2020年8月31日月曜日

永井荷風「戦ひに国おとろへて牡丹かな」(『美しい日本語 荷風Ⅲ』より)・・




 持田叙子・髙柳克弘編著『美しい日本語 荷風Ⅲ』(慶應義塾大学出版会)、帯の惹句に、

 一切のそんたくをしない / 永井荷風の生誕一四〇年、没後六〇年を記念して、荷風の鮮やかな詩・散文・俳句に読む、真に自由なことばのアンソロジー。

 とある。まず第一部「荷風 散文・詩より」持田叙子の目次を紹介すると、大項目に「人の命あるかぎり/自由と平和の歌」と「『断腸亭日乗』と戦争」である。が、ここでは、第二部の「荷風 俳句より 髙柳克弘」に登場していただこう。まず、冒頭に、

 表層的な欧化政策を進める明治政府を、「猿真似」「醜悪」と容赦なく切り捨てる荷風の、権力の虚妄を暴く批評精神は鋭い。それ自体が芸に達しているといってもいい。
 だが、荷風俳句において世相批判をなそうとはしなかった。荷風にとっては、俳句は権力と戦う武器ではなかったのだ。

 と述べる。そして結びには、

 専門俳人は流派を確立するため、みずからの俳句観を煮詰めたスローガンを案出しなくてはならない。高浜虚子の「花鳥諷詠」や河東碧梧桐の「無中心」は、その典型である。そのスローガンが、流派の中に排他的空気を生み出し、本来「俳諧自由」(『去来抄』にみられる芭蕉の言)であるはずにもかかわらず、その自由さを制限することも俳句史上、珍しいことではない。
 専門俳人ではない荷風はその点、俳句はこういうものである、という一面的な言説を持つ必要もなく、詩を感じられればそれでよい、という鷹揚な態度である。人生の問題を深刻に扱っても良いし、扱わなくても良い。内容は何もなくて言葉が心地よいというだけでも良いし、口にしたときの調べが美しいというだけでも良い。なんとも気楽で、自由な態度である。「自分は書家でも俳諧師でもない」(「にくまれぐち」)と自認して、ことさら俳句とは何であるかを定めない荷風の俳句は、真の意味で自由であった。

 と記している。むべなるかな。ともあれ書中よりいくつか、荷風の句を孫引きしておこう。

  子を持たぬ身のつれづれや松の内      荷風
  長らへてわれもこの世を冬の蠅
  筆たてをよきかくれがや冬の蠅
  羊羹の高きを買はむ年の暮
  深川や低き家並のさつき空
  両国や船にも立てる鯉のぼり
  涼風を腹一ぱいの仁王かな
  稲妻に臍もかくさぬ女かな
  かたいものこれから書きます年の暮

 永井荷風(ながい・かふう) 東京生まれ。1879、12.3~1959.4.30
 持田叙子(もちだ・のぶこ)1959年、東京生まれ。
 髙柳克弘(たかやなぎ・かつひろ) 1980年、静岡県生まれ。



   撮影・芽夢野うのき「晩夏百合月待ちいろになりたがる」↑

2020年8月30日日曜日

星永文夫「黄泉へ征く裸まつりの男たち」(「We」第10号より)・・




 「We」第10号(We社)、注目は、招待作家・星永文夫の作と、星永文夫論ともいうべき加藤知子「星永文夫句集『俗神(ぞろぞろ)』を読んで~飢餓浄土への道」であろう。愚生は『俗神』は未見であるが、先に「俳句界」9月号において、その自選5句のなかに、

  駅頭に老いて 春にて われら棄民   文夫
  おい同志 火をくれないか 国は雪

 があって、いまだに一字空白の技法を、伊丹三樹彦とは違った形で実践していることに、いささかの感銘を受けたのだった。一字空白の技法については、かの富澤赤黄男に指を屈するが(その技法を丹念に読み解いた高原耕治の大部の一書がすでにあるが・・・)、「俳句界」9月号において安西篤は「俗神(ぞろぞろ)の世界-星永俳句を読む」で、「近来まれに見る個性的な句集である」と評していた。また、本誌本号の加藤知子は、

 (前略)星永は、昭和八年、熊本八代郡千丁村に生まれた。十二歳で終戦を迎えたことになる。
 村に戦争があった日 たんぽぽ絮に      「産の神」
 立志はすべて川に棄てた 立冬の朝だ     「 〃 」 (中略)
 せんだんの花 憂国に薄すぎて        「祈請神」(中略)
 星永は、これまでの人生の折々に、十九の神を連れ立ち、極私的に言語表出する。過去の源郷に繋がる路地のような、過去と現在を行き来する十九の神々を文学上の伴侶として対話しながら生き変わりしてきたのだろう。(中略)
 そのように観てくると、いま、星永はこれまでの惨たらしい人生を曝ゖ出して自ら創りだした神々に〈ことばの贄〉を捧げ、土地の精霊(地祇)と共に我が身をも鎮めて、生き変わり死に変わりを果たしたいのだと思われる。

 と述べる。また本誌の星永文夫俳句作品の下段にしたためられたエッセイには、

(前略)「土手に寝る 白いくれよんの音階で」(『100/67』所収)のごとく。自己を穏やかに肯定する。これはやまとびと(・・・・・)から受け継いだ私の〈血〉の所産なのだ。
 私はこのように一方では〈智〉によって存在を否定し、他方では〈血〉によって自己を肯定して生きて来た。〈智〉と〈血〉の渾沌・混迷の中で、そのありよう(・・・・)を何とかかたち(・・・)にして来たのだ。そのどうしようもないかたち(・・・)が、私の〈うた〉なのである。 

 と、記している。ともあれ、本誌本号より、星永文夫「ペストふたたび」からいくつかと、「豈」同人、もしくは面識のある方の一句(首)を以下に挙げておきたい。

  茄子の馬ゆっくり 死者を置いて去る      星永文夫
  さくらまんかい 〈不在〉というが坂を来る
  天上に口笛 きっと病む兄 きっと初夏
  手ざはりが違ふ気がする麦の秋         森さかえ
  もう待てないと百八つ目の鐘が言う       加藤知子
  卯の花腐し書庫に刃物の二三本         秋尾 敏
  眠りたくて瀧がごわごわ泣いている       江里昭彦
  大袈裟なことばかり箱庭の夜         真矢ひろみ
  なぜいまここでねむってしまうのかみんながとてもさけんでる中 柳本々々
  夏休み蟷螂揚羽玉虫をひそかに愛す孤独はオモチャ       加藤知子



  撮影・鈴木純一「捨姥待月(としおいしははをすてんとつきをまつ)」↑

2020年8月28日金曜日

今井聖「炎天の壁に『融資可』『日払可』」(『九月の明るい坂』)・・




 今井聖第4句集『九月の明るい坂』(朔出版)、著者「あとがき」に、

(前略)目に見ることのできるナマの「現実」を起点とすること。それだけが子規の「写生」の理念だったにも拘わらず、爾来百二十年間その理念に古い俳句的情趣が必須のように塗(まぶ)されて来た。諧謔、飄逸、風雅、枯淡などの意匠から「写生」を先ずは解き放ち、そこに「今」と「私」を滲透させたい。そう思って作っている。

