥獣戯画の中でダンスだ  美幸 

 であろう。歌誌「かばん」では、屋上エデンという別のペンネームで作品を発表しているという。短歌入門のきっかけについては、「あとがき」に、
 
 高校時代に福田淑子先生と出会い、その現代文の授業で短歌を知ったことがきっかけで短歌を詠むようになりました。福田先生と出会えたことと短歌に出会えたことが、私の人生で一番の幸運だと思います。

 とある。あるいは、現代短歌舟の会で依田仁美や原詩夏至から指導を受けているという。また、祖父は大工の職人だった、といい、

  職人は亡くなっても作品が残る。それは私にとっての希望でした。私も生きた証を残したい。

 とも述べている。冒頭の扉裏には「この本を作るにあたり伐採された木々らの冥福を祈る」という献辞もある。ともあれ、著者は若く、まだまだ未来がある。羨ましいかぎり、というべきか。集中より、いくつかの歌を以下にあげておこう。

  タートルはトータル何匹いるでしょう鶴亀算は足がいっぱい
  かたつむり歌えばきっとうたつむりト音記号の形のからだ
  水彩の光をたまに浴びながら海底散歩するナマコ姫
  季節って来たり過ぎたりしますよね捕らえて部屋で飼えませんかね
  使い捨てカメラが終わるまで撮って花火の真空パックをつくる
  空想とあらばすぐさま呼び出され遂に筋肉通のペガサス
  補助輪を外して土手を飛ばすとき全細胞はマッハのこども
  弁当の手羽先さえも飛びたがる青空のもとピクニックの日
  蛇花火 煙で夏を終わらせて思い出す度むせてしまうよ
  カチューシャはうさみみでって言ったのにメイドの少女がくれる熊耳
  空っぽのブリキの如雨露を傾けて水中花には無を与えよう
  山笑う さくらをすべて拾おうと花ぼらまみれになって踊った

 岡田美幸(おかだ・みゆき) 1991年、埼玉県生まれ。




★閑話休題・・遠藤若狭男「八月や海に敬礼して父よ」(「俳人『九条の会』通信」第21号より)・・


 「俳人『九条の会』通信」第21号(俳人「九条の会」事務局)、に昨年の「新緑の集い」の池田香代子「全体主義に抗するためにフランクル、ケストナー、アーレント」・遠藤若狭男「なんでもいいやい知らねえやい」の講演録が掲載されている。うち一人の遠藤若狭男は昨年12月16日に急逝した。改めて講演録を読むと、彼の持ち味のよく出た講演だったことが窺える。その講演の最後に女性俳人の句を引用しながら、彼には珍しく、はっきりした口調で、講演を終えているのが、やはり早逝の無念を改めて思わされた。

  囀や海の平を死者歩く     三橋鷹女 
  原爆手帳棺の母の懐へ     木田千女

  (前略)先生方の俳句とかいろいろな俳句から、戦争を知らない私ですけれども戦争は絶対反対、やってはいけない、アベ降ろせということを言いたいと思います。どうもありがとうございました。

と・・・。万雷の拍手が聴こえる。



2019年4月16日火曜日

髙橋龍「万愚節すなはち『面』の創刊日』(「面」124号)・・・



 「面」124号(面俳句会)の特集は「追悼 髙橋龍」である。表紙裏には献句されて、

   あぢさゐの地獄を花とおもひけり   髙橋 龍

 とある。北川美美が「後記」の冒頭に、

 発行人である高橋龍さんが一月二十日に逝去された。 (中略)
 一月八日に入院された龍さんは御自宅への原稿到着を幾度も確認し、退院後の編集作業に意気込んでいらしたそうだ。巻頭の宮路さん、北上さん、扉絵の桶谷律さんへは龍さんが依頼していた。よって今回の発行人は高橋龍のままとした。発行人本人の追悼号という奇妙な体裁だが、今後の面について、編集を引き継ぐアピールと思われることを懸念してのことだ。

 と記している。特集には、遠山陽子編「高橋龍『面』作品抄」42句。高橋龍の散文の抄出3篇、追悼句(岩片仁次他)35句と髙柳蕗子の1首。追想記には、「面」同人等。略年譜は今泉康弘、著作目録には酒巻英一郎が協力している。
 他にも、本号には「悼・山口澄子」の記事がある。角川「俳句」(昭和37年4月号掲載「白い奈落」30句と小論「発言」・山口澄子、昭和5年生)が再掲載されている。追悼句は二句、

    きびしくもやさしき筆の人に謝す   山本鬼之介
    片蔭の途切れ山口澄子死す       北川美美

 以下に本号「面」各同人の一人一句を挙げておきたい。

  真相はさうではなくて亀鳴けり     宮路久子
  葛湯吹くまだ哀しみには触れず     北上正枝
  屑かごへハラスメントを鬼やらい    網野月を
  夜は帰るつもりの鍵をかけ春嵐     池田澄子 
  
  母ヲ去リ
  邦ヲ去リ

  水漬ク頤               上田 玄

  去年今年遺言状は手つかずに     衣斐ちづ子
  芝浜の落ちの近づく火鉢かな      岡田一夫
  背の肉に沈む背骨や秋暑し       北川美美
  おぼろにて迷路に見えぬ迷路かな    黒川俊郎
  噛んで脱ぐ皮の手袋漱石忌       小林幹彦
  百歳の乳房うるわし草雲雀       渋川京子
  思ひ種あれば咲きたり忘れ草      島 一木
  石段で躓く果ての春うらら       田口鷹生
  白夜めく街扉把手(ドアノブ)のショールーム 遠山陽子
  夢を見た結果のこむら返りです     とくぐいち
  またの世の花時を云い薨れり      福田葉子
  金太郎のふるさとマップ敏雄の忌    三橋孝子
  異体字の名字のをんな秋扇      山本鬼之介
  宮刑を賜りしかば寒なまこ       山本左門
  流星の重さだらうか風邪心地     吉田加津代  

