2020年12月31日木曜日

西川徹郎「屋根裏に誰も知らない鶴の村」(「西川徹郎研究」第二集より)・・・

 

 「西川徹郎研究」第二集(茜屋書店)、その巻頭のエッセイ「夕映の空知川」に西川徹郎は、


  新城峠の麓の町新城へ開教に入った私の祖父で正信寺の開基住職西川證信(しょうしん)は、道内各地へ布教に出る時は、神居古潭か芦別の駅から鉄道に乗る外はなかった。芦別の町へ出るには、十四、五キロの峡谷の道を徒歩で越え、この空知川を必ず渡らなければならなかった。北海道の開教期を代表する僧侶で京都の本山西本願寺で聲明(しょうみょう)や勤式(ごんしき)の指導者だった私の祖父證信は、若き日より清冽な信仰に燃え、七五歳の晩年に至る迄、雪に埋もれた暁闇の道なき道を越え、幾度この川を越えたことであろう。(中略)

 私の文学は一言で云えば、かの文藝史家平岡敏夫が命名した〈夕暮れの文学〉であり、作家斎藤冬海の西川徹郎論「秋ノクレ論」の「秋ノクレ」の文学である。夕暮れ、即ちそれは生と死の狭間、日と夜の、そして月と日の光の擦過する狭間である。この淡く眩い光の中に浮かび出づる十七文字の存在の幻影が私の文学である。それ故、それは〈十七文字の世界藝術〉であり、〈十七文字の銀河系〉なのである。

 私のこの十七文字の藝術は、薄っすらと血の色に染め上げられている。それはかの啄木へ羨望の念を抱きつつ夭折した我が子信暁の念いを胸にこの川を越えた若き日の我が祖父證信、うら若き愛人信子と岸辺を迷い歩いた国木田独歩、更には身籠った幼き妻を旧里においた儘北海道を彷徨した葛西善蔵、彼らの若き日の胸はまさにこ地獄の火焔の如き北天の夕陽に焼かれていたからである。


 と記されている。本号の記事の特集の一は「第四回西川徹郎記念文學館賞」、二は「西川文学と世界思想Ⅰ 西川徹郎著『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』」、そして、他に、「西川文学と世界思想Ⅱ 綾目広治著『惨劇のファンタジー 西川徹郎十七文字の世界藝術」,

「諸家 評論&エッセイ抄/書翰&通信抄」などからなっているが、再録記事も多くある。愚生は、恐縮、締め切りにはるかに遅れながら、『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』論として「『青い旅』から」を寄稿した。その冒頭近くに、


 (前略)西川徹郎の名を胸に刻んだのは、当時の「渦」(一九七二年・六九号)で「二十代作家特集」が企画されたときだ。あれからすでに四十八年が経つ。その特集には、ぼくが憧れて「渦」誌の購読を申し込むきっかけを作った二十歳代最年長ランナーの中谷寛章(享年三一)ががいた。その他、三浦健龍、堀之内勝衣、三輪昌英、大井恒行、西川徹郎、寿賀演子、大路彦堂、高橋織衛、平林茂子、合わせて十名、各人五句+ミニエッセイが掲載されていた。ときに西川徹郎二十五歳、そして西川徹郎の五句と小文を次ぎに紹介しよう。

       青い旅

  夜行都市より鱗一枚一枚剥(は)がし   徹郎

  剃った頭にはるかな塔が映っている

  鶴の憂いのいもうとたちに北は暗がり

  富士のまわりにあおい鬼火のわたしたち

  骨透くほどの馬に跨がり 青い旅   (以下略)


 としたためたのだった。本誌の、この章の他の執筆者は、西川徹郎自身による『天使の悪夢九千句』からの自選22句の他、鈴木創士「そこには修羅と銀河がある 北の詩人西川徹郎」、志村有弘「西川徹郎著『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』」、中里麦外「西川徹郎俳句随想〈唱和性への回帰〉と〈第三イメージの創造〉」、藤原龍一郎「実存俳句の果てしなき旅」などである。また、斎藤冬海の長文の編集後記「阿修羅の詩人 西川徹郎について」が巻尾にあるが、そのかなりの部分は、僧侶・西川徹真(徹郎)と結婚し、本願寺派女性僧侶となった坊守・釈裕美(斎藤冬海)夫妻に対する争闘をめぐる事柄が「七、カルト宗教『親鸞会』について」で詳報されている。いわば文学的な問題ではなく、現実的に宗教的対立が起こっているようである。ともあれ、ここでは、西川徹郎自選句の中から、いくつかを以下に挙げておこう。


  月夜の家出悪魔と遠く自転車で       徹郎

  櫻の國の果てまで縄で連れられて

  村人の舌で刺された父はサルビア

  夕月は湖底で叫ぶ白い鶴

  十七文字で遺書書くすぐに死ねぬゆえ

  島の夜祭線香花火に陰(ほと)焼かれ

  死後二日歌舞練場で舞うお鶴 


       芽夢野うのき「龍の玉まさかの坂を千年ころげ」↑

       皆さま、良いお年をお迎えなさいますように!!

2020年12月30日水曜日

山崎方代「私に早く帰ろう水楢の落葉の下に早く帰ろう」(『山崎方代に捧げる歌』)・・

  


 さとう三千魚『山崎方代に捧げる歌』(らんか社)、著者「あとがき」に、


 この詩集の詩は、二〇一七年七月十一日に書きはじめて、わたしの運営するWebサイト「浜風文庫」に連載し、二〇一八年四月六日に完結したものを詩集として纏めたものです。

  その時期は、身内や友人を失った時期でもありました。

 そのころtwitterの山崎方代の短歌に突きあたり、歌集「方代」を読みました。

 そこには、ひとりの¨百姓¨の男がいました。

 大地から引き裂かれたひとりの¨百姓¨の歌に打たれました。

 この詩集のなかの詩は山崎方代の短歌と出会ったことで書きはじめられました。


 とあった。扉絵は桑原正彦。各詩篇の冒頭には、山崎方代の短歌が措かれている。合計31首。従って収められた詩篇は31篇。ブログタイトルにした短歌には、次の詩が書かれている。

    私に早く帰ろう水楢の落葉の下に早く帰ろう


 夜中に

 林拓のあざらしの恋を聴いてる


 昨日は

 神田の鶴亀で飲んだのだったか

 おじさんたちの隣りでひとり

 飲んだのだったか


 おじさんたちには友がいた


 おじさんは

 おとなしい


 あざらしの息吹のように飲む

 

 早く帰ろう

 早く帰ろう


  もう、一篇、もっとも短い詩を引用しよう。


   おほらかに乳をほりて泣くつゝぬけの声におよばぬ歌を今日も作る


 東名バスで帰った


 昨日は

 サーモンの山葵和えのにぎりを噛み


 東名バスで帰った

 失くしたスマホも帰っていた


 上原で

 詩の包摂ということばに会った


 それから新宿で

 なつかしい山形訛りを聴いていた 

 

 愚生もかつて山崎方代の短歌に魅せられたことがある。本詩篇中より、いくつか挙げておきたい。

  

 声をあげて泣いてみたいね夕顔の白い白い花が咲いてる       方代

 明け方の酒はつめたく沁みわたるこれも供養というものなのだ

 あばら家に突っかい棒をして住んでいる死にたくもなく思わなくなっている

 力には力をもちてというような正しいことは通じないのよ

 幸は寝て待つものと六十を過ぎし今でも信じています

 丘の上をちょうちょうが何かしら手渡すために越えてゆきたり

 こおろぎが一匹部屋に住みついて昼さえ短いうたをかなでる


 山崎方代(やまざき・ほうだい) 1914~1985年、山梨県東八代郡(現・甲府市)生まれ

 さとう三千魚(さとう・みちお) 1958年、秋田県雄勝郡生まれ。


                           ↑

撮影・鈴木純一「赤いクツ別れる前に行こうと言うよんじゅうにいてんいちきゅうごきろ」

2020年12月29日火曜日

志賀康「草の花散れば頓悟のときあらん」(「LOTUS」第47号)・・・

 

 「LOUUS」第47号(発行人・酒巻英一郎)、特集1は「多行形式の論理と実践(作品篇)」で、20名の多行表記の作品が掲載されている。巻頭随筆に酒巻英一郎が「主題と方法ーLOTUS47號『多行俳句形式』特集に向けて」で、その在り様がよく伺える。それについて(原文は正旧漢字)、