 とあった。けだし、子規の俳句改革の理念は達成されるどころか、俳諧への先祖返りしているというのが今井聖の認識のようである。愚生もまた、かつて坪内稔典が、子規に倣って唱導した、俳句は「過渡の詩」であるという輩である。その意味では、今井聖とは目指すところが異なるかもしれないが同志である。また、集名に因む句は、

  永遠に下る九月の明るい坂       聖

 であろう。ともあれ、集中より、愚生好みに偏するがいくつかの句を挙げておこう。

  貴兄畏兄雅兄大兄春空に
  歩み来る白鳥の白は飢ゑの白
  曼珠沙華日和柳美里(ユウミリ)梁石日(ヤンソギル)
  駅から五分冬怒濤から五十年
  夏逝くやマジカマジカヨと鸚哥
  共にマスク契約書面の甲と乙
  バーコード探す西瓜を回しつつ
    子規庵
  絶筆の一句斜めや冬の月
  扁額と遺影の距離を蜘蛛走る
  夏帽上ぐ防弾硝子の裡側で
  十段の空気投げ見し冬日中
  ぶらんこのねじれ戻らず父帰らず
  流体として我は在り青芒

 今井聖(いまい・せい) 1950年、新潟県に生まれ、鳥取県に育つ。

  

★閑話休題・・関朱門「わが死後の藻の花きつと花のまま」(「門」9月号)・・・


 「門・鷹燈集」の関朱門が亡くなられた。彼の名のところには、すべて黒線が付ふしてあった。今年に入ってからだったと思うが、コロナ禍直前に、「門作家作品評」を書かせていただいた折に、彼の句の「のうぜんのスキャンダラスなきつね雨」に、中也や、福島泰樹の「・・・スキャンダラスな女ともだち」の歌などを絡めて評したのだが、丁寧なお便りをいただき、病の様子など微塵もうかがえなかった。愚生と同世代だったと思うが、残念である。「藻の花」は「喪の花」になった。いささかの覚悟があったようにも思われる。同号の「放心の一寸先の蚊喰鳥」にも闇がひかえている。今月の「門作家作品評」は安里琉太で、彼の評している句は、

  はくれんの浮かぶ真昼の枕かな    関 朱門

 であった。ご冥福を祈る。「朱門などと門燈を梅雨に足し 恒行」合掌。ともあれ、同誌同号からの追悼句を以下にあげておこう。

      悼 関 朱門様
   あれは朱門よ閂に来てほたるの火    鳥居真里子
   青しぐれああ関朱門永遠に亡し      鈴木節子

   

        芽夢野うのき「数珠玉をつなぐひとつひとつが愛の珠」↑ 

2020年8月27日木曜日

詠人知らず「姫螢ためらいもなく闇に添ふ」・・・



                 詠人知らず10句↑

 長年句を書いているせいか、愚生にもごくたまに、見知らぬ人から、句を送られてくることがある。批評せよ、とか、添削して下さいとかも何もないので、だいたいはそのままに打ち捨てておくのだが、素人、しかも俳句的な修行などしたこともない様子で、それでも、なかなかな心が宿っている様子の句であったので、本ブログの気ままな肴にしようとアップさせていただくことにした。確かに、これらの句に、いさささかの句歴があれば、テニオハに工夫を加えて、句姿も内容ももっと飛躍的に良くなると思える句があった。よって原句のままで、いくつかを以下に紹介しておたい。詠人知らずだから、著作権ご免である。

  白象の背に揺られゆく花曇り     詠人知らず
  五月雨や白々灯る浮身宿
  白牡丹奈落をすぎてこの一輪
  海鼠皿あえかに青き息を引く
  葉桜や荒ぶるものが翳に立つ






★閑話休題・・宗近真一郎『詩は戦っている。誰もそれを知らない』(書肆山田)・・


 帯の惹句には、

 けっこうな難路であるようだ。雨空の電線に深紅のリボンが結ばれている―「詩」が書かれる。現れ出るものがあり、読む者に届こうとする。読者は何を受け取るのか。詩と思考が手さぐり行く隘路に伴走し、その支えの無い宙空をかきわける現場記録。

背には、

 詩の「いま・ここ」を問う/問い尽くす

 とある。まだ、最初の「その結び目は予め解(ほど)かれて在るーまえがきにかえて」の次の部分に、先日の本ブログで、「俳句界」9月号の田島健一「難解句について」を少し引用したが、そのことに、繋げて読んでみたのだった。

 (前略)叙事には、言葉にできない激情(自己-への怒り、に投影される)のためにアウトフォーカスになった光彩を、もういちど言葉に回帰させるというエクリじたい、出来事‐化を引き受ける想像力(イマジネール)において、主体は複数化し、現実と非現実、存在と不在のあいだで宙吊りになり、削除される寸前のところで揺らいでいる。つまり、叙事は抒情の懸崖からはじまる。(中略)
 ひとつは,詩作品が「出来事」に成り上がるには、詩作それじたいが詩作以外の全てに代償されるくらいの「手続き」と「デリバリー」を通過するという隘路へと奪回されねばならず、ふたつには、詩的行為はその固有性を擬態した「内容」においてではなく、その騙りがそうであらねばならない「形式」へと追い込まれ、作品というものの無‐根拠性がむき出されるべきである、ということだ。

 と、記されているが、魅力的な書名「詩は戦っている。誰もそれを知らない」にかこつけて「俳句は戦っている。誰もそれを知らない」と言いたいのだが、どうやら愚生の力は及ばない。先の田島健一青年あたりに頑張ってもらうしかないようだ。
 ともあれ、本書は詩の時評に多くが割かれているのだが、読み通すには、果てしなく、先が長そうだ。興味のある方は、その活きの良さを手に取っていただきたい。

 宗近真一郎(むねちか・しんいちろう) 1955年、大阪生まれ。  


  撮影・鈴木純一「捨姥待月(としおいしははをすてんとつきをまつ)」↑

2020年8月26日水曜日

武藤幹「土用波沖より藍を削り来る」(第16回ことごと句会)・・




 新型コロナ禍、愚生のような老人には、非常事態宣言のときより、今の方がはるかに危険!自粛自衛にのみ・・・。第16回ことご句会〔8月15日(土)紙上〕、雑詠3句と兼題「都」1句。以下に一人一句を挙げておこう。


  秋暑し方舟の浮く大都会        渡邉樹音
  リハビリの妻の前より夏の来る     照井三余
  終戦記念日ノ直立不動ノ立葵      金田一剛
  艶やかに手話手話手話と遠花火     江良純雄
  晩涼や鱚の刺身に一升瓶        武藤 幹
  いつもいる泣くに泣けない子どもに夏  大井恒行



    撮影・芽夢野うのき「闇に浮かぶ無花果青し手にとれぬ」↑
  

2020年8月25日火曜日

高山れおな「神君の鷹野の記念写真なし」(「俳句界」9月号)・・




 「俳句界」9月号(文學の森)、特集は二つ「宗教と俳句」と、「難解句の楽しみ方」。「豈」の同人だった人も含め登場しているので、触れておきたい。
 総論の田島健一「難解句とは何か/〈出来事〉の遅れと句の〈歪み〉」は説得力のある内容だった。それには、