 そして、追悼特集・高橋龍「面」作品抄から、いくつか挙げておこう。

  眼のくぼに海くらき面流しけり      龍
  十字架に上(のぼ)れば見える朝の海
  徘徊は和歌のやつしを虎が雨
  死ぬる者あらかたは死に草蛍
  蒼ざめた馬繋がれて芽吹かぬ木
  逝く水の下ゆく水も春の水

    『日本海軍』と幻の戦艦
  駿河(するが)/烟(けぶ)れり(いはむ)や近江(あふみ)/
  夏霞(なつがすみ)
  
  初日拝(おろが)む高屋窓秋の忌なりけり
  青山を飛び立つ鴉白泉忌
  キリスト者弘達雁の空仰ぐ
  生前は死後に語られ秋深む
  懐かしのブンガワンソロ三橋忌
  御無体もこよひは為(な)されひめはじめ
  注(ちゅう)・((かつこ)退位は隠居)(かつことづ)
  山川に秋蝉丸を蟬翁は
  
 最期に、抄出された散文から、さらに以下に抄出引用しておきたい。「句集『後南朝』ながすぎる『あとがき』」(2001年7月8日)からの結び部分である。

 (前略)このような年表あそびの日々のうちに、この史上の南北朝に戦後俳壇の二つの流れを擬えるような考えが次第に生まれてきた。
 その擬えの北朝とは、俳句形式を、その形式により、外的な事象、自然や社会、内的な事象、心理や理想、その何事も書けると信じる人たちである。
 他方、擬えの南朝とは、俳句型式が書けるのは俳句のみで、しかも、現事態としてではなく、可能性の潜勢態としてである、と思うひとたちである。花田清輝のひそみにならえば、箱が大事か箱の中身が大事かでもある。 
  
 最後の最後、紙幅なく、ここは恐縮だが、愚生を含む「豈」同人のみの追悼献句を以下にとどめておこう。

  龍天に登るには未だ寒いのに      池田澄子
  龍天に青枯れの葉を玩味するか     大井恒行
  一角獣全裸の処女に従ひぬ       北川美美
  
  龍さんは
  無可有のはうへ
  行くんだね             酒巻英一郎

    高橋氏は江戸川区一之江の住なり。
    余もまた十数年来、同区北葛西にあり。
    冷雨蕭々たる春の夜、翁の登仙に思ひを遣りて。
  白玉楼中あれ御近所の後南朝     高山れおな 
    深悼
  ドラゴン・虚空・炎上・性・大神咒   筑紫磐井 
  命終の杖芽吹かんか又の世に      福田葉子

 髙橋龍(たかはし・りゅう)1929年5月8日~2019年1月20日。享年89.千葉県流山生まれ。




2019年4月15日月曜日

渕上信子「薔薇薔薇苑をはみだして咲く」(『現代俳句精鋭選集 18」)・・



 『現代俳句精鋭選集 18』(東京四季出版)、20名の俳人の作品102句と小論が付されている。ここでは、「豈」同人でもある渕上信子を最右翼に取り上げたいと思う。愚生は、ここに収載された略歴と論以外にまったく渕上信子について知るところはなのいのだが、句会で論議する姿や、彼女の句に取り組む姿勢の真摯さには並々ならぬものがあるように思う。「豈」の同人になられたのは、まず、ブログ上の「俳句新空間」に投句されて後でのことである。聞くところによれば復本一郎(鬼ヶ城)に師事し、昨年の「鬼」終刊まで句の研鑽を積まれたようである。作品蘭の末尾にある小論「『鬼』の実験ー短俳句」-」によると、

  (前略)その「鬼」が最後に取り組んだ「実験」が「十四音短俳句」です。これは、「子規による俳句革新」への更なる挑戦として、復本一郎(俳号。鬼ヶ城)代表により二〇一六年提唱されました。(中略)連句の短句に季語と「切れ」を入れて平句を「発句化」することにより、世界最短の定形詩を目指しています。(中略)
 短俳句についての私自身のルールは、①正確に十四音であること。②季語を含むこと、の二点です。発句の条件である「切れ」については、当面は緩やかでもよいことにしております。(中略)
 「鬼」の句会で、これまでに提出された短俳句は一千句を超えます。ここに少しだけご紹介します。
  野心なき日は冬薔薇買ふ   復本鬼ヶ城
  夏の山河の句を横書きに    朝倉水木
  銀河の端のホテル帆の形    木村珠江
  星月夜このわれが場違ひ    黒川安房
  腕に輪ゴムの跡草の市     角南範子
  おい屋上に冬が来てるぞ    平千枝子
  菊百鉢を育て偏屈       藤田夕亭
  カミングアウト薔薇盗りました 三浦 郁

 と記されている。愚生の記憶ではレンキスト・浅沼璞が、かつて短句を独立させた七・七の句作りをし、その作を発表していたことがある。従って、これまでも、七・七の短句のみの作を書いてきた人はいるとはおもうが、それを新たな定形創造の運動として展開したのは、あるいは俳句型式史上初めてのことかもしれない。
 ともあれ、渕上信子の俳句と短俳句を以下にいくつか挙げておこう。

   なまはげの去りたる闇に泣きやまず    信子
   うぐひすや青空文庫春琴抄
   ひるがへる国旗と県旗こひのぼり
   涼しさや般若心経「無」の字多し
   神留守となりて久しき地球かな
   まだ冬と思つてゐない冬の蝶
   苺に毒に母おはします
   ひぐれいつからずつとひぐらし
   死ねと書かれし壁しぐれ
   あの雪女声が野太い
   断捨離少しして後の雛