 (前略)ここには厳密に表現すれば、作品ごとの主題と方法が存する。これらを眺望するに、手短に要約すれば、主題と方法(論)の先行が。主題と方法とはいかにも古典的命題ではあるが、けだし渋滞が旧弊なのでも、先行が予見を赦されたものでもない。方位は定まってゐる。主題の句的止揚と、俳句形式の方法的制覇、その有機的合一。そしてそれら全領域に係わつてくる詩的言語の認識。令和初頭期の言語状況下にあつて、それは直ちに私たちが措かれてある社会的状況にイコールとなり、短詩形言語は、それらをもつとも端的に、かつ期せずして象徴的に表はしてゐる。いや正確には表はさざるを得ないのである。多行形式俳句は、改行といふ嘗ての俳句形式が想像だにしなかつた方法の革命的開示により、一気に言語状況の最前線に押し出された。即ち言語状況の一切を引き受けざるを得なくなつたと言つてよい。ゆゑに見事に、あるひは無惨なまでに俳句形式・言語方法の双方を露呈、露顕してみせる。


 と、正しく記されている。これらの困難に破砕されるかもしれない覚悟を開陳してもいるのだ。一行棒書きによる必然と多行表記における必然、それは即、一句の書き出し方の違いに直結している。それらはむしろ、多行表記の一回性の方によりストレスがかかっていよう。だからこそ、高柳重信以前に試みられた多行表記の作品群とは異なる成果として、明らかに「高柳重信以後の多行形式の一つの結実として、共有できやう」と言い及んでもいることで知れる。俳句形式においてすら、これまでに、カリグラムにしても、歴史的にはほとんど試行されつくされて来た感があり、いずれ、見事な一行棒書きの句も、見事なる多行表記の句も、ともに困難なことに違いはない。ともあれ、愚生のパソコン技術では、表記をすべて再現することは困難なので、本号より、いくつかの句を、以下に挙げておこう。


  戦場孤影

  乳母車              上田 玄

 

  破蓮を

  呼び戻しては

  また枯るる            丑丸敬史  

 

  一里塚

  一理を辿る

  春の暮            木村リュウジ


  空間

  --が

  怯えてみせる

  寒鴉              来栖啓斗


  秋風の

  破る芭蕉の

  言つ葉や          酒巻英一郎


  閃閃と

  飛びゆくミサイル

  子午線上の

  日のアリア          高原耕治


  垂乳根蒲団(ちちくさき)

  零余子産土(むせいにくがの)

  間引継子種(かんざまし)   田沼泰彦


     昨夜肺が桐になるまでの水せめ

  相馬 

  嘶き

  夜毎汲まるる

  肺の水            外山一機


  蜥蜴の尾

  いつしか振り子の

  

  琉球弧            豊里友行


  名(な)にし負(お)


  何年前(なんねんまへ)

  (なみ)しぶき       中里夏彦


  雪蟲(ゆきむし)

  黄昏(たそがれ)

  (てん)

  烏帽子(えぼし)かな     林 桂 


  直角に廊

  下を曲げ

  る蝉しぐ

  れ放課後          笛地静恵


  蓮ひらく


  涙眼の

  この惑星に         深代 響


  流れ行く

  ヒルメロメロン

  蛭の足           三上 泉


  血はゆるむ

  鷺の羽音に

    抽斗に         未  補


  空の沈黙

  祈りをとめて

  幻日

  傾ぐ            無時空映


  月と日に

  双葉が伸びる


  あなかしこ        山口可久實

  

  相聞(あひぎこえ)

  母(はは)

  消(け)しゆく

  (はは)の笛(ふえ)  横山康夫



★閑話休題・・・志賀康「子守柿(こもりがき)万古へ有機明かりなれ」(『名句に所以』より)・・・

 志賀康つながりで、小澤實『名句の所以/近現代名句をじっくり読む』(毎日新聞出版)、その中に、


 子守柿とは、柿の実をもぐ際、来年の柿の豊作を願って、木の上にただ一つ残しておくもの。それが永久に変わらず有機的な明かりを灯していてほしい、と願っている。(中略)電気の灯火ばかりが点っている現在ではあるが、木守柿の明かりというささやかな存在を忘れはならない。木守柿の下にこそ、人々の幸せがあるはずである、というわけだ。表現はきわめて難解だが、自然の力の復活を強く願う思いに共感する。『返照詩韻』(平成二十年刊)所載。(中略)

   明日は野に遊ぶ母から鼠落つ  


 とあった。他のページに、酒巻英一郎の師・大岡頌司、そして安井浩司、攝津幸彦と母の攝津よしこの句もあった。

  

  寸烏賊(すんいか)は/寸の墨置く/西から来て  大岡頌司

  ともしびや/おびが驚く/おびのはば

  ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき        安井浩司 

  麦秋の厠ひらけばみなおみな

  糸電話古人の秋につながりぬ           攝津幸彦

  露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな

  担ぎ来し花輪の脚を春泥に           攝津よしこ

  炎昼の径いつぱいに牛がくる



    撮影・芽夢野うのき「冬花火はなやかなればしねないよ」↑

2020年12月28日月曜日

林亮「野火にしか見ることのなき火の素足」(『歳華』)・・・


  林亮句集『歳華』(私家版)は、愚生自身が著者の来し方を把握しきれていないので、間違っていたら許していただきたいが、未確認の『曜』以前の句集と、さらに『曜』(1995年)、『遠国抄』(2011年)、『高知』(2014年)、『高遠』(2016年)、『瞭』(2018年)、に続く第7句集?ではないだろうか。また、句業の以前に詩集も上梓されているようである。こうした永年にわたる確実な歩みもさることながら、句の質を自身に問いながらのストイックな姿勢が覗われる句集である。最近は、「あとがき」にも、長文のものが多く、色々な情報を提供してくれるが、本句集の「あとがき」は短くシンプルである。全文を紹介しておこう。


  前句集「瞭」(平成三十年十二月刊)以降の約二年間の作品の中から、季節ごとに五つの主題を定め、一主題十五句として三百句を選んでみました。

 「草苑」からは多くのことを学びましたが、この句集により、「草樹」の会員の方々に何かをお伝えすることができるのではないかと思っています。


ともあれ、集中より、愚生好みに偏するが、以下にいくつかの句を挙げておきたい。


  北窓を開くに音のあらがへり        亮

  入れ替はる青さに空の花辛夷

  流れから外れはじめし花筏

  天涯に佇むための春日傘

  吹雪くしか散る術のなき雪柳

  茅の輪抜けそこにも月の懸かりけり

  蟻地獄から足跡の去りかねつ

  あるはずの後ろをなくす箒草

  どちらかがつくり花なる曼珠沙華

  猪垣の日よりも月に影の濃し

  まばらなる音に降り止む木の実雨

  姿なきところに鳴けり冬の虫

  ある丈を超えてはじめて木の葉髪

  個にはなき自在を得たる鴨の陣

  風花の不思議ひとりに多く舞ふ

  その色はなく似し色に冬椿

  駅の名につけてもみたき春隣


 林亮(はやし・まこと) 昭和28年、高知県生まれ。 



        撮影・鈴木純一「初氷ほうれん草の根が赤く」↑

2020年12月27日日曜日

太田土男「新蕎麦を育てし人といただけり」(『草泊り』)・・・


  太田土男第5句集『草泊り』(ふらんす堂)、著者「あとがき」に、


 (前略)嘗て草原の草刈りは、山に仮小屋を建て、寝泊りして

行った。それが草泊りである。民謡「刈干切唄」に唄われている。

  星のことよく知る人と草泊り

に因んで『草泊り』とした。思えば、草原の研究に長く携わった。そんな思いも込めた。


 とあった。集中に、


       三渓園の砌、墓に寄る

   鉄之介先生梅見に参りました


 の句がある。松崎鉄之介の自宅は横浜三渓園の近くにあった。愚生は一度だけお邪魔したことがある。松崎鉄之介が大野林火「濱」から主宰を継承して、すでに晩年の頃である。暑い夏の日で、ざっくばらんにステテコ姿で迎えていただいた。もはや高齢であったがお元気で、毎日、家の近くを散歩していても、草木の姿は日々違う、それが句になると・・・。しかし、主宰業も大変だよ、事務所も引き払ったし、土地も売って、「濱」のために注ぎ込んできた。しかし、とにかく、村越化石が句を送ってくるあいだは「濱」を続ける、とおっしゃっていた。その話を聞いてから、しばらくして村越化石は亡くなり、「濱」も終刊した。太田土男については、随分前になるが、俳人九条の会の集いで、戦前の新興俳句弾圧事件よりも先に、弾圧された新興川柳の鶴彬について講演されたのを聞いたことがある。ともあれ、集中より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を以下に挙げておきたい。

 