 (前略)この「句が書かれること」に対する「分かること」の時間的遅れ、―「分かる」ために遅れて訪れる〈出来事〉―これこそが俳句という短い表現型式の重要な性質を定めているとは言えないでしょうか。
 「書かれた句」と「分かること」のあいだに漂う「書かれた句の意味がまだ了解されていない」時間、これが句を「分からない句」―つまり「難解句」にしています。
 「分かる」とは「分からないことが分かる」というダイナミックな知の状態変化の呼び名です。もしその句が読んですぐに「分かる」のだとすれば、それは句の意味が「分かった」のではなく、「(既に)知っていた」情報が句に書き込まれていたに過ぎないと言えるのではないでしょうか。
 (中略)
 難解句とは何かーその問いに答えがあるとすれば、それは句が意味を結ぶための〈出来事〉の時間的遅れと、俳句を俳句たらしめている俳句型式の〈歪み〉に他なりません。
 
 と述べられている。また、特集に、搭載された各俳人の自句自解の付された句は、

   末は闇屋と答えし少年鰯雲      鈴木 明
   COVIDが白い仮面で春暮れて   西池冬扇
   六月を人類の卵でゐたる      鳥居真里子
   神君の鷹野の記念写真なし     高山れおな
   麻痺(しびれ)には
   まんげつさうが
   ききませう             外山一機

であるが、ブログタイトルにした高山れおなの句の自解には、

  私は基本的に、意味がわかるように作りたいと思っている。にもかかわらず難解と取られるとしたら原因は主に二つ。①単語・典拠がわからない。②俳句観のずれ、読み手が俳句に期待する範囲からの逸脱。
 掲句は未発句で「鷹狩」の題詠だ。家の中で、机に向かって、独りぼっちで作った。鷹狩は王朝和歌以来の冬の題目だが、もとより実地の知見はなく、大歳時記でも例句は乏しい。(中略) 
「神君→徳川家康→鷹狩好き」で句意は明快なはずだが、日本史にうとい人は神君でたちまち躓くだろう。また、神君=家康はわかっても、想像的な歴史詠でかつナンセンス志向という内容に反撥する向きもあろう。そんな次第で①と②のいずれにも一定程度該当するのは確実と予想されるのである。

 と、明快に述べられている。愚生が思うに②の俳句観のずれ、というかそれだけで読もうとする努力を放棄している人たちも意外に多いように思う。
 あと一つの特集「宗教と俳句」には、これはかつての「豈」同人ということで、平田栄一の句をあげておくが、稲畑廣太郎にも同様のモチーフの句があったので、それぞれを挙げておきたい。

   寒明や二十六聖人の黙         稲畑廣太郎
   一糸まとわぬ主の十字架や致命祭     平田栄一



       撮影・鈴木純一「口伝有り我が身の鈴の音も澄みて」↑

2020年8月23日日曜日

田村葉「たましいを売り総立ちの曼珠沙華」(『風の素描』)・・




 田村葉第一句集『風の素描』(やまびこ出版)、序文は河村正浩。その中で、

   獏を連れすすきかるかや風の中
   攫われてみたき一瞬青嵐
   どの窓も秋の風来てお辞儀する

 このように日々の哀感が風詠されている。つまり「風の素描」とは「日々の哀感の風詠」と言える。
 
 と述べ、また、

  鬼灯鳴らし鳴らし過去へと下りてゆく  (中略)

 このように『風の素描』女性特有の心理の綾や内面の起伏が薄い。故に耽美さも艶冶もない。ナルシシズムを否定している。むしろ、心象と現実の照応によって俳句を詠みながらひたすらに内面を昂めようとしているのである。

 とも述べている。略歴に、生まれは山口県(愚生は山口市)とあったので、愚生と同じ県だということで、愚生は18歳で出奔して、帰郷かなわず、郷土ナショナリズムに侵されているらしく、今では、いきなり親しみを覚える年齢になってしまった。集名に因む句は、

  秋風の裏街道をゆく素描      葉

であろう。ともあれ、愚生好みの句をいくつか以下に挙げておきたい。

  とんぼうと後先になる爆心地
  落椿風に指紋のなかりけり
  抽斗の二段三段麦の秋
  木は石を石は木を打つ秋の風
  鳥帰る鳥に小さき忘れ物
  君が代の先にいちめん鱗雲
  花薄遠回りする柩かな
  凩に紛れぬように紅をさす
  シャガールの馬と目の合う蝶の昼
  秋風は鳥のかたちに滑り込む
  人間のひと日忘れて風の蝶
  
 田村 葉(たむら・よう) 1945年、山口県生れ。


           芽夢野うのき「一輪をあなたの胸に十字草」↑

2020年8月22日土曜日

篠崎央子「青胡桃決起せし日は遥かなる」(『火の貌』)・・




 篠崎央子第一句集『火の貌』(ふらんす堂)、懇切な跋は角谷昌子、その冒頭近くに、

 央子さんは茨城県の「小さな村」で生まれ育ったと言う。大学時代に『万葉集』を専攻したのは、親しんだ共同体意識がその底にあるからではないか。天磐戸の女神と村落で神々の饗宴のために舞った娘のイメージが、なんとなく結びつく。舞ひめのような雰囲気の央子さんは、神の言葉である「咒詞」への特別な思いを幾代も経て血脈に受け継いでいるのではなかろうか。

 と記している。また、少し長めの著者「あとがき」には、集名について記された部分がある。

 私にとっては、第一句集となる本書のタイトルは、

   火の貌のにはとりの鳴く淑気かな  

 に拠った。朝という刻を告げる鶏は、火のような形相を持つ。鍵和田秞子師もまた、火のような情熱を持ち、私達の俳句を朝日へと導いてくれている。師の燃え上がる俳句精神に接した弟子の一人としてこれからも邁進してゆきたい。

 鶏鳴の句は、集中にもう一句ある。

   菜の花の黄は鶏鳴を狂はする

 その篠崎央子の師鍵和田秞子は、本書校了間際の6月11日に急逝された、とも記されている。かつて大磯の鴫立庵(この時は、高柳重信の「俳句研究」には、よく書かされた、とおっしゃっていた)や成蹊大学の草田男句碑序幕の折にお会いしたたことなどが思い起される。ご冥福をお祈りする。ともあれ、愚生の好みに偏するが、本集よりいくつかの句を以下に挙げておきたい。

  パンの黴剥ぎ一行の詩を練りぬ      央子
  狐火の目撃者みな老いにけり
  ヒステリーは母譲りなり木瓜の花
  蝶遊ぶ壊れつづけるこの国に
  みんみん蟬スサノヲはまだ母を恋ひ
  夏至の夜の半熟の闇吸ひ眠る
  空を舞ふ鳥にも序列今朝の春
  残雪や鱗を持たぬ身の渇き
  立ち上がる雪割一華芙美子の地
  ほたるぶくろ無口な車椅子濡らす
  血の通ふまで烏瓜持ち歩く
  定員のなきこの星の室の花
  