 渕上信子(ふちがみ・のぶこ)、1940年、大連市(旧満州)生まれ。

 このアンソロジーには、いかにも精鋭という俳人が入集されている。よって以下に、収録俳人の中からいくつか一人一句もあげておきたい。 
   
   生れんと決めし高さや蟬の殻       進藤剛士
   ウロボロス円環となり去年今年      杉 美春
   飼ひきれぬ金魚放ちて夜の沼        砂 女
   だきしめたしまはまるごとみなみかぜ   豊里友行
   死者も僕等も血潮のリレー甘蔗(きび)穂波  〃 
   深海へ死して鯨の沈みゆく        野崎海芋


2019年4月14日日曜日

大井恒行「雪花菜(きらず)なれいささか花を葬(おく)りつつ」(第5回「ひらくかい」)・・



 本日は第5回「ひらくかい」(於:府中市市民活動センタープラッツ会議室7A)だった。雑詠3句出句、選句は持ち点制で、一人6点持ち、ただし最高点は一句4点とする(一句に4点入れ、もう一句に2点を入れれば2句しか選べない)。従って、一句一点のみだと6句選べる。この方法での点盛りだと、一句一句の選句にも強弱が出てくる。それに予測できない面白さがある。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。




   はるきやべつめいろのでぐちきつとある ↑   鈴木純一
   花に濡れ岨を落ちゆく主従二騎         猫 翁
   笑みて去る衿擦りて桜東風           大熊秀夫
   花に雪喧嘩かぶりでゆこうかい        中西ひろ美
   船盛の骨美しき桜鯛              成沢洋子
   花を見をれば目まとひのののののん       渡辺信明
   添い寝して土筆と同じ空を見る         武藤 幹
   亡き友の谷中の桜見にゆかん        久仁郷由美子   
   根は風のうそぶく水を生きており        大井恒行





★閑話休題・・東國人「なぜ文語俳句なのか?」(「ペガサス」第4号)・・


「ペガサス」第4号(代表・羽村美和子)に「吟遊漫録」といういかにも子規をもどいた題のエッセイで「なぜ文語俳句なのか?」と、高校の国語教師であるらしい東國人が以下のように記している。

  私は、「や」「かな」「けり」という俳句はなるべく作らないようにしている。切れ字を用いると俳句が容易に作れてしまうからである。
 これからは、若い世代が自由に言葉を用い、新しい革新的な俳句を作るべき時代である。芭蕉も、子規も最初は俳句革新であった。

 という。切れ字をもちいれば、容易に俳句のようなものが作れてしまうのは、あくまで表面的なことで、ことは、それほど単純にはいかないのが形式のもっている奥のふかさだと思うが、たぶん東國人は、俳句界の現状の作品の余りのつまらなさにいらいらしているのだろう。なにしろ、戦後俳句の多くは、伝統派だって「や」「かな」「けり」は、なるべく使わないようにして新境地を拓こうとしたのだから、あながち、間違ってはいない。その志と奮闘をヨシとしよう。ともあれ、同号より、一人一句を以下に挙げておこう。

   早春の雑木林はピアニシッモ      中村冬美
   ジグソーパズル最後の一片春の星   羽村美和子
   丈六のあとかたもなし冬旱       檜垣梧耬
   仙人の肩を選んで冬の蠅        浅野文子
   「今日帰る」「元気でいろよ」七日朝  東 國人
   双六の途中の恋から抜けられず     篠田京子
   狐火がいつも方舟の正面       瀬戸優理子
   お小言は半分ハミング春の服      高畠葉子
   雪女成田の山を越え来たり      徳吉洋二郎
   丸腰のニッポン桜満開す        岡田淑子
   ヨガの呼吸法極め大白鳥        金子未完
   三陸鉄道終着は冬銀河          きなこ


2019年4月13日土曜日

白石正人「木蓮の咲いてなかつた手描き地図」〈第一回「濱丁句会」)・・



 昨日4月12日(金)は、初の「濱丁句会」(於:浜町区民館)だった。ときに花時雨の空模様だったが、若い人達の胸を借りて、まだまだクタバルわけにはいかない、と思いたいという希望ばかりが激しく・・・。出句は雑詠五句+席題「浜」一句。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。

   夕永し山羊の咀嚼の描く円      椎名果歩
   花千本地球は四股を踏んでゐる   鳥居真里子
   倒レテモ喇叭ハナサズサクラサク   福田鬼晶
   厭離穢土浜昼顔のあまた這ふ     白石正人
   花過ぎの一筋の白髪を祝ぐ     加藤又三郎
   うららかや黄身真ん中の目玉焼    引間智亮
   春霖や鬼の眼強(こは)き細密画    三輪 遊
   目を閉ぢて春の光に一礼す      市原みお
   花しぐれサーカス小屋のゆやゆよん  大井恒行



        4月27日(土)「俳人九条の会」新緑のつどい↑     


★閑話休題・・・梅雨空に「九条守れ」の女性デモ・・・


 上掲の作は、さいたま市三橋公民館の「公民館だより」に掲載を拒否された句だが、昨年5月に、埼玉地裁につづき、東京高裁で「俳句不掲載は違法である」(原告・77歳・女性)という判決が出された。来たる4月27日(土)「俳人九条の会・新緑のつどい」(於:北とぴあ)では、佐高信「護憲派列伝」俳人・衣川次郎「俳句は今どう詠むか」の講演がある。愚生も呼びかけ人の端に名を連ねているので、その案内を掲載しておく。また本家本元の「九条の会」は、5月3日憲法記念日の全国総決起を呼び掛けている。以下に転載しておこう。


  安倍改憲NO!の3000万署名を達成し、
         5月3日に全国津々浦々で総決起を!