   残されし鳥もあるべし鳥帰る      土男

   秋雲や年輪にある凶作史

   壺棺を抱きて泣きしや草の花

   炉話の婆さまの口の裂けてきし

   雑然とされど毅然と冬木立

   雪解川暮らしの裏を流れけり

   耕して石を拾ひて耕せり

   流し雛その夜の星を仰ぎけり

   貧困のかたちは変はり啄木忌

   隠沼にけふの落花を加へけり

   蛇衣脱ぐ結界をなせりけり

   還らざるものに軍馬も草の花


 太田土男(おおた・つちお) 1937年、神奈川県川崎生まれ。

 


     芽夢野うのき「銀杏落葉振り向くまでを烏兎怱怱」↑

2020年12月26日土曜日

井上花風「南無妙法蓮華経風の花花の風」(『日々是好日』)・・・

 


  井上花風第一句集『日々是好日』(文學の森)、懇切な序は五島暎巳、その冒頭近くに、


 (前略)『日々是好日』には、花風さんの教員時代や家族愛や定年後の作品が収められている。骨格のしっかりした句柄で、ユーモアも効いている。読みすすむとウエットな心象も彷彿してくる。(中略) 

 花風さんは体力、気力にあふれ、気丈な明るい先生だったようだ。趣味はスキーと登山。声は大きい。定年退職してからは、爪にアートなマニキュアをして楽しんでおられる。大柄で元気だった句柄は、近年お母堂様を亡くされ、細やかな悲喜の句に深みをみせている。

   川床に蟬の声沸く立石寺

   荒紫蘇を耕し汗す元教師

   熱の口中青空につがい蝶  (以下略)


 と、記されている。そして、帯の句と惹句は、


  雁帰月空ひろびろと母の墓

  花風さんは両手を拡げた欅のような俳人である。


 である。また、著者「あとがき」の中には、


  「車座」では毎年、俳句朗読会が行われる。そのために複式呼吸の訓練もある。恒例の、芭蕉「奥の細道」の暗唱は厳しくも楽しく、声が磨かれる。また、先生が同人の一年一句秀をピアノで弾き語るスペシャルライブは「凄い」の一言、感涙である。

 音楽家でもある師は、日本をはじめ世界の各地において、ピアノで弾き語る「俳句ライブ」の公演を四十年間続けてこられた。


 とある。集中、句集名に因む句は、


  日々是好日耳裏白き一農婦       花風


 であろう。ともあれ、以下に愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。


       師・五島暎巳制作の齋藤愼爾の句碑〈梟や闇のはじめは白に似て〉

       を訪ねて山形県酒田市飛島へ。その夜の句会で特選を得る。

   飛島や句碑の梟鳴き初む

   母子手帳おぼろ月夜に見失ふ

   凌霄花神話の女の髪絡む

   泰山木白濁もあり晴天に

   寒夕焼ボールは空に穴を開け

   猪子槌連れて帰るのときどきは

   紙飛行機タンポポに触れてとまる

   陽水聴く芹茹でる窓春の雪

   虎落笛父声荒く帰宅せり

   はなびらが散り終るまでは紫木蓮


 井上花風(いのうえ・かふう) 1953年、静岡県生まれ。



撮影・鈴木純一「綿帽子あなたこなたと会釈して」↑

2020年12月25日金曜日

マブソン青眼「挨拶(カオハー)は『愛』という意味朝凪に」(『遥かなるマルキ―ズ諸島』)・・・


 マブソン青眼句集『遥かなるマルキ―ズ諸島』(参月庵)、句集と命名されているが短歌も収録されている。俳句は488句、短歌は49首。作品は日本語とフランス語の表記が併載されている。 愚生はフランス語には全く無知なので、マブソン青眼がフランス人だから、たぶんそうだと思い、どうやら英語ではなさそうだいう推測からそう思っているだけである。従って、一句は、両方の表記を記すが、残りの引用作品については、日本語表記のみを採用しておく。その前に、同封されていた「俳壇」10月号(本阿弥書店)の彼の巻頭エッセイ「コロナ感染と孤島在住で分かったこと」には、


 去年七月から今年六月まで、フランス領ポリネシア・マルキ―ズ諸島ヒバオナ島で、一人で暮らした。(中略)ポリネシア三角圏で最も大規模なティキ像(先祖像)が今も多く残っている。日本に妻子を残したことが何より寂しかったが、ヒバオナ島なら、亡き師・金子兜太が戦時中のトラック島で作ったような、¨純粋な無季句¨が詠めるのではないかと願って、ずっと暮らそうかと思った。しかしある出来事で、日本に帰らざるを得なくなったのだ。

  神を信じるしかない島よ崖しかない

  わが胸の愛の力にコロナ死ね

  ゴキブリが死んでいくわがコロナ治る

  三月十六日、島二つしかない店のひとつに入り、いつも通りその女店員とあいさつ代わりの「頬っぺにキス」を二回交わした。彼女に「元気だけど、ちょっと風邪をひいてる」と言われた。その四日後、二十日の夕方、肺の上辺りに激しい痛みが急に出て、その後は熱、絶えない咳、そして突然始まったり治まったりする猛烈な倦怠感・頭痛が続いた。(中略)三月二十七日、私は寝たきりで、ほとんど肺が開かない状態で、死に仕度をした。枕元に持っていた現金を全て置いて、「ゴーギャンとブレルと同じ墓場で葬って下さい」という遺言を書いた。諦めてホッとしたのか、二日ぶりに少し眠れた。(中略)そして、右の三句を詠んだ。頭の硬い、多くの日本人は「最初の二句は季語がない。俳句じゃない」とおっしゃるかもしれない。しかし言わせて貰う。芭蕉にも一茶にも優れた無季句がある。あとはヒバオア島では、一年じゅう二十七度で、季節なんか無いぞ、と。(中略)三ヶ月待ったら、やっとヒバオアから飛行機が飛び、日本に戻ることができた。日本政府の非人道的な水際対策を奇跡的に乗り越えて、妻子の元に戻れた。しかし、胸の痛み、咳、倦怠感という後遺症がずっと続いて、日本の医師に「検査しても判らない、ずっと続くか判らない」と言われた。ただ、、私は孤島で無季句五百と長編小説一編を書いた。自由に。この自由を、一生忘れない。


 とあった。コロナ感染からのいわば生還記である。愚生は、日が薬で、彼がすこしづつでも後遺症から抜け出られることを祈るのみである。ともあれ、句集中から、以下にいくつかの句を挙げておきたい。


  島の鶏(とり)みな痩せており生かされる

  Coqs et poules de l'i^le/Tant qu'ils sount maigres/Ont la vie sauve

 (注:スペルの記号は愚生のパソコンでは上手くいかない、いい加減・・許されよ)

 「冬の旅」聴く冬も夏も無き孤島

  人は見ず鳩は見るいつもの朝の虹

  マルキ―ズ語で「歌」をウタと言う波笑え

  わがハイクを「命の種」と呼ぶ八百屋

  古代先祖像(ティキ)金子兜太の悲しき笑み

  傘よ我が帆となりガラパゴスへ飛ぼう

  教会のまど孤島(しま)の空青すぎて

  死ぬまでか毎晩おなじ窓に銀河


  この野生馬かつて人身供儀壇(バエバエ)で捕まったと語る調教師「その詩を詠め」と

  自称「反経済成長・元システムエンジニア」 P君 浜で釘打つ  (以上2首短歌)


 マブソン青眼(まぶそん・せいがん) 1968年、フランス生まれ。1996年より長野市在住。


       広渡敬雄「続々・日本の樹木十二選」⑥柘榴(神戸)↑   


★閑話休題・・大井恒行「『俳愚伝』紅葉の雨と神戸港」(「俳壇」12月号より)・・・


 マブソン青眼巻頭エッセイの「俳壇」つながりで、広渡敬雄〈「続々・日本の樹木十二選」⑥柘榴(神戸)〉(「俳壇」12月号・本阿弥書店)、その文中、柘榴について、


  (前略)神戸は古くから湊であったが、慶應三(一八六七)年の開港以来、我が国を代表する国際貿易港として発展し、後背の六甲山からの夜景は日本三大夜景(百万ドルの夜景)と言われ、北野町の風見鶏の館等の洋館街や神戸東部から西宮にかけての灘五郷の酒造で名高い。

  露人ワシコフ叫びて柘榴打ち落す    西東三鬼

  初がすみうしろは灘の縹色       赤尾兜子

  白梅や天没地没虚空没         永田耕衣

  妻来たる一泊二日石蕗の花       小川軽舟

  摩耶山の彩づきそむと障子貼る    小路智壽子

  「俳愚伝」紅葉の雨と神戸港      大井恒行

  滝の上にまづ水音の現れぬ       和田華凛

  鮊子の海に淡路の横たはる       三村純也

  六甲全山縦走釣瓶落しかな       広渡敬雄  (以下略)