 篠崎央子(しのざき・ひさこ) 1975年、茨城県生まれ。


           撮影・鈴木純一「九日の蜩送り岸辺まで」↑

2020年8月21日金曜日

大井恒行「真炎天必勝の剣口伝にて」(「新陰流兵法太刀伝」)・・



 昨日に続いて、筥底から出てきた許状を記念にアップしておきたい。正直に言うと、こうした許し状を小転(こまろばし)ではいただいたのは覚えていたが(新陰流に,いわゆる段は無い)、その余は忘却していた。どうやら、初学から15年くらいは稽古にはげんでいたらしい。45,6年前の話だ。愚生20歳代後半である。それ以後は、一人稽古もろくにしていなかったので、愚生の身のこなしにも、いまや見る影はないのである。本来なら、額装にでもしておかなければいけないのだが、まるで終活の断捨離に近い気持ちだ。ひさすら愚生の備忘のためにカメラにおさめた。
 新陰流の祖は上泉伊勢守である。居城は大胡だったので、そこで奉納演舞をした記憶はある。新陰流の最高位はたしか印可で、それが免許皆伝だったと思うが、愚生は、その前々のどうやら天狗抄奥の位までは行ったようである。とりあえず許状の写真を掲げておきたい。


 会の名は「転(まろばし)会」、師範は渡辺忠成(ただしげ)、父上の渡辺忠敏とともに新陰流第二十世柳生厳長に学んだ人だった。世に言う柳生流(柳生新陰流)である。愚生が稽古していたころは弟子の数も少なく、「柳生流」は正しくは「新陰流」であり、「新陰流に帰れ!」という合言葉のようなものがあって、先輩諸氏は口伝書などをひもときながら、太刀筋、太刀使いについて、よく議論されていた。極意の剣は「転(まろばし)打ち」である。小説などでは、「兜割り」などと称せられていたのだと思う。「ゆめゆめ争うことなかれ」が兵法(ひょうほう)の原測であった。世に活人剣と言われた所以である。転(まろばし)打ちはいわば雷刀(らいとう)から、つまり上段から真っ直ぐに打ちおろす剣である。この真っ直ぐに打ち下ろすのは難しいのである。しかも、相手よりも遅れ拍子に打ち下ろせば、相手の剣に乗り打ち落とすことができる。いわば無敵の剣筋なのである。これは示現流なども含めて、剣道のもっとも単純にして確実な勝ち口なのである。あとは相手との間合いの問題である。相対することも大切なことで、多くの敵と戦う場合でも、常に一対一の正対の位置に身を置くのである。一乗下り松の決闘においても、武蔵は走りながら、敵の一人一人一人に正対する場面を創りだしたのである。
 さらに、最後に到達すべきは「無刀(むとう)の位」であり、剣を持たないのである。
 また、愚生の直接の兄弟子というより師範代だったのは、前田英樹で、今は評論家にして、自宅に道場まで建てている。同期の兄弟弟子は、今は刀禅会を創設してみずからの流派を創った小用茂夫。同じく宮本隆司は、職場の同僚であったが、50歳半ばで、脳腫瘍をわずらい無念にも早逝した。



    撮影・芽夢野うのき「ロックもラップも波乗りも乗り切れず」↑

2020年8月20日木曜日

大井恒行「火は火のことをかの火祭の火のほこら」(小林主一写真展&大井恒行色紙短冊展)・・・・・ 




 とんでもないものが筥底から出てきた。紙ごみで捨てようとした中からこぼれた。処分する前に写真だけでもとってブログにアップすることにした。
 ガリ版刷の手製パンフレットには、

 〈小林主一写真展「遠い日の残像ー島根県津和野町ー」/大井恒行色紙短冊展〉
 1974年12月21日~12月23日 午前11時~午後7時
 F&F市民ホール7F展示場

 どのように贔屓目に見ても、出品されているこれらの作品は下手なのである。にもかかわらず厚顔に言えば、つねに人は、何がしかの企てを(その企ての内容を問わなければ)人生においてしようとするとうのも、また哀しい事実である。この運命に従う者には、つねに祝福ばかりが用意されているわけではないのだが・・・・。
 最後に、この合同展へポスターを描いて下さった小野画伯に感謝する。

と、思えば恥ずかしい言挙げがなされている。顧みれば、愚生26歳の時だ。さらに「合同展に寄す」の中ほどでは、
 
 (前略)二年前までは、少なくとも一句を書きつけることによって、いつでも俳句を棄ててもいいのだと念じ続けていたことは確かである。そうした僕にとっての最後の一句を放棄したことで二年を経過したのは、全くの皮肉といわねばなるまい。
「この一句で俳句を棄てる」勇気とは、ついに俳句を棄てきれないことの逆説にほかならぬことであった。
 従って、今回の短冊展は二年前までの句と、今回、合同展のために書き下ろした若干の句で構成されている。(以下略)

 と記されている。その小林主一は、故郷・日立市に帰郷して以来、音信がとだえ、すでに40年以上が経っている。元気で過ごしているであろうか。合同展に出した短冊も色紙もいまや無い。ブログタイトルにした「火は火のことをかの火祭の火のほこら」の句は、休俳する二年前の句で、とくに赤い大きな色紙に書いたので覚えていた。当時、なにかの雑誌の「20代作家特集」の際、赤尾兜子に、「作者はリフレインを研究中だ・・・」とコメントしていただいた句のひとつだったように思う。それとは別に「渦」の第66号(’72年6月号)が、「20代作家特集」で、先日、西川徹郎論を執筆するために、手元に置いてあったので、これも書影にした。愚生24歳の折だ。全ての句と、下段のミニエッセイのすべてを忘却していた。


              「渦」第66号(’72年6月号)↑

 この頃の若書きの作品(休俳2年以前)は、句集からすべて除外したので、この特集掲載の5句を、備忘の記念に、以下に再録しておくことを許されよ。愚生の最初の句集は自筆手書き50部限定の「秋(トキ)ノ詩(ウタ)」(私家版)である。句集装丁のアイデアは滝口修造の『地球創造説』を拝借した。現在の書肆山田・鈴木一民が勤めていた印刷所(新陰流兵法の師が上司だった)で作ってくれた。27歳の時だった。

  男女の耳はとがりだすその王国の目借時      恒行
  菜の花がくれそのくらがりの二の腕は
  入れ物が無い絵馬の男根両手流れ
  花瓶割れぎらつく舞いの陽は流る
  機影歌いて土蔵雲母のごとく果つ





★閑話休題・・・来る11月28日(土)「第7回俳句のつどい」(主催・日本現代詩歌文学館)・・・


 案内には、

 さて、当館では平成8年より4年に一度「現代俳人の集い」を行ってまいりましたが、今年度よりプログラムを変更し、「俳句の集い」と改称して開催することになりました。

 とあった。新館長・高野ムツオの仕事である。募集句選者は、岸本尚毅・神野紗季・阪西敦子・照井翠・成田一子、当日選者は高野ムツオ。合評のシンポジウムあり。

     作品募集
 ・締切  9月18日(金)当日消印有効
 ・応募料 2句1組/1000円
*詳細は、チラシ、または日本詩歌文学館のホームページをご覧下さい。




       撮影・鈴木純一「せみ落ちて時計まわりに鳴って止む」↑

2020年8月19日水曜日

攝津幸彦「南浦和のダリヤを仮りのあはれとす」(「円錐」第86号より)・・




「円錐」第86号(円錐の会)、特集は「第4回円錐新鋭作品賞受賞者最新作」、さすがに様々な傾向の句が書かれているが、全部を紹介する余白もないので、ここでは、それぞれに推薦された三方のみ、それぞれの一句を挙げておきたい。