 3000万署名を中心とした市民の頑張り、野党の奮闘によって、自民党は2018年の通常国会でも臨時国会でも、改憲発議はおろか自民党改憲案の審議にすら入れませんでした。けれども、安倍首相は改憲をあきらめてはいません。去る2月10日の自民党大会において挨拶にたった安倍首相は「9条に自衛隊を明記して違憲論争に終止符を打とう」と改憲の決意を改めて表明するとともに、その焦点があくまで9条にあることを強調しました。九条の会、市民アクションをはじめとする市民の草の根のとりくみに対抗し、改憲発議・国民投票を見据えて、自民党は289の全小選挙区で改憲推進本部の設立を急がせています。(中略)
 しかし、こうした安倍自民党の改憲の企みを阻むことは可能です。通常国会での改憲発議を絶対に許さない、そして参院選で改憲勢力3分の2を許さないことで、安倍改憲に終止符を打つことができます。それには、発議を許さず選挙で改憲勢力を打ち破る立憲野党の共闘と頑張り、9条改憲は絶対に許さないという市民の運動、この2つの力が不可欠です。
 九条の会も参加して取り組んでいる3000万署名をなんとしても成功させましょう。全ての地域、職場、学園で改めて目標を再確認し、地域に入ってさらに多くの市民に声をあげてもらいましょう。
 19年5月3日の前後には、すでに各地で憲法集会が企画されています。今年の5月3日を、市民がこぞって署名を持ち寄り、安倍改憲NO!の声をあげる総決起の日にしようではありませんか。

                   2019年2月22日 九条の会



2019年4月12日金曜日

国光六四三「大門の外に青葉のしだれをり」(句文集『すまし顔』)・・

 

 国光六四三句文集『すまし顔』(金木犀舎)、著者「あとがき」には、

 句集「すまし顔」には、昨年夏までにつくった俳句で、神戸「円虹」、横浜「街」、京都「玉梓」、兵庫の新しい「いぶき」そのほかの俳誌、句会や新聞の投句欄などで選者の先生方にひろっていただいた作品から、三百句をえらびだした。行動記録のようなものになった。
 十編の俳文は、おおむね昭和の俳句をめぐる評論で、インターネット上の個人ブログ六四三の俳諧覚書」の記事と合わせ、文章をくっつけたりひっぱったり、いくらか手直ししたものだ。古本を買いあつめたり、近隣の図書館や登場人物ゆかりの土地を訪ねたり、それなりに努力した成果物ではある。

 とある。ところで、集名に因む句は、

   秋祭帰る舞妓のすまし顔    六四三

 であろう。俳文の章の「切字考」では、多くを切字の働き、効果について論じているが、彼自身ひよる新説が披歴されているわけではない。ほかに俳人についての論考があり、そのなかでは、「草城の革新 虚構文学としての俳句」が読ませる。その結び部分には国光六四三の志向がよく伺える。

 (前略)俳句は、ただ現実の素材を写実的手法で描写するだけの記録・報告の雑文ではない。いくぶんかエンターテイメント性を愉しみながら周到にくみたてたフィクションによって、社会における人生の機微、自然から照射される人間の生命の真をとらえることができる芸術だと思う。むろん言捨(いいすて)の時代から続く談笑や慰撫の役割を担うことだってできる。

 とも述べている。なかでも愚生がもっとも嬉しかったことは、寺井文子のことを書いた「無名の俳句」である。とはいえ、著者がいうほど無名であったわけではない、と思う。愚生もその名を誌に見つけるのを楽しみしていた一人だ。その「琴座」には、同齢に近い方に、清水径子や中尾寿美子、そして、南上敦子、山上康子、森川麗子などもいたように記憶している。加えて、国光六四三が書くように、「戦後の神戸俳壇で活躍し、結社誌だけでなく中央の総合誌にも作品を発表し、三重で新聞読者文芸欄に選者を務めたりもした」のだから、少なからず、女性俳人として注目されていたのではなかろうか。俳人の多くは無名でありながら、見事な俳句をひそかに作り、あるいは発表する当てなく作り続ける俳人の方が圧倒的に多い。それを忘れないでおくために、記憶にとどめる意味で、本集のような著者の仕事が大切なのであるといえよう。寺井文子について、

 彩史は自らを「ロマンの残党」と称し、「厳粛なる抒情」を唱えた。これが「私の志」になったと彼女は書く。ロマンの残党とは草城の系譜をいうのだろう。

 と記されている。寺井文子(てらい・ふみこ)、1923・1・5~2000・2・20.『寺井文子遺句集』は夫・田畑耕作によって上梓された。
 本集の著者は、秀句鑑賞あり、俳句小説あり、なかなか多才の人。しかし、句よりもむしろ散文により彼の持ち味が発揮されているようにおもえる。例えば、秀句鑑賞の日野草城で、

   ものの種にぎればいのちひしめける
 大正十年頃の作。春まきの穀物や野菜、草花の種を手に握ったときの感触と音を活写する。のちにこの句を〈物種の握れば生命ひしめける〉としたのは、改悪ではないか。

 と述べているのは、具眼の指摘でもっともと思う。

 ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておこう。

   自転車の僧何処かへか花の朝      六四三
   年の豆こぼして鬼と拾ひけり
   退職の花束かろき朧かな
   地下二階の学習室に冬来る
   ビッグイシュー買ひ寒風の歩道橋
   夜を寒み死に人ばかり現はるる
   ふた椀の夫婦善哉うららけし
   牡蠣殻を砕くコンベア湾霞む  
   