 と記されている。それにしても、愚生の句は、どこに発表したのかも記憶になく、よく見つけていただいたものである。或る時、愚生が神戸の街を歩いていたとき、偶然に四ッ谷龍と冬野虹に出会い、これから永田耕衣の元町句会に行くところだ、と言われ、ご一緒させてもらったことがある。出した句も成績も全く覚えていないが、蕎麦屋の二階だったような・・。阪神淡路大震災の前のことだ。西東三鬼については、三橋敏雄から、航海を終えて陸に上がるときは、必ず三鬼先生が迎えにきていて、飲み屋のツケは、すべて三橋敏雄が払っていたそうである。俳句の指導なんて受けたことがない、ともおっしゃっていたなぁ。羨ましい時代があったのだ。

    


       撮影・芽夢野うのき「音たててかさこそ心さふらんよ」↑

2020年12月24日木曜日

照井翠「牡蠣太る海の奴隷の人間へ」(『泥天使』)・・・


 照井翠第6句集『泥天使』(コールサック社)、帯の惹句には、


 句集『龍宮』、エッセイ集『釜石の風』、そして本句集『泥天使』。

ささやかではありますが、私の「震災三部作」が、これで完成したします。


と、また、帯の背には「震災十年目の鎮魂句集」とあった。そして、著者「あとがき」には、


 震災からもうじき十年を迎えます。恐怖の記憶は、薄れてきました。

 穏やかな日々を送っていますが、歯磨き用のマグカップだけは、震災で床に落下し縁が少し欠けたものを使い続けています。時折、ぼんやりして、尖った縁に唇を当ててしまい、血が滲むことがあります。

 このカップだけが、私の手元に残った「震災」です。

 髪も、いまだに自分でカットしています。詳しくはエッセイ集『釜石の風』に書きましたが、美容室へ行って髪を切ろうとすると、またあの日と同じような大地震が来るような気がして足が竦みます。十年も経つというのに、まだ越えられない壁があることに愕然とします。


と、記されている。最終章「滅びの春」には、「コロナにて死ねば抱かるる柩ごと」の句など、疫病禍えお詠んだ句も収載されている。集名に因む句は、


   三・一一死者に添ひ伏す泥天使


 だろう。ともあれ、集中より、いつかの句を以下の挙げておこう。


   黒波の来て青波を呑みにけり       翠

   死が横で息をしてゐる春の宵

   花置かばいづこも墓場魂祭

   生きてゐて死んでゐてする踊かな

   しぐるるや別れぬうちに想ふ明日

   帰り花こんどはこたに苦しまぬ

   死の風の吹く日も麦の熟れゆけり

   地の影も染みも人間原爆忌

   今日はけふばかりのいのち二月尽

   かつてここに人類ありき犬ふぐり

   前兆の火球裂きゆく夏の闇


 照井翠(てるい・みどり) 昭和37年、岩手県花巻市生まれ。


 


       撮影・鈴木純一「彼も死し我も浮きたる柚子湯かな」↑

2020年12月23日水曜日

谷佳紀「LGBT彼女も彼もクリスマス」(『ひらひら』)・・

 

 谷佳紀遺句集『ひらひら』(東京四季出版)、序文は、盟友だった原満三寿「ダンス・ダンスー句集に寄せて)、愛情溢れる跋文は、芹沢愛子「純心ー谷佳紀句集『ひらひら』に寄せて」、「あとがき」は妻の谷あかね。パソコンに記録されていた約4000句のなから、遺句集に収めた句は447句。まず、序文の中から、


  さて、谷さんの俳句ですが、表題に「ダンス・ダンス」と付けたように、肉感的な言語空間で満たされている、というのが私の愚見です。擬音語、畳語など動詞、副詞的擬態語が異常に頻出するのが際立った特徴です。

 例えば「ふわふわ」「ふわり」「ふわっ」などは数十句にわたって表れます。これらは温かく柔らかい充足感のようなもの、また漂うわだかまりの空気感のようなものとして機能しています。言葉を意味的、論理的に表出するよりは、ダンスのように肉感的振り付け語をもって俳句を立ち上がらせ、踊らせようとしているかのようです。(中略)

 私の特選五句をあげます。

   ひまわりと俺たちなんだか美男子なり

   片隅に馬いて静かな花火上がる

   天高く蘖(ひこばえ)ている老人なり

   晩秋の空たっぷりともらいましょう

   たんぽぽの絮と一緒の空きっ腹


また、跋文には、


 (前略)谷さんは二十四歳の時に「海程」の同人になりました。まだ大所帯ではなく「同人スケッチ」という欄では、金子兜太先生が一人ひとりの紹介文を書かれています。「谷佳紀 くらげのごとくハイエナの如し。純心。二〇代、小柄褐色」。その二年後の「ショート。小答」という自己紹介欄では、谷さんは「配偶者なし。悪口雑言大好き。身体と反対の大声。純心」と自身でも先生から贈られた「純心」という言葉を使っています。(中略)

 谷さんの俳句は時々解らないと言われます。解説は不要、というようなたたずまいです。なので好きという基準で選びました。(中略)

 谷さんとの初対面での印象は、くらげでも、ハイエナでもなく、「洗い晒しの木綿のような人」でした。そう言うと、みんな笑うのですが、「糊が取れて体に馴染んだ、清潔な木綿」と説明していました。その後も谷さんは、谷さんとして、気取らず、マメで、一途で、ストイックで、面倒見の良い、優しい、せっかちな人。「純心」という言葉の似合う人でした。

 句集上梓について「出せるなら出したほうがいい。それは必ずその人の俳句のためになるから」と言っていた谷さんでしたが、きっとこの句集を読んで新たに刺激を受けたり、心が自由になる人もいるはずです。


 そして、「あとがき」には、


 夫は一九八三年に海程新社企画の『谷佳紀句集』を、一九九九年に第二句集『楽』を出しております。当句集はそれ以後の句で夫がパソコンに整理していた句から「海程」「海原」に発表した句を中心に皆さんに選句して頂いたものから成っています。

 句集名は「ひらひら」といたしました。「人生はひらひら赤蜻蛉は軽い」の句から取ったものです。私は俳句はわかりませんが、この句は漂うように生きている人の生の容相を表していると思うのです。この句集で谷佳紀を偲んで頂けたら幸いです。


 とある。愚生が谷佳紀に最初にお会いしたのは、多賀芳子宅での句会で、原満三寿と一緒である。兜太が主宰になることに反対した若手俳人だった彼らは「海程」を退会した。原満三寿と「ゴリラ」を発行していた頃だから、30年以上前のことだ。その後、兜太の晩年には「海程」に復帰している。愚生のあいまいな記憶ながら、谷佳紀夫妻の仲人は兜太夫妻。そして、長年にわたってウルトラマラソンをやっていた谷佳紀だから、その急逝には、誰もが信じられない気持ちだった。ともあれ、以下に本集より、いくつかの句を挙げておきたい。


     多賀芳子さん一周忌

  多賀さんごろにゃんの顔どんぐりの顔       佳紀

     悼 島津亮さん

  亮さんとゆらゆらあひるのおまじない 

  被爆忌や書かないよりは書こうと思う

     義弟 真流茂樹死去

  茂樹さん泡雪のあと雨の塊です

     悼 阿部完市さん

  桜咲く男に寿命きて一月(ひとつき)

  あしび咲く永遠とはものすごく快晴

    宮崎斗士・芹沢愛子両氏ご結婚

  ご結婚や前方ヒマワリ咲きだした

  土筆キラキラ眠りを残した日々がある

  もう五年ですか小春のお墓皆子様

  あなたと秋ととてもとてものバラ香る

  猛暑だろうと孫の頬っぺの柔らかさ

  俺は今日蛍になったオオカミは去った

  枇杷の花孤独はいつも晴れている

    二月二〇日金子先生が入院されている熊谷総合病院へ

  先生昏睡春の空で冬の風

  すぐ忘れ泰山木の花のダンスダンス

  紫陽花やいつも一人でいつもいたずら

  愛は消えてもそこはまぁ紅葉です

  帆柱はいまも青空青鮫忌


 谷佳紀(たに・よしのり) 1943年~2018年、新潟県生まれ。享年75.