  ロボットも命乞いせよ花曇り    来栖啓斗
  東京タワーみたいなタワー明易し  千野千佳
  
  ナホトカは
    (草鹿外吉訳)
  夏の雨           たかなしあきら

 味元昭次のエッセイ「方舟夜話」に、日野草城「高熱の鶴青空に漂へり」の句を挙げて、

 一つは鶴という日本を代表する渡り鳥が単独で歳時記に記載されたのは、実に不思議なことに昭和の後期になってからだったからだ。「凍鶴」や「鶴帰る」等はあったのだのだが・・・。(中略)
  吹きおこる秋風鶴をあゆましむ    石田波郷
  樹のそばの現世や鶴の胸うごき    飯島晴子
 前者は昭和十二年に主宰誌「鶴」発刊に際し詠まれた作品である。その意味を含んで流石に巧い句だが、「伝統俳句の最後の鐘は俺が撞く」と豪語した波郷が、記念的作品に露骨な季重なりを入れるはずもなく、無季の言葉の鶴を安心して秋風と一緒にしたのだろう。飯島晴子の作品の年代を調べてないが、昭和三十五年に俳句を始めた晴子の比較的初期のものだと思われる。実は彼女の自解句集の文の終わりには「無季」と記してあったのを拝見したことがある。(中略)当然、草城の一句も「無季俳句」だった。
 平成三年刊の「日本名句集成」の観賞文の終わりに桂信子は「無季」と記してあるが、たぶんこの時点で歳時記に記載されていたとすれば、あれは新興俳句を出自とする彼女の意地と主張の表記だろう。   

 と述べている。たしか味元昭次には、大昔に、すでに彼の選による「無季俳句選100句」?のアンソロジーがあったような記憶があるが、さて・・・。このほか、今泉康弘「薔薇の詩学―西洋・女性の美・香り」のエッセイの最後に攝津幸彦の句を挙げてくれている。前段で「裏切りだ/何故だ/薔薇が焦げてゐる 高柳重信」の句を掲げて、

  もっと考えてみると、ここには重信の敗戦体験が反映している。近代日本は西洋文明を真似て、帝国主義をも追随し、あげく野心の果てに破滅した。焦土を経験した後には子規のように薔薇に対して西洋風の美を晴朗に詠うことはで出来ない。薔薇は焦土に燃えた。焦げて灰となった。ここに薔薇の近代は終わり、薔薇の現代が始まる。そんな重信を悼む一句を最後に(『陸々集』一九九八)。

  薔薇一輪一輪ゆゑに重信忌       攝津幸彦
 
ともあれ、本誌同人特別作品から一人一句を挙げておこう。

   ほうたるのどれも戦争には往かず    味元昭次
   風青しかのビールスはヒトに乗り   山﨑浩一郎
   薫風やお手製マスクを七尾子さん   荒井みづえ
   七夕やテレワークとは上半身      山田耕司
   汗臭き輩と社会距離拡大戦略(ソーシャルディスタンス) 澤 好摩 



            芽夢野うのき「空蝉をつつき記憶の向こう側」↑

2020年8月18日火曜日

川越歌澄「をととひとあさつて通し蛇の衣」(『キリンは森へ』)・・




 川越歌澄第二句集『キリンは森へ』(俳句アトラス)、表紙装画も著者、集中にキリンと茸にまつわる句が多いが装画にも。「あとがき」の冒頭は、

 キリンはもともと森で暮らしていた動物で、独特な模様は木洩れ日に紛れるためと聞いたことがある。警戒する相手に対しては正面を向いて直立し、木のふりをする。どこにいてのキリンは森の一部なのだ。

 と記され、また、

 第一句集『雲の峰』から九年を経た。その間十数年ぶりに関東に転居し、SNSに手を出し、上野の博物館や動物園に通うようになった。
 あまり広くない運動場で黙々と餌を食む(そして反芻する)キリンの「ヒナタ」の姿に幾度か救われた。ツイッターやフェイスブックを通じて句を呟いたり超結社の句会に参加したりという経験は、自分の俳句を見つめ直す機会になった。別れと出会い、嬉しい再会もあった。(以下略)

 集名に因む句は、

   居待月キリンは森へ帰るのか    歌澄

 だろう。他のキリンの句も挙げておこう。

   総落葉キリンの夢が燃えてゐる
   薔薇園に微風キリンは眠らない
   横濱のキリンを殖やし秋の風
   立春やキリンのこぼす草光る
   ゆるゆるとキリンの尿る大暑かな

 また、帯の惹句には、「第一回北斗賞受賞作家待望の第二句集」に続けて、

 「ただ水のように生きていればいいんだ。」(須藤恵子 九十一歳)

 俳句の手ほどきをしてくれた先生が云った。そこへ行かなければ見えない風景があることを、俳句を通じて知った。もう少し、流れてみよう。

 とある。ともあれ、集中より、愚生好みの句をいくつか挙げおきたい。

  階段のここから過客二月尽
  帰去来兮(かへりなむいざ)梅雨茸の出ては消え
  声問(こえとい)に砕くる波濤鳥渡る
  竹の春いま来た道の消えてをり
  武器祭器もとをひとつにかげろへる
  見送りしのち見送られ寒北斗
  亀前進たんぽぽを食ひまた前進
  揚雲雀この世の畦に戻りけり
  久久能智神(くくのちのかみ)の目こぼし月夜茸
  その後もひとすぢの道辛夷散る

 川越歌澄(かわごえ・かすみ) 1971年、東京都生まれ。
  



        撮影・鈴木純一「十五日つくしこひしと後じさり」↑

2020年8月14日金曜日

浜脇不如帰「雲海とSNSと十字架と」(『はいくんろーる』)・・




 浜脇不如帰第一句集『はいくんろーる』(私家版)、奥付には、「平成二十三年三月二十日 発行/令和元年五月二十日 改訂」とある。面白いことに、著者略歴に、

 模試の英語長文読解では満点しかとったことがない
 本名 昇

と記されている。本名が昇だから(子規の升さん・・)俳号の不如帰は、想像できるが、この略歴のなかには、次の部分もある。

 平成25年 主イエス・キリストを信じる。
      当改訂版はその猛省のため。

 ともある。句集の内容は、1ページ4句建てで、平成17年6月10日からきっちり2か月ごとの章題が入っている。つまり、次は平成17年8月10日の句であり、最終章は平成21年6月10日である。その後は、所属した「風来」1号~4号までの作品。「あとがきにかえて」も作品10句を掲げている。当初は平成17年「白燕」の最年少同人だったという。シンプルな作りの句集である。
 ともあれ、以下にいくつか抄出しておこう。

   生活感/出てきた蛇も考える    不如帰(平成17年6月10日)
   先往きの透明なるは金魚鉢        ( 〃  8月10日)
   正午過ぎ指揮官不在の蝉時雨      (  〃 10月10日)
   てのひらをじっと見てみろ秋はある    (  〃12月10日)
   ラメ入りのツメ改めて初日の出     (平成18年2月10日)
             愚生注*以下日付略す
   感嘆符今数えなきゃ霜柱
   吾輩の主は胃弱屁はきつく
   妙案が浮かんじゃ沈む三尺寝
   甲板にカナヅチ錆びる春の海
   風上に置いてけぼりで鮎腐る
   空と見て空となりたき西瓜哉
   江戸前の裏地錦や烏貝
   跳彈や沖に沈んだ油蝉
   偶数の素数あふれる天の河
   熱(ほとぼり)がプラズマ化する油照
   腰掛けて踵はつかぬひなあられ
   