 国光六四三(くにみつ・むしみ) 1957年、兵庫県生まれ。



2019年4月11日木曜日

久保純夫「いつよりか軍旗を孕む櫻の木」(『定点観測』)・・



 久保純夫第12句集『定点観測ー櫻まみれー』(儒艮の会)、著者「あとがき」に言う。

 架空と固有の間。地名をひらがなやカタカナ、漢字でない表記、アルファベットを使用した場合、像はいかように変化するのだろうか。なんとなく島尾敏雄の短編小説を想い出しているのだが、確とした像は彼方に在って、なかなかこちら側にはやって来ない。ただ断片としての映像は鮮明である。そんな地に定点を設置し、観測してみた。そして櫻に関する「ものとこと」を用い、すべての俳句を書いた。かつて、俳句とは「状況への意義申し立て」と書いたことがある。そのような視点を少しでも書くことができたのでああろうか。読者として、作者へのさらなる宿題としておくことにしよう。

 ならば、その定点観測地点とはどこか。本句集にある手掛かりは、各3章に分けられた地名、それをわざわざローマ字表記にしているが、果たしてその意図を、少しは深く読め、と提示されているように思うのだが、愚生には、いまだその像を確実には結べないでいる。それはじつに簡単なことで、愚生がその地を実際に訪れていないか、たとえ訪れていたとしても、それを明確にイメージできていないという、ついにそれを留めおくことが出来なかったという愚生の怠慢ということになろうか。とはいえ、目次を引き写しておくと、

 Ⅰ IZUMI・MUSASHINO
 Ⅱ KUMANO・YOSHINO
 Ⅲ TSUYAMA・MIMASAKA

 である。作者よりの読者への宿題として、まだまだ手をつけられないでいる。ともあれ、集中より、ワケなどなく、愚生好みに、いくつかの句を挙げておきたい。

  軀からけむりはじめる櫻かな       純夫
  姿見にあまたの嫗櫻小屋
  合掌を解きそれからの青櫻
  遠近に赤子があばれ里櫻
  生き血のみならず滴り櫻の木
  土瓶から出でし櫻を注ぎけり
  幾とせを妖姫と呼ばれ櫻雨
  夕櫻鬼から人へ変わりゆく
  飛花落花ともに消えゆく赤ん坊
  転寝を犯しておれり黒櫻
  顋門を眺めていたる白櫻
  優婆塞のさくらをわたる術ふたつ
  天上に櫻のひらく迂闊かな
  暴走を諾っており花筏
  徐にくろがねとなる櫻雨

 久保純夫(くぼ・すみお) 1949年、大阪府生まれ。
  



★閑話休題・・芹田鳳車「草に寝れば空流る雲の音きこゆ」(「自由律俳句協会ニュースレター」NO.4より)・・


 自由律俳句協会で「俳句投句欄”自由律の泉”」を新設するという。

 投句は一句作者記名、選者は「白ゆり」代表の棚橋麗未。選ばれた作品には選評が付されるという。締め切りは、4月末日、宛先は、193-0832 八王子市散田町2-58-4 平岡久美子 宛(選評不要の方は申し出て下さい)・

 ニュースレターの連載は佐瀬広隆「自由律俳句への窓(2)」、その一節に、

 自由律俳句では、真の自分に行き当って自ずと生まれた俳句が自己の俳句ということになります。
 行き方は違ってはいますが、俳句の行き着くところは定型の俳句でも自由律の俳句でも同じであると思います。定型の俳句でも囚われない自由な表現になっていなければ俳句としての共感は得られないと思います。
 自由律俳句では、「一人一境」、自己の感性の物差しをひたすら磨いてゆく(虚子のいう、「深は新なり」、井泉水の「泉を掘る」)こと、真の己の表現を追い求めてゆくことが自由律の俳句の道を歩むことだと思います。

 あひたひとだけびしょびしょのはがきいちまい  平松美之(星童)
 蛍一つ二つ闇へ子を失うている         河本緑石
 盗みせし子の親へ椅子をすすめる        七戸黙徒

 と記している。「自由律のひろば」なきあと、どこか背水の陣の感のある自由律俳句協会である。さまざまな試みをしている。



 6月1日(土)から、渋谷のユーロスペースで映画『ずぶねれて犬ころ』(監督・本多孝義)がロードショー公開される(住宅顕信の地元岡山ではシネマ・クレール丸の内で5月17日~23日)。



2019年4月10日水曜日

山本敦子「監視卑近になる日すぐそこ青峰忌」(『八月四日に生まれて』)・・



 山本敦子第一句集『八月四日に生まれて』(ふらんす堂)、序は高山れおな。跋は鈴木明。栞に筑紫磐井、関悦史、石田杜人。帯の惹句と集中からの10句選は高橋睦郎。第一句集で、今どき、これほどの贅をつくした布陣を餞とした句集は、さかのぼれば、序文を虚子、秋櫻子、野風呂、跋をしずの女、土屋愛子が寄せた「草城句集」あるが、近年には無く、また近い未来にも出会えそうにない。装幀・和兎。その高橋睦郎は、

   貝塚夕焼け人いつか死ぬ必ず死ぬ

 この光のような一句を得ただけでも、作者の敦子さんも読者の私たちも、十七音詩に出会えた至福を俳句の神に感謝しなければなるまい。

  と、記している。集名の由来については、著者「あとがき」に、

 以前、米国映画に「七月四日に生まれて」(一九八九年主演・トム・クルーズ)というアメリカ独立記念日に生まれた青年が、一九六〇年代のあの悲惨なベトナム戦争で、一兵士として負傷し、不具者になり、祖国を愛しているのに拘わらず、国家を訴えるという内容の映画でした。私は迚も感動し、その時ふっと浮かんだのが、将来もし私が句集を出すとしたら、私なら八月四日だなあと一瞬思ったのです。(中略)
 それに後日、私の敬愛する米前大統領バラク・オバマ氏の誕生日がおなじ八月四日と知り、決定的になり、結果、題名となりました。