     芽夢野うのき「さびしさの溢れて青い実にもどる」↑

2020年12月22日火曜日

高岡修「ネイルには原子雲から残光を」(『凍滝』)・・・

 


 高岡修句集『凍滝』(ジャプラン)、集名に因む句は、巻尾の、


   凍滝のなか月光の氷りたる     修


  であろう。また、「あとがき」には、


 十一月の初め、原詩夏至著『鉄火場の批評』(コールサック社)が送られてきた。(中略)

 鍵穴からみえるぐらいがちやうどよい かぎ開けてみる真実はわな 北神照美

 肉親の殴打に耐えた腕と手でテストに刻みつける正答       遠野 真

 真葛這うくきのしなりのるいるいと母から母を剥ぐ恍惚は    野口あや子

 (中略)

 一読、短歌は今ここまできているのかと眼を見張った。というのも私は、これまでのただごと歌(・・・・・)の流れを高く評価できないでいたからである。引用の多くは若い歌人のものらしいが、吉川(愚生注:吉川宏志)の言う「いま生きている時代の本質を手づかみ」しようとしている姿が、私にはじつに新鮮に思えたのだ。

 ひるがえって俳句はどうなのか。現代文学を標榜する以上、俳句も「時代の本質を手づかみ」にしなければならない、そう思った。これまで以上に先鋭な方法意識をもって、私もまた現代を俳句で表現してみてみたい、そう思ったのである。


 と、記している。果して、現代の猥雑を「手づかみ」にできたか否か、髙岡修の自家薬籠中の「蝶」は舞い、「闇」は蹲ってはいる。それでも、想いを述べるには、短歌に比して、いささか手ごわい俳句形式を相手にしている高岡修の焦燥を、手触りとして受けとることはできそうである。高岡修の骨頂はなんと言っても、俳句的詩性と沈黙の深さを、時代を呼吸しながら抱え込むことにあろう。その意味では、深く人生と年齢を閲した高岡修には、若書きの時代はすでに終わり、深く批評を沈潜させた洞察の季節にあるはずである。「凍滝」の選択にも富澤赤黄男の幻影を見、さらなる困難を思った。もとより、芭蕉とは歩く道を異にしてきたはずだが、やはり、俳句は言いおおせるところの詩形ではなさそうである。ともあれ、集中より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておきたい。


  己(し)が影の殺意に凭れ春の斧       修

  木の縄に垂れていて空を縊る企画

  しゃぼん玉飛び子殺しの世を映す    

  花の闇臓器をすべて入れ替えて

  遅着せる蝸牛の爆死証明書

  手花火がはじけて遊ぶ人の闇

  死者の胸に義手も組まれて深睡る

  棄てるべき天あらざるに草雲雀

  月光を裂き月光の血に痴れる

  捨てられて終夜を歩きいし靴か

  展翅凾花野を掛けてあげようか

  折鶴が火の粉ちらして飛ぶ未明

  


撮影・鈴木純一「死の手紙(ダイイング・メッセージ)Sだけ冬の大蚯蚓」↑

2020年12月21日月曜日

山田耕司「雷が落ちてカレーの匂ひかな」(『わたしの好きな季語』)・・・


 川上弘美『わたしの好きな季語』(NHK出版)、どのページを開いて読んでもいい。おおむね見開き2ページの4分3ほどは季語にまつわるエッセイ、左ページの終わり近くに一句が配されている。読みやすいこともさることながら、川上弘美の語り口が快い。例えば、ブログタイトルにした山田耕司の十代と思しき句「雷が落ちてカレーの匂ひかな」には、


 ときどき、わたしの読書には「フェアー」期間が訪れます。(中略)

 今年(二〇一三年)は、春からどっぷり岡本綺堂(おかもときどう)フェアーとなりました。綺堂といえば、『半七捕物帳』。テレビでもおなじみの捕物帳ですが、岡本綺堂を読むのは、はじめてでした。ですから、いつもの「読み返しフェアー」ではなく、今年は「初読みフェアー」。(中略)

 中に、江戸のころは、激しく突発的で、けれどすぐにあがるにわか雨が多かったのに、このごろの明治の夏はろくに雷も鳴らないなあ」という意味の言葉を半七親分が喋(しゃべ)る場面もありました。ヘぇ、江戸って、今の東京と同じような、あのスコールめいた雨がしょっちゅう降っていたのかと、驚きました。

雷が落ちてカレーの匂ひかな     山田耕司(やまだこうじ)

 これは、現代俳人の作品。夏の夕刻のむっとした雨上がりの空気と、カレーの匂い。

思いつきそうで、なかなか思いつけない取り合わせに、はっとします。好奇心旺盛な半七親分が現代にやってきたら、案外カレーが大好物になったかもしれませんね。

  

というような、塩梅です。ちなみに以下は、掲載された句のみをいくつか挙げておきます。


   木蓮や母の声音の若さ憂し         草間時彦

   鈴虫を飼ひて死にゆくことも見る      古屋秀雄

   死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む      金子兜太

   鬱の日は鬱を愉しむかいつむり       鈴木鷹夫

   せり・なずな 以下省略の粥を吹く     池田政子


川上弘美(かわかみ・ひろみ) 1958年、東京生まれ。

 


   

★閑話休題・・・北大路翼「横向きの人生リーチ宣言牌」(『みえない傷』)・・・


  北大路翼第3句集『見えない傷』(春陽堂書店)、本書巻頭に記されている「あとがき」には、


 (前略)それでも俳句を続けてゐるのはなぜだらうか。

 創作とは、生を描くのではなく、死を描くことではないかと近頃思ひ始めた。

死が恐ろしいのは、死後のことを誰も教へてくれないからが。その意味で死を語らうとすることは創作である。後ろ向きに見える句が増えたが、気持ちは前を向いてゐる。積極的な死への参加だ。死と仲良くなることと換言してもいい。(中略)

 できるだけ勝手に生きて勝手に死にたい。そのためには嫁も子供も要らない。よろこびもかなしみもせず、一人でのんびりと死ねたら最高だと思ふ。仲間は大事だけれど。

 僕がいつぼのやうに死んでも、きつと納得して死んでますから騒がないで下さい。たまに思ひ出したら、この本をまた読んでもらへれば・・・ 


 と、記されている。騒ぎはしませんよ。ご安心ください。ともあれ、集中より、追悼句に偏するかもしれないが、いくつかの句を挙げておこう。そういえば、もう10年以上にもなろうか。北大路翼と数人で、越前和紙の里に行き、上田みゆきとのライブ即興による墨絵と俳句のパフォーマンス。一泊二日の旅を共にしたことがあったなぁ・・。大翼(おおつばさ、その時、彼をこう呼んでいた)は、一日中、朝起きてから寝るまで呑んでいたが、酒にはめっぽう強い印象だった。


      悼む渡辺隆夫

  貰ひ煙草もこんな霞の鎌倉で        翼

     共謀罪採決強行す

  ひまはりに隠れて野糞するやうに

     悼む金原まさ子

  でで虫が永久の交尾を眼球で

     悼むオグリキャップ

  馬面の楸邨を追ひオグリの忌

     石巻

  ここまでが津波の高さ秋津群れ

  鬱の句の系譜に我も稲の虫

     悼む依田明倫

  荒れに笑む雪沓の歩を逞しく

    悼む星野仙一

  書初めに今年も打倒巨人軍

  老人を嫌ふ老人咳一つ

  行き止まりすなはち雪の捨てどころ

    悼む小島武夫

  雪の中駆けてゆく手順かな

    悼むさくらももこ

  水平に星飛んでゆくまるこの忌

  一匹だけ光らない〇〇〇●〇螢

  投げつけるほどの重さのなきマフラー


北大路翼(きたおおじ・つばさ) 1978年、横浜市生まれ。   



     
 芽夢野うのき「悪夢のような一日を夢みて葱よごめん」↑

2020年12月20日日曜日

花森こま「でんでん太鼓言葉が足らなくなってくる」(「逸」43号)・・・


 「逸」43号、表紙の告知には、「永らくご愛顧いただきましたが、諸事情により、不定期刊とします。これまでありがとうございました」とあるのは、事実上の休刊のように思える。本号中の花森こまの作品「手の中の雪景色」には、


   あと少し時間あるらし青嵐       こま

   つぎの世まで何して遊ぶ母子草

   病状悪化いつからこんなにふえた蟻

   まだ生きて淋しや石橋蓮司かな

   車椅子を子に押され積乱雲の下

   てふてふは極彩色に死なんとす


 などの句があれば、病中吟のようにも思え、そうであれば、ご快癒を祈るばかりなのである。たしか、花森こまは愚生より、数歳若いはずだ。昔のことになるが、永田耕衣「琴座」の何かのお祝い会で、西下した時にお会いしたように思える。本復を祈る。そして、「逸」