 浜脇不如帰(はまわき・ふじょき) 昭和54年 長崎県生まれ。

 

芽夢野うのき「涙腺を溢れてわたし彼岸花」↑

2020年8月13日木曜日

望月至高「花散って内蔵に根を広げゆく」(「奔」N.5)・・




 「奔」No.5(奔編集室)、特集は「70年元高校全共闘・2・11シンポジウムー半世紀の結集!!」と「コロナ・パンデミックーその棄民政策」。気鋭の論稿だと思うが、高齢の愚生には、なかなか難しい。とはいえ、「豈」同人の筑紫磐井「コロナ行動指針」、大橋愛由等「ほくそ笑むのは誰か」が執筆している。筑紫磐井はその「第三行動指針(究極の俳人の行動指針)で、

 この原稿を三月以降書き直してしているが、その間、白と黒ぐらいの結論の違うバージョンになっている。(中略)日本は今後長期にわたって海外からの受け入れを拒むことになるだろう。この原稿を書いているのは6月25日だが、この記事が発表になるころの変化は予測もできない。
 ただコロナの生物学的予測はできないが、人間の行動の原理については言えると思う。鎌倉時代の名著『一言芳談』の「しやせまし、せずやあらましと思ふことは、おほやうは、せぬはよきなり(しようかしまいか、迷うときは大体しない方がいいのだ)」は不滅の金言である。迷うこと自身で既に結論が出ているからだ。そして、これこそ、高齢者の、俳人の究極の行動指針なのである。

 と結んでいる。この伝でいくと、わが「豈」の句会も引き続き、忘年句会も、少なくとも、今年一杯はすべて中止になるだろう。いわば「第二行動指針(本当の『自粛の始まり)」なのだ。

 自粛が解除になったというが、これは本当の「自粛」ではない、戦前から続くお上の圧力の大きな成果であり、誰一人自分で判断して自制したものではない。こうした官製の「自粛」が終わった後で、初めて国民は自分で考えて「自粛」するのである(都知事は「自衛」と言っている)。(中略)
 自分や家族のために必要な場合は死ぬ気で行かざるを得ないが、宣伝に乗ってふわふわと買い物や旅行・遊興に出かけるのはこれを見るととてもできそうになさそうだ。

 と、あった。ともあれ、以前に増して小さくなってしまった本誌の俳句欄だが、一人一句を以下に挙げておきたい。

  呼ばれたり囚人番号にて寒夜      江里昭彦
  聖五月するもされるも夢心地      今井照容
  裏木戸で待つ神聖皇女の手毬唄    大橋愛由等
  三・一一以後の心身凍てしまま     望月至高
   安井浩司『牛尾心抄』に献ずより
  傾城やコロナの眠り祈るのみ      大井恒行 



撮影・鈴木純一、読み人忘れ「誤解したお前の方に非はあるが面倒なので誠に遺憾」↑

2020年8月11日火曜日

小川軽舟「道ばたは道をはげまし立葵」(「オルガン」22号より)・・・




 「オルガン」22号(編集 宮本佳代乃・発行 鴇田智哉)、本号の特集は今どきのZOOMとやらでの座談会である。題は「作り手、読み手、選」、メンバーは安里琉太・生駒大祐・阪西敦子・宮本佳代乃。いわば作家としての言葉に対峙する姿勢が示されていて好ましい。引用したいところは、たくさんあるが、そうもいかない。まずは冒頭の「書けなさ」については、

 安里 (前略)まず考えるのは、十七音という俳句の短さによる書けなさではなく、もっと倫理的なことにも触れるような「書けなさ」です。(中略)とはいえ、そういう「書けなさ」をステイして、書きはじめてしまえば何とかなるというものでもなさそうです。書いたことが読み手にうまく伝わらないということもあります。なんでもない公園のフェンスと西日を詠んでも、沖縄の人が書いたとなると、それは基地への思いだとか、単なる釘を書いただけで、痛みの表象なんだとか、さっきの「書けなさ」とは別の次元ですが、喩としてばらける、そういう「書けなさ」を感じたことはあります。(中略)
阪西 (前略)「書けなさ」は、俳句に何らかの到達点を設けないと考える必要がない。書くことと、伝わること・到達点については私は切り離しています。到達点に行きつかないことは表現の問題になるので、作り手が完成図に興味をどれくらい持つか、そこにも違いがある気がします。
安里 (前略)震災後の「新米」についても汚れたという概念が続く、そういう危機感があったのかもしれない。直線的に延びてゆく時間が加わって、円環に閉じた時間には戻れなくなる。そんな考えもあったかもしれない。ところが、そうとも限らない。何もなかったかのように季語は戻りうる恐ろしさがある。(中略)
阪西 「ホトトギス」の季題の考え方って、いい句が集まったら歳時記に載るっていうものなんです。作品でしか季語に昇格させられない。「新米」の件でもそういう作品が多くなれば変わっていくんですが、本意が閉じているとは思わないんです。(中略)
安里 僕の持っている季語の考え方は、阪西さんのおっしゃることとさほど乖離はなくて、季語が変わっていくものではなく、結局本意に戻る働きがあるんじゃないかなと。そして、本意は書けなさみたいなものを誰かにもたらすのではないかと思います。

 季語(季題)の持っている二重性、あるいは本意が無限定に論じられているきらいがないではないが、こうしたことに、少しでも突っ込んだ意見がかわされるのは、次世代の俳人には、じつは避けては通れない道であるにちがいない。このほかにも興味ある発言がなされているが、これ以上は、愚生の力量が及ばないので、直接、本誌にあたって確かめられたい。ともあれ、同人の一人一句を以下に挙げておこう。

   くさむらを出てゐる虹に苦みあり     鴇田智哉
   草の葉の寝ぐせも夏の川のなか      福田若之
   栃の花道の向うへ通勤す        宮本佳代乃
   率に日が明らかとなり冷奴        田島健一



    芽夢野うのき「ひまわりはほんとは暗い日を廻す」↑

2020年8月10日月曜日

谷山花猿「死ぬために穿く軍足に左右がない」(谷山花猿・1991年12月の書簡より)・・




 谷山花猿(1932年~・奉天産まれ)は、いだったか杳として消息不明となった。旅先で倒れたといううわさもあったが、詳しいことは分からない。「俳句人」の編集長をされ、確か新俳句人連盟会長もされた時代もあった。
 ブログタイトルにした句は、1991年12月に贈られてきた句集『資本』(手づくりの私家版・約60句所収)に挟まれていた書簡のものだ。愚生の事情で、また,少し本の整理をしたなかにあった。眠っていたのだ。昔、現代俳句協会の事務所に行くと必ず会えたし、多賀芳子の句会ではご一緒したこともあった。本名は伊牟田敏充で法政大学の教授をされていたが、愚生のお会いした頃は、月々の年金が余って使い道がないから、毎日、現俳協でボランティアだよとにこやかにしていた。その書簡には、他に二句が記されていた。