 とある。栞の筑紫磐井「世にも不思議な物語ー『八月四日に生まれて』を読む」では、オバマ大統領以外にも有名人はいるとして、

 (前略)鞄作りの職人ルイ・ヴィトンと詩人シェリーだ。二人とも職人気質(シェリーは言葉の職人だろう)と言うところが共通しており、そのための偏愛者が多いのが特徴だ。むしろ敦子氏には、大政治家よりは彼らの方が相応しいように思う。

 という。さらに、磐井「南国の鳥よりお洒落主宰夫人」の句にまつわるエピソードを紹介している。あるいは、関悦史「弾んでしまう言葉の艶」では、

   言葉が出て来ないョー怖いョー落花

 この句の前に〈亀鳴くや強運信じて明日手術〉があり、脳外科の手術を受けられたらしいのだが、その怯えが「ョ―」の反復になってしまうあたり、「三尺の童」が生き抜くための底の部分にいることがわかる。
 この手術、御夫君の鈴木明氏は心配しつつ〈画像(モニター)灯りに妻の全脳矢印蝶〉〈敦子はねむるひたすらねむる夜の桜〉(『甕』)と詠んだ。いわゆるおしどり夫婦である。

 と述べている。そして石田杜人「天真の人」は、

 全体の句の息吹は、呼吸をするように吐き出されてきたが、その透過は繊細な感性のフィルターを持ち合わせていなければ成立しない。

 という。序の高山れおなとの出会いは、彼の仕事上(入社4年目あたり)でのこと「芸術新潮」に連載された林真理子の連載「着物をめぐる部屋」の担当編集者として、紀尾井町のホテルニューオータニの創作着物の呉服店「みや美」の経営者・山本敦子への取材時のお供に始まるらしい。句については、「耳の廃家で抱擁・静止 束の間 虫」などの一連を挙げて、

 (前略)俳句としては〈耳の廃家〉という隠喩と、端的な実況描写が融合したような一句目がいちばん面白い。具体的・分析的に読むのはあえて遠慮しておくが、ここから〈老夫婦になったんだ〉までのはるけさを思うと、やや胸が熱くなってくるのをとどめがたい。(中略)
 四十年近くにわたる作品をおさめるだけあって、この句集には以上記したのにとどまらない多面的な魅力がほかにもいろいろつまっている。読者諸賢にはぜひ、それぞれの気に入りの句をさがしてほしい。

 と述べている。鈴木明は「山本敦子の俳句は純乎としたダイヤモンドの口語体である」と言い、彼の好きな句は次の二句だという。

   あなたが居れば千倍きれい嵯峨野は雪
   七十過ぎてもムッちゃんアッちゃんかき氷
           (註:ムッちゃんは六男の兄) 

 ともあれ、集中より愚生好みの句をいくつか挙げておこう。

  寒紅拭えば貴方の呉れた幼な顔       敦子
    笠智衆死す
  「うん・うん」の間の夢見月智衆逝く
  かなかなや「草苑」終刊白表紙
  「灯(とぼ)ったえェ」母か誰かの声送り火
     みや美二十五周年
  白地着てわが半生は「お蔭さま」
  死ぬまで華やげ木枯が鞭を打つ
  送り火や妣よ教えは守ってます
  星の王子も後期高齢万愚節
  初しぐれ二人の家をひとり発つ
  全山紅葉まっ只中に憂さなどなし
     父親の子殺し記事より
  父の日の遠し「パパ」とひとこと言って餓死
  こころの藪から出てらっしゃいよ春だから
  おさぼりですかうとうと兎になって寝る
  長寿ってホントは大変餅焦がす
  花菜漬孤独にめっぽう弱い質(たち)

 山本敦子(やまもと・あつこ) 1942年、京都生まれ。



2019年4月9日火曜日

井口時男「紅灯とともに吹かれて寒の塵」(「てんでんこ」第11号より)・・



 「てんでんこ」第11号(七月堂)に、井口時男は「大寒の埃にごとく〈吉田和明〉追悼」と題して「てんでんここらむ」に書いていた。

 一月二十六日、吉田和明急死の報。私の一歳下。文芸ジャーナリズムの片隅で細々と食いつないで来た男だ。そして、酔った末の執拗な文学論で私が泣かせた二人目の男だ。(私はむかし、そんな飲み方を繰り返していた。)

 愚生は目を疑った。あの吉田和明か・・。愚生はもう10年以上、彼に会っていなかった。それは、愚生が地域合同労組の組合活動からすっかり足を洗ったからでもある。だから、彼に出会ったのもそうした抗議の社前行動の現場だった。それは、当時、彼が非常勤講師をしていた日本ジャーナリスト専門学校の急激なコマ数減に対する抗議、あるいは団体交渉促進のための、高田馬場近くにあったその専門学校への社前抗議行動に支援に行ったのだ(その後、略称・ジャナ専は解散閉鎖されたと思う)。
 愚生が彼に会ったのは、彼がちょうど『伝書鳩と三億円事件』を上梓した頃ではなかったろうか。会議では抗議行動への呼びかけのチラシを、いくぶん申し訳なさそうに手渡されたりした。また彼は、毎月、近刊の書籍を対象にした読書会を開催していて、その案内をFAXでいつもくれていた。愚生も1、2回は参加したかもしれない。しかし、だからと言って深く付き合っていたわけではない。会うと二言、三言の会話しかしなかったのだが・・。「こらむ」の結び日に井口時男は記している。
 
 木枯しに吹かれてふらふらと夜の街を行くあの痩躯を思い浮かべ、その後姿がふいに昏倒したまま息絶えたように思った。そして、しきりによぎる句があった。
   大寒の埃の如く人死ぬる   虚子
 これもよし、と思ったのだ。誰だって「埃の如く」死ぬのだから。そしてそれは、何より吉田和明という男にふさわしい死に方なのだ。(中略)
 一月二十三日朝、彼は路上ではなく、アパートの自室の布団の中で、目覚めぬまま死んでいたのだった。杖を必要とするほどのひどい状態で、何度も検査は受けていたが、病名はとうとう不明のままだったという。(中略)
 しかし、吉田の死には、やはり路上の方が似合う。
  紅灯とゝもに吹かれて寒の塵
 吉田和明よ、許されよ、私も同じ「寒の塵」なのだ。