が再た刊行されることを・・・。ともあれ、本誌よりの一人一句を以下に挙げておきたい。


   あと五分ほどで遠吠え始めます     楢崎進弘

   おみなきてふく口ぶえも霧ならん    木戸葉三

   芍薬に後ろめたさはないだろう     石原 明

   百歳を草牟田川の澄むを待ち     武邑廢杖子

   青草刈られもう長い夢は見ない     花森こま



★閑話休題・・・折井紀衣「千鳥消え海のひびきを残しけり」(「禾」第8号)・・・ 


 季刊同人誌「禾(のぎ)」第8号、その「あとがき」に折井紀衣が、愚生も昔、確かに聞いていた声を記していた。


  もし危険な言い方を許してもらうならば、いわゆる俳句の中には、非常な傑作と、そうでないものとの二種類しかないようである。多くの作家たちが、得意げにふれまわる、いわば中くらいの傑作などというものは、所詮、そうでないものの中に、すぐに埋没してしまうだけである。そして、文字どおり、俳句の名に価する作品とは、その、きわめて稀にしか書かれることのない、いわゆる非常なる傑作をおいてほかにはないのである。(「高柳重信読本」角川学芸出版)


 そしてそれは、こう続いているのであった。「その他のものは、要するに、その作品の作者自身にとってのみ俳句であるが、せいぜい、その周囲の、ごくかぎられた連衆たちにとって、ほんの束の間、俳句であり得るにすぎないのである」(『破産の積み上げ』「俳句研究」昭和40年11月)。とはいえ、俳句形式に魅入られた者には、ある意味、不毛の夢を見つづけるしかないのも止むを得ないことなのである。希望の病というべきか。

 本誌において、楽しみはもう一つある。「禾のふみ」の藤田真一「時雨翁賛」、


(前略)四季が大陸由来だとして、それが詩歌とのっぴきならない関係性に至ったのは、古今和歌集以来である。万葉集では相聞・挽歌・雑歌を柱とし、四季の種別はなかった。春夏秋冬に該当する和歌は、おおむね雑歌にまぎれている。それを自立させたのが、古今集である。この歌集では、四季と恋の部を二本柱とし、以後二十一番目の新古今和歌集まで、この方式を五百年以上、連綿と踏襲した。(中略)

 さて、江戸の俳諧において、古今集に比肩する集としてあげられるのが、『猿蓑』である。虛六の『宇陀法師』に、「猿蓑は俳諧の古今集也」という周知の一言がある。(中略)

 古今集の四季が、春上・下、夏、秋上・下、冬の順に計六巻であるのにたいして、『猿蓑』は季節ごとの四巻ながら、冬、夏、秋、春と異例の配列をとる(連句の巻も同様)。理由は、芭蕉の「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」を巻頭にすえたからにほかならない。また春の末尾を、「行春を近江の人と惜しみける」で終えたのは、その他の歴史と風色をめで、人びととの交情と挨拶をこめたからである。


 と、こう述べているが、さすがに蕪村研究で名のある藤田真一らしく、最後は、「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」の句を『猿蓑』の巻頭にすえたのはだれか、という問いを発しながら、


 こうした芭蕉の秘術を、何気ない顔でうけとめたひとがいた。蕪村である。

  みのむしの得たりかしこし初時雨

 初時雨に見まわれたのは、こんどは蓑虫ということになる。蓑虫なら、すでに自前の蓑があって、いまさら欲せずとも足りている。「得たりかしこし」は、、得意げなそぶりをいう成句。その利用が、即芭蕉への共感とパロディになっている。しかも、タッチはかるい。「蓑虫よ、我汝に与(く)みせん」ともいっている。

 ちなみに本句は、『蕪村句集』冬之部巻頭(・・)におさまっている。愛弟几菫は、師蕪村の俳意に鋭敏だった。


と、蕪村で締めている。ともあれ、本誌本号よりの一人一句を挙げておきたい。


   隙間風よりきれぎれに数へ唄     中嶋鬼谷

   冬の日の抱き直されし赤子の瞳    川口真理

   冬銀河ノートは真白きままつづく   折井紀衣



      撮影・鈴木純一「姫ゆりも姥ゆりも口渇いてをり」↑

2020年12月19日土曜日

藤原龍一郎「満鉄の社史のモノクロ敗戦日」(「ー俳句空間ー豈」63号)・・・

  
            
              1980年6月、「豈」創刊同人↑


             「俳句四季」11月号より転載↑

 「ー俳句空間ー豈」63号(豈の会)がようやく出来てきた。先月末に責了にしていたが、愚生の作品のルビと編集後記の一部は、どうも上手く行かなかったようだ。というわけで、豪胆な永田耕衣は、誤植も我が作品!と言っていたが、愚生の場合は、そこまで鷹揚にになれない俗物なので、作品のみは、この場を借りて訂正しておきたい。( )内は正しいルビです。


    頃中(コロナ禍)は戦時に似たり猛々暑    恒行


 以下には目次を記しておきたい。お買い求めは発売元の邑書林まで。全国の書店にて注文可です。ちなみに、今号は、ここ数十年間で、初めて、同人外からの寄稿はありません。創刊40周年を過ぎ、これまで、稿料もなく、ご寄稿頂いた皆様、そして、エエ加減ナ・・刊行ペースを支えていただいた、同人諸兄姉に、発行人・筑紫磐井ともども、ひたすら感謝申し上げる次第です。

‐俳句空間‐「豈」 63号)  目次                     表紙絵・風倉

                          表紙デザイン・長山真      

  特別作品  「緑濃し」 池田澄子     「別件紺」打田峨者ん 

「百題稽古」高山れおな 6   「眉庵集」藤原龍一郎 8 

「光冠病」 山﨑十生  10 

特集 大本義幸追悼

    大本義幸・望郷と酸 藤田踏青 12  

ヴァルネラビリティの詩学―大本義幸の「声」と「薄氷」 堺谷真人 14   

◆作品Ⅰ 川崎果連 17 なつはづき 18 青山茂根 19 飯田冬眞 20 井口時男 21

池谷洋美 22   丑丸敬史 23  大井恒行 24 大橋愛由等 25 岡村知昭 26

加藤知子 27  鹿又英一 28   神谷 波 29   神山姫余 30 川名つぎお31 

創刊40周年記念座談会―「豈」の創刊前後―

     大井恒行・藤原龍一郎・堀本吟・(司会)筑紫磐井  32

 作品 北川美美 43  北村虻曳 44  倉阪鬼一郎  45  小池正博  46

     小湊こぎく 47 五島高資 48  堺谷真人 49   坂間恒子 50

      酒巻英一郎 51  佐藤りえ 52  城貴代美 53 杉本青三郎 54

      関根かな 55  妹尾 健 56  妹尾健太郎 57

◆特別寄稿 象潟の満寺かな蟬時雨―我がルーツと俳句2―  わたなべ柊 58  

◆作品Ⅲ仙川桃生 60 高橋修宏 61 髙橋比呂子 62 田中葉月 63 筑紫磐井 64

    冨岡和秀 65 照井三余 66  中村冬美 67 夏木 久 68

    萩山栄一 69 秦 夕美 70  羽村美和子 71 

「豈」62号読後評 ストライクゾーン 川崎果連 72  

◆作品Ⅳ早瀬恵子 74 樋口由紀子 75 福田葉子 76 藤田踏青 77  渕上信子 78

干場達矢 79  堀本 吟 80 真矢ひろみ 81 森須 82  

山村 嚝 83 山本敏倖  84  わたなべ柊 85 

◆書評  田中葉月句集『子音』評  藤原龍一郎 86 

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★募集 第6回攝津幸彦記念賞

 過去5回にわたって公募した攝津幸彦記念賞を、篤志家の支援により、第6回攝津幸彦記念賞として募集することとしました。正賞一作品を選考いたします。「BLOG俳句新空間」でも広告いたします。奮ってご応募下さい。

*内容 未発表作品30句(川柳・自由律・多行も可)
*締切 令和3年(2021)年5月末日

*書式 応募は郵便に限り、封筒に「攝津幸彦記念賞応募」としるし、原稿(A4原稿用紙)には、氏名・年齢・住所・電話番号を明記して下さい(応募原稿は返却いたしません)。

*選考委員 池田澄子・大井恒行・高山れおな・筑紫磐井

*発表 「豈」及び「俳句新空間」

*送付先 183-0052 東京都府中市新町2-9-40 大井恒行 宛

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紙幅も無いので、特別作品と本号より同人参加した方の一人一句を挙げておきたい。