    被爆待ち一頭でいるキリンの首      花猿(かえん)
    国家機密です あなたが爆死する時間

 また、便りのなかの戦争体験のアンケート回答のなかのQ&Aの一つには、

 Q、いま、「戦争」をどのように俳句に詠めばいいと考えているか?
 A、体験を基盤とした伝達性のある作品をねらうが、ゴタゴタと言い過ぎにならないようにしたい。そして、具体物(例えば、軍足)を使って「形」が眼に見えるように俳句を詠みたい。出来れば、想像の翼をはばたたかせて、未来の戦争の危機を詠んでみたい。なお、季語・定型に拘らず自由に詠み、戦争に関する無季の単語を「詩語」に高めることを試みたい。
 また、大空襲・原爆などの体験がないので、写真・映画・原爆資料館などの遺品を深く観察して、具象的に俳句を詠めるように努力したい。いずれにしても、「戦争」を俳句に詠むことに積極的にチャレンジしていきたい。

 とあった。その頃より、ほぼ30年が経っている。谷山花猿、もし存命ならば、88歳、米寿であるが・・。そういえば、今思うと、前歯が抜けていたせいか、実年令よりずいぶんふけて見えていたようだ。ともあれ、その時に贈られた句集『資本』からいくつかの句を以下に紹介したい。

   子ヲ叱ル労働ガアリこか・こーら
   昭和ノ子溺死スあいびーえむノ海
   ロシアにて鼻付け替える資本かな
   長い毛で縛り縛られ資本病
   資本とは背骨食い折る鉛かな
   肘張って資本の場所取りあそびかな
   指切り首切り資本の愛はこれっきり
   「跳んでみろ」と資本が腱を踏んでいる
   資本に噛まれくすぐったがる筋もある
   成吉思汗を黙って使う資本かな
   声荒く大国日本の資本かな




         撮影・鈴木純一「九日のかなかな送り麓まで」↑

2020年8月8日土曜日

石田柊馬「性別が突然変わってしまう会」(「川柳スパイラル」第9号)・・・


                            

 「川柳スパイラル」第9号(編集発行人・小池正博)、本号の「ゲスト作品」は三田三郎。愚生にはなじみの薄い人である。小池正博「三田三郎の短歌と川柳」には、

 三田三郎は前号にゲスト作品掲載の笹川諒と二人でネットプリント「MITASASA」を発行している。その内容は冊子「ぱんたれい」にまとめられているが、二人の出会いは葉ね文庫だったようだ。(中略)
 私が三田三郎にはじめて会ったのも葉ね文庫だった。そのとき彼の歌集『もうっちょと生きる』(風詠社)を手に入れた。読んでみると川柳人の私にもおもしろいと思える歌が多かった。たとえば次のような作品である。
  人類の二足歩行は偉大だと膝から崩れ落ちて気づいた
  転ぶのは一つの自己というよりも七十億の他者たる私

 本号のゲスト作品を以下に3句挙げておこう。

   横手からトラウマを投げ込んでくる
   あみだくじを辿った先に独居房
   輪廻から取り除かれた金属片

 ほかに、小池正博の「現代川柳入門以前 第六回」は「川柳における悪意」である。そこに攝津幸彦と中村冨二の句が引用されている。

   死んでいる不幸な蛇をもつと打つ    幸彦
   嫁ぐとや、蛇の卵を君が掌に      冨二

 ともあれ、本号より同人の一人一句を以下に挙げておこう。

   夜が明ける前に戻っておいで手足     悠とし子
   鬼退治なんかこわくてできない会     石田柊馬
   再稼働なまむぎなまごめなまたまご    浪越靖政
   祖母の死後ある日の食器乾燥機      川合大祐
   のたうってみせねばならぬ野外劇     一戸涼子
   見つけてね河原の石のかげで待つ     小池正博
   帽子屋の奥はからっと晴れている     湊 圭史
   雨ごいは始まりました空を蹴る     清水かおり
   それぞれの雨持ち寄って始発バス     畑 美樹
   箱埋めて箱の芽が出るなら許せ      兵頭全郎
   寛容(リベラル)な表現に要る修正ペン  飯島章友
  
                   
                     撮影・芽夢野うのき「夏の岸椅子ふたつあるここ此岸」↑

2020年8月7日金曜日

田彰子「山藤がふるさとに巻く私にも」(『田さん』)・・




 田彰子第一句集『田さん』(ふらんす堂)、跋文は坪内稔典「四百年の空気」。その中に、

(前略) 山藤がふるさとの巻く私にも
     桐の花捨女の声を真似てみる
     くるくると日傘まわして木の根橋

 田さんの俳句というと、私はまっさきに右のような句を思い浮かべる。
 捨女は田捨女、一六三三年に丹波国柏原(かいばら)に生まれた女流俳人だ。彼女は六歳の折に「雪の朝二の字二の字の下駄のあと」と詠んだといい、俳句史にもっとも早く現われた女の俳人だ。われらの田さんはその捨女の一族である。つまり、捨女は田さんの祖先だ。

とある。また、

 田さんたちと自筆句集を翻刻して、二〇一六年に『捨女句集』(和泉書院)を出した。田さんはその本のあとがきで、叔父、季晴(すえはる)に触れている。その叔父は田家の十一世、実業家として成功し、生涯にわたって彼女の顕彰につとめた(柏原の田ステ女記念館などは季晴さんの寄付でできた)。(中略)
 私はある時の季晴さんの言葉を覚えている。坪内さん、田家には政治家や実業家などいろんな人はいたが、だれも五七五の捨女にかなわない。言葉や俳句の力はすごいものですな。その話を聞きながら、彼女を顕彰する季晴さんもすごい、と私は思っていた。

 と記している。ともあれ、以下に集中より、いくつかの句を挙げておこう。

    初夢や地球を腰にぶら下げて       彰子
    教卓の光となりて薄氷
    風の声濁音となる蕗の薹
    遮断機で待たされているしゃぼん玉
    春雷やからまっているネックレス
    風光る外来生物駆除作戦
    恐竜に恐竜の傷青嵐
    蝉時雨東洋陶磁美術館
    白線の先に跳箱秋澄みぬ
    小春日の穴のひとつに迷い込む
    我先にさわってみては初氷
    ふるさとの電話から降る雪の音
    
 田 彰子(でん・あきこ) 兵庫県丹沢市柏原生れ。



      撮影・鈴木純一「稲の花信ずるにたるものはある」↑

2020年8月5日水曜日

井上治男「原爆忌深い闇より黒い雨」(府中市生涯学習センター「題4回俳句入門講座」〕・・




 本日、8月5日(水)は、府中市生涯学習センター「俳句入門講座」の第4回目だった。実は、今回が最終回なので、お別れに句会をした。当季雑詠で・・・。愚生にとっても、これまで4回だけの講座だったが、なかなか有意義なものであった。一期一会というが、この講座をきっかけに何人かの方で、句会の継続の案も出されて、有り難いことだった。
が、愚生のプライベートな問題と新型コロナ禍により、当面は何もせずに、種々の状況が好転したときには、府中市で開催することを約して失礼した。皆さん、色々ありがとうございました。ともあれ、以下に一人一句を挙げておきたい。