 愚生も何かの縁で、彼を知り、井口時男を知った。その「こらむ」に彼の痩身の訃を認めることになったのも奇縁というべきか。合掌。ともあれ、同誌本号に井口時男「旅の手帖から 二〇一八年秋」の27句が掲載されている。いくつかを以下に挙げておきたい。

  秋惜しむ路地に「保田與重郎生家」   (桜井市)
  首塚や供花(くげ)やゝしをれうろこ雲 (飛鳥寺脇、入鹿の首塚)
  天川の秋へいざなふ「だらにすけ」   (電柱ごとに謎の看板「だらにすけ」)
  前鬼後鬼の炊煙のぼると見れば霧    (金峯山寺傍)
  秋山唄に共振れ(すいんぐ)もせよ大吊橋 (谷瀬の吊橋)
  霧雨も人語鎮めず奥の院        (高野山)

(注・「陀羅尼助丸」は胃腸薬、愚生の若き日、俳人・大西健司ゆかりの奈良の旅館で、事前に飲めば、絶対二日酔いにならないと勧められ、いまだに愛用している。)

 吉田和明(よしだ・かずあき) 1954~2019年。 



2019年4月8日月曜日

鈴木牛後「それぞれの青を雲雀と風と牛」(「藍生」4月号より)・・



 「藍生」4月号(藍生俳句会)の大特集は「鈴木牛後の世界」である。じつは「藍生」は、毎月恵送いただいているのだが、本号に限って、重ねて、黒田杏子自筆のスマートレターにより恵まれた。はて、何か別に理由があるのかな、と思ったが、とにかく、鈴木牛後を読め!、と言っているのかもしれない、と思った。何しろ、相当に期待の人である。
 ただ、本誌挟み込みで、第20回記念講演会「金子兜太の世界」(6月2日開催・於三鷹公会堂)での、黒田杏子+マブソン青眼とのトークセッションのチラシも入っていたので、これを聴きに来なさい、といっているのかも知れないとも考えた。それでも、せっかくの機会を与えられたような気分で、この大特集を読んだ。
 今、NHKの朝ドラ「なつぞら」も始まったばかり。北海道・十勝を舞台にした酪農家がでてくるので、鈴木牛後の酪農家風景を重ねて思ったりもした。
 鈴木牛後「角川俳句賞を受賞して」(「朝日新聞」北海道版(18年11月19日)からの転載に、

 私の農場では搾乳牛を放牧で飼育している。酪農といえば牧場に牛が放たれている風景を想像するかも知れないが、実は北海道でも放牧はもはや少数派となってしまった。栄養計算を基に牛に餌を給与する現代の酪農では、牛がどれくらい餌を食べているか把握できない放牧飼養はあまり歓迎されないからだ。

 とあって、この一文だけでも、彼の酪農に対する志(開拓魂?)と苦労が伺える。その意味では、鶏も平飼いではなくなり、ゲージで飼われ、農業も大型化・機械化、化学肥料へ転換されてきた。愚生は田舎育ちだから、子どもの頃にはまだ、牛や馬の一頭は、各農家で必ず飼っていた。耕運機が普及するまでは、田を掻くにも、畑を耕すにも、運搬するにも牛馬が必要だったのだ。そういえば、豚も飼っていた時期もあった。いわば現代の酪農家の実情や有り様が、鈴木牛後の句やエッセイによって、ああ、そうなのか、と知ることも少なくない。生活と句作は、彼のなかでは一体のものである。例えば、黒田杏子の「選評と鑑賞」には(平成二十六年八月号)、

  (はな)を見(み)ぬ牛(うし)と花見(はなみ)をしてをりぬ   
                           北海道 鈴木 牛後

 鈴木さんからときどき手紙を受けとる。「斉藤凡太さんの生き方と作家姿勢に学んで自分を高めてゆきたい」と。凡太VS牛後、つまり米寿の磯貝漁師と五十代の牛飼い。藍生には二人のすごい作家がおられる。勇気が湧く。

 という具合だ。あるいはまた(平成二十九年十二月号)、

  (ゆき)を前(まえ)に話(はな)すこの世(よ)のことばかり
                           (氏名 略)
 牧場主である。五十五歳のこの人がこんな句を詠まれ投句される。この世のことばかりが妙に面白い。深くこころに残る。仕事にも夢と希望を抱いている牛後さんの俳句には全く独自の世界が蔵されている。

 とも述べている。愚生には、こうした向日性は自句において不足している。では、鈴木牛後は句会に参加する時間が持てるのだろうか?こう書いてある。

 札幌の句会に参加している。今月も参加することに決めて、ヘルパーさんも頼んで準備万端だった。ヘルパーさんのことは以前にも書いたが、酪農家が休日を取るときに、代わりに搾乳などの仕事の世話をしてくれる人のことだ。

 だが、このエッセイがが書かれたときには、急に、一頭の牛が倒れて、句会に行くことを断念している。ともあれ、本誌本号に掲載された句の中から、愚生好みになるが、いくつか以下に挙げておこう。

   話し出す前の呼吸に雪虫来        牛後
   初雪がくるつれてくるついてくる
   初雪は失せたり歩み来し跡も
   ストーブを消せばききゆんと縮む闇
   トラクターに乗りたる火蛾の死しても跳ね
   雪虫の風のに触れゐて吾に触れず
   色鳥のまぢかに鳴いてははるかなる
   祈る手に骨のかたさよ蔦紅葉
   しぐるるや死して牛の眼なほ大き
   初霜の餌場に牛の歯を拾ふ
   熱源のごとし深山の山桜