  攝津幸彦忌をスクワットして家居        池田澄子

  ふくわらひつられてわらひされかうべ     打田峨者ん

  真木・真鳥・真神・真心、冬に入る      高山れおな  

  歌姫を問はば明菜ぞ青葉冷え         藤原龍一郎

  光冠忌待ち侘びている原爆忌          山﨑十生  

  「貼り紙はダメ」の貼り紙風光る        川崎果連 

  てのひらは毎朝生まれ変わる蝶        なつはづき 

  


         芽夢野うのき「やわらかき冬日を掬うため目覚め」↑

2020年12月18日金曜日

三橋敏雄「昭和衰へ馬の音する夕べかな」(「WEP俳句通信」119号より)・・・

 

    三橋敏雄『現代俳句辞典第二版』(富士見書房)用 新資料自筆略歴↑

 「WEP俳句通信」119号(ウエップ)、特集Ⅰは「三橋敏雄生誕100年」、内容は、林桂選「三橋敏雄100句選」、論考は、遠山陽子「三橋敏雄の転換願望」、池田澄子「極私的回想ー私淑のち師事」、岸本尚毅「敏雄礼賛」、澤好摩「三橋敏雄断章」、林桂「三橋敏雄論ー伝統と前衛を統ぶ者」、北川美美「カラスアパラタスー鴉を飛び交わせる装置」、生駒大祐「敏雄と戦争」、大井恒行「三橋敏雄、新資料にみえる志」である。それぞれ示唆に富んだ内容であるが、なかでも、岸本尚毅「敏雄礼賛」は、三橋敏雄の無季句のみを俎上にしたもので、結びに、


  無季句は新興俳句の一部である以上に、俳諧の一部であったという重要な事実を、三橋氏は実作を以て示して下さった。その点に対し、尊敬と感謝の念を抱く。


 と記していることに、愚生は納得する。そしてまた、林桂の「三橋敏雄論」において、俳句史のなかに見事に位置づけられているのには、感銘すら覚えた。例えば、戦火想望俳句についての件、

 

(前略)しかし、三橋は作品評価は飽くまで作品そのもののリアリティに求めるべきであることを知っていた。とは言え、それを反証するのには、既に危険な社会状況でもあった。また、戦争映画や戦場小説に基づいての戦火想望俳句が、どれほどの表現たりえていたかという問題もあった。それは前線俳句でも同様なことが言えるだろう。三橋の句も同じ視線にさらされるわけだが、三橋の「いつかは投入されるかもしれぬ戦場」を想望するものであったという関係性は留意しておいてよいだろう。戦火を想望しながら、やがてそれは現実の場となるだろうという痛切な想望でもあったのである。


 あるいはまた、


 (前略)金子兜太や赤尾兜子の無季句とは印象が大きく違う。三橋にとって、無季句は新興俳句に出自をもつ自らの非転向の証明でもあり誇りでもあったが、それを句の中で事立てる趣はない。馴染んでいる。(中略)

 季語が一句の文脈の中で、共示義の機能を担うのであれば、それを担い得ない季語は、免罪符たり得ても真の季語機能を持たないのかもしれない。季語膨張主義は、季語の危機を内包している。有季信奉者の真の敵は、無季にあるのではなく、時に俳句文脈の中で、機能不全に陥りかねない拡張季語にこそあるのかもしれない。

 三橋の俳句は、有季、無季論の外にあって超然としているように見える。季語の有無を唯一無二の俳句判定の基準にしている者は別にして、俳句文脈に即して読んで俳句性を感得するのであれば、三橋の句は誰の句よりも俳句の顔をしている。典型性を備えている。例えば『眞神』を読んでいるとき、季語の有無を問うことを忘れる。そのようなチェックなしに俳句に直に触れている思いに私たちを誘う。ふと気づくと季語のない句であることに驚かされる。


 と述べる。そして、高橋睦郎の言葉を引用している。孫引きになるが、


 「三橋敏雄氏の俳句は、純粋俳句は可能か? という問いの上に成り立っている、というよりも、氏の俳句それじたいが、純粋俳句は可能か? という自問であり、自答である、と思う」「(中略)山口誓子やことに永田耕衣の運動なり生きかたはいつもこれを含んでいたと思うが、私は三橋敏雄氏の作品にはじめてと言っていい明確に自覚されたかたちを見る。私はそれを純粋俳句、または純粋雑詩と呼びたいのである」。


 という。保存版の三橋敏雄特集であると言えよう。ともあれ、以下に、三橋敏雄が、1986(昭61)年66歳のときに、自選した「愛着のある5句」を以下に挙げておこう。


   かもめ来よ天金の書をひらくたび     敏雄

   いつせいに柱の燃ゆる都かな

   鈴に入る玉こそよけれ春のくれ

   昭和衰へ馬の音する夕べかな

   裏富士は鷗を知らず魂まつり


 本誌本号のその他に、林桂の連載⑧「俳句に一欠片(ワンピース)/三つの詞華集ー昭和一五年前後」、筑紫磐井「新しい詩学のはじまり㉘/伝統的社会性俳句⑳ 馬酔木の社会性俳句」もあり、貴重な論である。ここでは、特集Ⅱ「新主宰/新代表 競泳20句」から一人一句を挙げておきたい。


  堆黒ともきざはしの艶秋館       柴田鏡子

  傘寿なほ為すことのあり月天心    蔵田得三郎

  女郎花しづかにほこる草の丈      川上良子

  木道は風の遊び場枯れ尽す       田湯 岬

  月は日を死は綿虫を追ひこせり    鳥居真里子

  地を跳ねる踊りや月の煌々と     山田真砂年

  腕白のままの心や荻の風        和田洋文

  赤のままむかしがそつとそこにある   依田善朗



                 撮影・鈴木純一↑

2020年12月17日木曜日

黛執「京へ入る道のしぐれてゐたりけり」(「俳句αあるふぁ」2021冬号)・・


  「俳句αあるふぁ」2021冬号(毎日新聞社)、新作10句の黛執は、作品下段の小文に、


  体調を崩し、いま入院中である。なぜか私は、冬と言えば「京しぐれ」などという言葉とともに京都を思い浮かべる。病間、冬の京の思い出を辿った。(以下略)


 とあり、編集部の注に、「黛執氏は十月二十一日、逝去されました、謹んでご冥福をお祈り申し上げます」とあった。病床からの作品である。合掌。時雨は何といっても北山しぐれ、ですよね。そして、本誌には「ご協力御礼と『俳句αあるふぁ』休刊のお知らせ」(上掲写真)が挟まれていた。


 (前略)二〇二一年三月十五日発売の春号をもって休刊することになりました。

小誌「俳句αあるふぁ」が一九九二年十一月に創刊して二十八年、季刊俳句誌としてリニューアルしてから、まる三年が過ぎようとしています。

 創刊以来、俳句を愛する多くの、皆さまからのご支援、またご寄稿いただきましたおかげで、詩歌の文化創生の担い手としての存在価値を示してくることがかないました。まことに深謝にたえません。(以下略)


 愚生にとっては、「俳句αあるふぁ」は、これまで、石寒太あっての誌というイメージがあったので、あるいは、その奮闘の甲斐なくというべきか、最後は、自分で幕引きをするのではないかとばかり思っていたので、俳壇情勢に疎い愚生にとっては、編集長・中島三紀の名はあっても、石寒太の名が見えなかったのが、少し淋しかった。何しろ、忘れがたいのは、「現代俳句」シンポジウムの打ち合わせのために上京した坪内稔典などと共に東中野でお会いした。その時は、寒太ではなく、毎日新聞記者の名刺・石倉昌治だった。40年ほど前のことだ。ともあれ、黛執と同じ、新作10句欄の一人一句と、愚生にとっては、懐かしき馬場駿吉と、そして「豈」同人・なつはづきの句を挙げておきたい。


   ぜんざい屋混み合うてゐる片しぐれ      黛 執

   椿一輪からだからああ、出てゆかぬ    鳥居真里子

   泥よりも昏く牡鹿の立ち上がる      津川絵理子

   寒禽は啼かず互ひに向き合はず       馬場駿吉

   久女忌やコンパス深く紙を刺し      なつはづき

   

          


★閑話休題・・・「地球の悲鳴、生きものたちの悲鳴」(「日本野鳥の会」パンフより)・・・   

 休刊つながりでいうと、日本野鳥の会、季刊機関誌「Toriino」も昨年から休刊中である。日本野鳥の会は、1934年、中西悟堂、北原白秋、戸川秋骨、金田一春彦、窪田空穂、柳田國男などを発起人に「日本野鳥之会」として設立され、すでに85年の歴史があり、現在は公益財団法人である。設立最初は野鳥(やちょう)ではなく「のどり」と言われたそうである。チラシの中身は、いわば、「ご支援願い」、寄付のお願いである。1口1000円の「バードメイト寄付」で口数分のピンバッジがもらえる(フクロウ・スズメ)、とある。愚生はこのクチである。ほかに5000円以上の寄付で「GINZA TANAKA特製「スズメ」のシルバーブローチ。愚生には苦手の「オンライン寄付」からも申し込みができると記してある。