  追ひ掛けて流しそうめん赤い糸     杉森松一
  朝がゆの新茶の香り奈良ホテル     藤貫雅久
  病葉を透かしてみればレース模様    井上芳子
  蝉取りの社の杜へ一散に       壬生みつ子
  百年目地上に出でし冨士の滝      井上治男
  サングラス寂しき青のこちら側     渡辺信子
  水引草牛乳瓶に凛(りん)と立ち   吉岡美和子 
  景気風飛ばせコロナも水うちわ     沖野江光
  鳶の舞う静かなりけり夏の岸      大井恒行



          芽夢野うのき「空蝉をつつき記憶の向こう側」↑

2020年8月3日月曜日

今井聖「陶片も骨片も白夏の浜」(「街」NO.144)・・




 「街」NO.144(街発行所)、今井聖は、色々考えてくれていて、なかなか面白い。本号の「作ってみようシリーズ⑤」は「波多野爽波を作ってみよう!」である。愚生も昔、ある句会で、蕪村風を真似て俳句を作るということをやったことがあるが、いわば、遊びとしての面白さだった。今井聖はもう少しマジメである。だいたいが彼流ではあるが波多野爽波を以下のように分析、かつ分類して、即吟会をやろうというのである。例えば、

 波多野爽波になりきる
〇「知」を捨て口を開けて「もの」を見る。(放心状態を意識する)
〇典拠、根拠を求めない。
〇常識を求めない。
〇辻褄を求めない。
〇自我を入れようとしない。
〇自らで句の成否を求めない。句の成否は座(句会)の反響を以って推し量る。
〇速写、直感に徹する。
〇リズム、文体は工夫を入れない。鋳型に嵌め込むことだけを考える。俗調の肯定。大衆芸の口上を思わせる。「さても南京玉簾」「ありがとうなら芋むしゃはたち」
〇右の点をを総合すると多作他捨の本質は「心霊写真」、他力本願である。
  その「結果」現われてくる作品の特徴を分類してみる。
A「もの」の形の拡大・強調
B日常的でありながら従来の情趣の範疇を逸れる
C季語との因果関係の感じられない偶然性
D構図の関係性のへんてこ
E比喩の意外性
F動詞、形容詞、副詞の違和感を効果とする
及びこれらの組み合わせ。     (以下略)

 これに基づいて、爽波作品を、各A~Fに分類している。これを研究会で即吟実践をした作品も掲載されている。これ以上に興味のある御仁は、本誌に直接あたられたい。
 また、今井聖は「未来区鳥瞰144」のところで、

 (前略)「戦争が廊下の奥に立つてゐた 白泉」「いつせいに柱の燃ゆる都かな 敏雄」こんな一般的な戦争の映像や感慨のどこをどう評価すれば「秀句」になるのだろうか。戦争が廊下の奥に立っていたという擬人法がどれほどの個性的な比喩表現だろうか。一斉に柱が燃えるという明らかに「戦」を思わせる「映像」がどれだけ新鮮な視点を獲得しているだろうか。無季や反権力の意図を言う評者もいるが、何より内容に新鮮さがない。(攻略)

 と記しているが、俳句は新鮮であればよいというものでもなかろう。今井聖が寂しがらないように、愚生が少し異見を挟むが、この今井聖の見解にはいささか賛成できない。
 ほかに本誌本号には、愚生と同じ「豈」同人の高山れおなが、「街から街へ 143号を読む」を寄稿し、松野苑子「雛の眼の象の眼に似る寂しさよ」の鑑賞・批評を行い、雛の句を多く引用しながらの示唆的な内容である。結びには、

  (前略)〈象の眼〉が現代のわれわれの胸に喚起するもろもろの感情もまた、古美術(主には仏教美術)の表現の背景にある感情と無縁ではないからだ。そうした感情の束を受け止めた〈寂しさよ〉が、奇想的とも言える〈雛の眼〉と〈象の眼〉の対比を深いところで支えている。

 と述べて、納得させられた。ともあれ、以下に、愚生の面識のある方々の一句を挙げておきたい。

   鉱毒の記憶や虹の緑にも      今井 聖
   蠅叩き子供に使つたことがある   北大路翼
   蟇一億人が縫ふマスク       柴田千晶
   似顔絵のやうな兄妹白木蓮    竹内宗一郎
   夜の雲を祭太鼓が押し返す     黒岩徳将
   少年の産毛金色おぼろ月      栗林 浩
   出口だけ暗い牡丹園巡る      髙勢祥子
   環七ががらんと突き当たり虹    箭内 忍


       撮影・鈴木純一「梅雨寒をいたはりくれて伊勢ことば」↑

2020年8月2日日曜日

朝吹粋酔「長考の果てなる一手飛蝗跳ぶ」(「マーゴⅡ」)・・」




「マーゴⅡ〈MargoⅡ〉」(新宿句会)、「あとがき」の中に、

(前略)本句集のタイトル『マーゴ』(Margo)はソノコさんの「孫を慈しむような心で、また次世代に希望を託したい」との趣旨によるネーミングである。Margoには「緑」という意味があり、「俳縁」や「酒縁」に繋がる意味も内包している。
                         新宿句会世話人 朝吹英和

 とある。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。

  天狼星や距離無限なる父の膝      海野弘子
  しばし青をつくして暮るる春の海    藪原保子
  月浴びて湯を浴びて又月を浴ぶ    大倉ソノコ
  秋の虹船客名簿にチャップリン     鈴木幸生
  シーキャンドルの白き骨格いわし雲  和久井幹雄
  猫とゐて晩秋といふ日の光      木村かつみ
  炉を前に少し開けたる障子かな    吉岡眞理子
  ハンカチの折目きっちりテレワーク   桝井秀花
  下駄箱のティラノザウルス星流る    石井写洛
  行く春も来る春もなく時計台      石川雪餅
  賑わいも掻き集めたる酉の市      大和雪妓
  五月闇ピアノのうえの置手紙      西田惹句
  意表衝くロングシュートや寒明くる   朝吹粋酔
  



★閑話休題・・・春風亭昇吉「スイカバー隣に君のいない海」(プレバト・炎帝戦より)・・


 頃難(コロナん)のお蔭で、今年一杯は休会になる公算の「遊句会」の若きメンバー・春風亭昇吉が、プレバトでは、瞬く間に特待生になったと、喜んでいたが、そう世間は甘くない。ゴールデンタイムのバラエティ番組であれば、なおさら句が巧いだけでは、いくら夏井いつきの目に留まったとしても、通用しない。とはいえ、愚生も知らされていなかったのだが、テレビ画面によると、来年5月には真打に昇進するらしい。しかも、来る9月9日(水)重陽の節句には、国立演芸場で昇吉の会・独演会が開催されるとか・・・。期待にたがわぬ進展ぶりである。しかし、予選落ちが悔しいと泣いていた彼も、テレビで見る限り、次点で敗者復活戦あり、しかも、夏井いつきによる添削は、今回も無し。愚生に言わせるとなかなかの健闘ぶりである。これもあれも、これまでの遊句会における数年間に及ぶ俳句修業が実っている証拠だ。勝負事は負ける時もあれば、勝つときもある。今後のさらなる健闘を祈る。


     撮影・芽夢野うのき「白業の叶うかこぼれつづけ萩」↑