 鈴木牛後(すずき・ぎゅうご)、1961年小樽市にて出生、網走郡美幌町で少年時を過ごす。


   

★閑話休題・・我妻民雄「飛ぶといふより初蝶の飛ばさるる」(「小熊座」4月号より)・・   

「小熊座」4月号は、特集「我妻民雄句集『現在』」である。執筆者は、栗林浩「民雄俳句の真実ー句集『現在』」、武良竜彦「我妻民雄句集『現在』考ー『余雪』の動的存在詠から存在の『現在』性へ」。一句鑑賞には、安西篤、増田まさみ、遠山陽子、及川真梨子。武良竜彦には、他に「俳句時評」で「八年目の『震災詠』考(2)ー短歌界の震災詠の視座」があり、興味ある指摘を多くしている。が、

 原発はむしろ被害者、ではないかちいさな声で弁護してみた 岡井隆(『短歌研究』五月号)
 私たちが原発批判によって豊かさを享受してきた事実。その視座なしの原発批判の言辞など偽善である。この視座がこの年の俳人にあっただろうか。  

  
 という部分には、いささか、筆が走り過ぎているのではないかと思った。もともと俳句は断念の形式である。「豊かさを享受」することと「原発批判」は、ありていに言えば、別の問題である。極端にいえば、たとえ偽善であっても善を成せ・・である(でなければ、現実的には原発稼働の推進に加担する結果になる)。岡井隆の歌をイロニーではなく、まともに評価することはたぶん愚生にはできない。そうしたなかで、佐藤通雅の歌は、かつても今も一貫して信頼のおける歌である。

 目に見えぬ放射能恐るる贅沢を遠目にすこちらは逃げ場などない  佐藤通雅
                             (『短歌往来』七月号)

 武良竜彦の時評は連載で、次号からは、俳人個々の検証に入るそうなので、刮目して期待しよう。


2019年4月7日日曜日

島田牙城「吾に無き汝が櫻こそとこしなへ」(「里」二千十八年十一月号より)・・



 「里」No.188(2018年11月号・里俳句会)、島田牙城は「あとがき」に、遅刊を回復するのは、月二冊ずつ刊行するとして本年9月になると記している。「里」にはしばらく平成時代が残るのだ(イイネ!)。今でこそ、多くの俳誌がきちんと刊行日を守って刊行されているが、愚生が若いころ、いやもっと昔は、さまざまな事情があって、俳誌の遅刊は当たり前だった。攝津時代の「豈」は3年間も出なかったことがあり、それを自慢している同人がいるというので、攝津幸彦は自身、嘆いていたことがあったくらいだ。
 とはいえ、「里」は今号も、特集の「谷口智行著『熊野、魂の系譜Ⅱ 熊野概論』評」を含め、読み応え、かつ興味ある内容が豊富である。谷口智行著の特集にからめたわけではないが、堀下翔「里程秀句」の、「10月号作品評」では、

  秋めくも秋めかざるも秋なれや
「あきめく」を雰囲気たっぷりに引き伸ばしてみせたのがこの句の妙味。誤解している人も多いが「なれや」という連語中の断定の助動詞「なれ」の活用形は命令形ではない。秋であれ、ということではないのだ。実はこれは已然形で、「や」を係助詞と解釈すれば疑問・反語の「秋だろうか」となり、間投助詞と解釈すれば詠嘆の「秋だなあ」になる。味読の際にはご注意あれ。この句は当然後者。

 と、ある。あるいは、田中惣一郎「俳句史を想うということ」には、楠本憲吉句集『隠花植物』(版元を変え三度刊行されている)をめぐって、その最初の刊行である「なだ万隠花植物刊行会」のものは表題が「陰花植物」であると述べ、長くなるが以下に抄出する。

 (前略)句集の中身についてはこの際措く。この題簽の表記が違っている点について、磐井は現物を表紙以外は見たことがなかったため気づかなかったようだが、なだ万本の『隠花植物』の題簽は、誰あろう、久米正雄の手によるものなのだ。
 ちなみに本書には編集者として髙柳重信に名が見え、校訂に重信の弟で、印刷所を持っていた高柳年雄の名もあるから、この句集刊行は髙柳重信肝煎のものであったろう。
 全く推測に過ぎないのではあるけれど、しかし、私はここに歴とした純な憧れを見る。権威への、ではなく、歴史に対するそれをである。彼らは久米に託して、久米へ、そして碧梧桐へ、失われつつある歴史を夢見たのではないか。
 誰が言い出してこの大儀を取り付けてきたかもはや知るべくもないが、久米正雄の題簽なればこそ、誤表記といえど替えられなかったのだろう。久米はこの句集刊行の翌年三月一日に亡くなった。

 これもまた、俳句史への美しい夢であるにちがいない。



★閑話休題・・金子兜太「遊牧のごとし十二車輛編成列車」(「遊牧」NO.120より)・・


 「遊牧」NO.120(遊牧社)は創刊20周年記念号である。上掲の兜太の句は、兜太に誌名「遊牧」の許しを得たものである。各同人の自選15句とミニエッセイが寄せられている。なかに、大畑等の句もある。彼のミニエッセイはないものの「遊牧」代表の塩野谷仁が句を選んでくれている。彼が亡くなって三年が経つのだ。享年65だった。生きていれば、現俳協の現在を、間違いなく有望視され、背負っていく一人になったはずである。ここでは、その大畑等と「豈」同人の坂間恒子、そして本誌代表・塩野谷仁の一人一句を以下に挙げておこう。

   あかいあかい四万六千日のバッハ    大畑 等
   次の間の椿が声をあげており      坂間恒子
   たしかなる霧となるまで霧歩く     塩野谷仁