         芽夢野うのき「夢こそまこと冬の木のシルエット」↑

2020年12月16日水曜日

各務麗至「青蜥蜴虚空の塩を睨みをり」(新編『青蜥蜴』)・・・


  各務麗至『新編 青蜥蜴』(詭激時代社・セレクション精選集17)、往年の各務麗至がいる。四つの章題「青蜥蜴ー塚本邦雄選」(俳句)、「彩絵硝子の鳥籠ー塚本邦雄選」(短歌)、「陽の棘ー前登志夫選」(短歌)、「秀句館の頃」(エッセイ)。巻末の新編のための「覚書にかえて」には、


 昭和五十年頃から文章勉強のために短歌を始め、

 塚本邦雄に私淑することになり、詭激時代を送ったり邦雄選のコーナーがあった角川短歌に投稿したり、

昭和五十年、

小文集を纏めた時に塚本邦雄から私信が届きました。

そして、その頃、サンデー毎日で、新春恒例評判の邦雄選現代百人一首があったり、邦雄選の俳句コーナーがあったり、その俳句の選評作を筆書きし、

縮小複写した小歌文集で頂いた私信入りの袖珍豆本の青蜥蜴を、昭和五十五年に発刊したのでした。(中略)

そんな作文初心の頃、褒めの言葉で辛辣に評してくれたことが恋文にも似た最高の激励で、

俳句以前の短歌も抄出して一冊にすべく、

邦雄選だけでなく、同時期の文章修業に邁進していた若い時代が彷彿として、

前登志夫選や文章を所収しての新編成としました。


 とあった。ブログタイトルにした「青蜥蜴虚空の塩を睨みをり」には、以下のような塚本邦雄の選評が付されている。


 蜥蜴の青と塩の白が句を引緊めた。塩が生殺与奪の権を握つてゐるらしいそのサスペンスが、句の身上。「睨みをり」は窮余の策の感少なからず。


 また、短歌には、


 まひる野に眠れる二十歳ときはなつ渾沌は朱き狐のかみそり


  曼珠沙華よりももつとひりひりと赤い狐の剃刀が、二十歳の危い心の翳を裂く。

  野は濃緑、その中心に白昼夢を貪るのは昔の君自身か。

 

  集中より、いくつかの句歌を挙げておきたい。


  天降り罅はしる玻璃濯ぎけり              麗至

  鳴神の腋窩息づく月見草  

  亡き人の魂いでて来よ烏瓜

  詩歌棄ておのれみつめむ朋浄し目の高さまで海は満ちゐる 

  左思右想われら噤みて来たりけりかなしきや海のひろごり

  われら霏霏と滅びむ死ののちもこころかれつつ地にそよぎをりしや

  眸つむれば自虐ととのふ陽の棘ににじめるごとしこの生活はや


  ほととぎす迷宮の扉の開けつぱなし       塚本邦雄

  酸漿のぬれいろの夕ごころかな         宮入 聖

  須佐之男の髪繋ぎとむ葛の花         岸本桂以子

  万緑やどこかに死者の背が見えて        江畑 実

  塩断ちしのちの霹靂青胡桃          大野美沙代



      撮影・鈴木純一「カステラの紙をはがすと雪催い」↑

2020年12月15日火曜日

羽村美和子「針千本余生をゲームに取り込まれ」(「ペガサス」第9号)・・・


  「ペガサス」第9号(代表・羽村美和子)、「ペガサス」は、号を追うごとに充実を重ねている。本号の作品ページ下段のエッセイ、檜垣梧樓「『胡桃』という酒場」(二)で小宅容義が登場する。


  ママは奥のカラオケの前に座っていた私に「ひょっとこの小宅容義先生!」と紹介してくれた。小宅さんは、ちらっとこちらを見て「出前帰りに一曲歌わしてもらおう」と言うや否や、ママからマイクをとって、直立不動、森進一の「それは恋」を朗々と歌い出した。私は唖然として次いで陶然として聞き惚れるばかりだった。それから数カ月して(中略)

 突然小宅さんが、目の前のコップの中の水中花を示し、「一句作ろう」と言った。

  水中花長屋王は自刃せり    梧樓

  水中花開き始めたポーランド  容義


 愚生は、小宅容儀とカラオケを歌ったことはないが、まして、森進一の「それは恋」は知らない。とはいえ、生前の小宅容義には、愚生が現俳協青年部委員をしていた頃、何かとお世話になった。そういえば、彼の陶版展に行ったこともあった。「ひょっとこ」には、夏石番矢に連れられて行き、そこで波多野爽波に会った。店には爽波の定席があった。その後、波多野爽波とは現俳協の会合で幾度かお会いしたが、競馬好きだった爽波は、総会などでは席を少しはずしては、ラジオの競馬中継を聞いていた(ということは、若僧だった愚生も席をはずじていたことになるが・・・)。今では、懐かしい思い出だ。「雑考つれづれ」は瀬戸優理子「寺田京子の世界」③である。昨年だったか、『寺田京子全句集』も出て、改めて寺田京子を読む人が増えているようである。


   日の鷹がとぶ骨片となるまで飛ぶ     寺田京子


 ともあれ、本誌本号より、「豈の会」関係者の一人一句を以下に挙げておこう。


   鶏頭花長子偏愛されている     坂間恒子

   曼珠沙華素描の線を狂わせる    中村冬美

   葛の風夜には石も寝返るか    羽村美和子

   新蕎麦や二箇月ぶりの店開き   伊藤佐知子

 


★閑話休題・・・渡邉樹音「不用意な蛇口のように神の留守」(「瓏玲」6号)・・・ 


 前掲の「ペガサス」誌と現代俳句における作者の層が、いくぶん重なっているように思えるが、しいて言えば、「瓏玲」には、誌名とは逆に通俗の気配が濃い。たぶん、林田紀音夫の言に倣えば、それだけ、現実の猥雑さに賭けているのかも知れない。ともあれ、特別枠らしい「招待席」と「ことごと句会」で仲間の渡邉樹音の一人一句を以下に挙げておこう。

  

  日本のほんの一部が文化の日         今野龍二

  セクハラと言われて閉じる寒蜆        中内火星

  イルミネーション纏はぬものを裸木と   長谷川はるか

  寸劇のところどころに狐罠          大西 惠

  パンドラの箱いつまでも秋湿り        渡邉樹音



    撮影・芽夢野うのき「音信があれば愛なんてみんな嘘 風花」↑

2020年12月14日月曜日

名取里美「亡魂の螢の森となりにけり」(『森の螢』)・・・


  名取里美第4句集『森の螢』(角川書店)、帯の背には「十年ぶりの新句集」とある。 

 著者「あとがき」には、


(前略)ここにいるわたしは思う。

「人も禽獣も草木も同じ宇宙の現れの一つ」という高浜虚子のことばを。

わたしたちが、コロナ禍に右往左往する間も、森の営みは変わらず、厳かにつづいていることを。

森羅万象の季語を貴ぶ俳句の力を確信する。

これからもわたしは句帖をもって森へ向かう。(以下略)


 としるされている。集名に因む句は、


  われ立てば森の螢のふえゆくも      里美

  寄つてくる森の螢や車椅子

  

 であろう。ともかく、螢にまつわる句を数えれば切りもなく多い。名取里美にとっては、螢とは同体の何かなのかもしれない。ともあれ、愚生好みに偏するが、集中より、いくつかの句を以下に挙げておきたい。


   地震熄まぬたんぽぽに散る硝子片

   はじまりもをはりも梅雨の海の音

   月の出やわれらヒバクシャ米を研ぎ

   月光や立てぬ歩けぬ哀しまぬ

   水俣病遺影三百青葉闇

   かの星も草の蛍もうすみどり

   闇と歩く光と歩く螢森

   冬紅葉水底になほ真くれなゐ

   大旦燦と打ちあふ川と海

   花吹雪すべてを捨ててみな踊れ

   香港の少女のゆくへ冬銀河 

   海上天心寒月光柱


 名取里美(なとり・さとみ) 1961年、伊勢市生まれ。



        撮影・鈴木純一「冬の野いちご摘むのは惜しい

                 朽ちてゆくとはなお惜しい」↑