2021年2月28日日曜日

仲寒蟬「国に似てこの霜枯のどこまでも」(「牧」第5号)・・・


 「牧」第5号(牧の会)、木村晋介の「編集長対談」、今号は「宮部みゆきの巻 その一」である。サブタイトルに「宮部みゆきと俳句。そのルーツに迫る」とある。その冒頭の質問に、


木村 (前略)なぜ、俳句に興味を持たれたのですか。

宮部 倉阪鬼一郎さんの「怖い俳句」を読んだのがきっかけです。私、かろうじて、北村薫さんの「詩歌の待ち伏せ」だけは読んでいたのですけれど、自分では詩歌には興味なかったんです。(中略)

木村 ひきこまれたのはどのあたりですか。

宮部 もちろん怖いという一貫したコンセプトでまとめたアンソロジーなわけですけれど、取り上げられている句のレベルが私たち俳句の素人からみても高い。そして倉阪さんの一句ごとの鑑賞が文芸として素晴らしい。その上、私たち素人からすると、俳句の歴史の勉強までできるんですね。芭蕉や子規から始まって現代まで、時代ごとにブロックされて句が紹介されている。これはすごいと思いました。(中略)

木村 「怖い俳句」の中から宮部みゆきが感動した一句をあげるとすれば。

宮部 いい句が沢山あって、選ぶのは難しいんですけど、帯にある

    首吊りの木に子がのぼる子がのぼる    高岡修

  これがまず凄いですし、

    冬菫少し高きは縊死の足        坂戸淳夫(中略)


 その次に木村晋介が「一番怖いと思ったのは、高野素十の『もう誰もいない地球に望の月』とあるのは、正しくは、山﨑十生の句である。 というのも、倉阪鬼一郎も山﨑十生も、愚生が所属している同人誌「豈」のメンバーだから、偶然に、この句が愚生の記憶に残っていたからである。因みに、倉阪鬼一郎『怖い俳句』は幻冬舎新書。

 その他にも、連載物が充実していて、仲寒蟬「大牧広の昭和・平成」(4)、櫂未知子「ミチコの部屋(4)/ヘンタイ」、小泉瀬衣子「某月某日 大牧広の日記より」(5)など。そして、「3・11特別寄稿」には、石巻市在住の菊池修市「十年が過ぎようとしている」、武山平「生かされて十年」があり、大震災の地に住み俳句を詠み続けている多くの人たちの句も紹介されている。ともあれ、以下に本誌より、アトランダムになるが、いくつかの句を挙げておきたい(牧作品集への掲載が入稿順というのも面白い)。


   鮟鱇の中では比較的美男        仲 寒蟬

   寝釈迦にも動体視力春の蝶       木村晋介

   廃炉なほ四基抱へて山眠る       對崎芙美

   鳥の恋手旗信号だとしたら       近藤山猿

   三・一一受付に置く清め塩       関根道豊

   豆撒きの鬼が遅刻をして来る      波切虹洋

   検眼の円の切れ目は雪景色       大部哲也

   白昼も隕石は降る石蕗の花       早川信之

   昨日ありしところに今日の木の葉髪   庄子紅子

   貧困をコートに包み渋谷女子      菊池修市

   梅ひらく蕊に満ちゆく光の詩      山﨑百花

   さしすせそと降りざじずぜぞの雪よ  小泉瀬衣子

   好きだから喧嘩するのよ猫の恋     能城 檀

   あの日二時四十六分春の午後     長谷川洋児



         芽夢野うのき「アリスの森のうさぎ少し春の風」↑

2021年2月27日土曜日

小川蝸歩「午後の柩かげろうのバスが出るぞ」(『さわがしい楽園』)・・・

 


 小川蝸歩第一句集『さわがしい楽園』(私家版)、各章の扉の挿絵は娘の知可とあり、序は妹尾健太郎、それには、


 かたつむりより遠きものあるべからず  阿部青鞋(『続・火門集』所収)

小川義人さんその人は『青鞋』を阿部青鞋没後三十年顕彰「綱」誌特別号として世に問うた迅速なる推進力である。号する〈蝸歩〉は謙譲の美徳のみに非ず、地に胴のついた歩みは着実でありながら滑らかに速い。(中略)

 梟の止まりし椋と知らざりき      (平成29年/鵙日和より)

かつて美作海田にあった青鞋居所・羽庵の跡を蝸歩さんにご案内いただいた。そこにはじつに印象的な枝ぶりの椋の大樹が現存しており、この句を前にして詠まれたもの。青鞋第一家集『火門集』の冒頭句〈梟の目にいっぱいの月夜かな〉を踏まえている。他にも阿部青鞋を念頭に詠まれた作品として〈方舟の虹の意味知る青鞋忌〉〈両端に天と地をおく冬の虹〉等が本句集には収められている。

 しんがりはいつもわたしとかたつむり  (平成27年/愚兄より)


とあった。また、著者「あとがき」には、


 私の俳句は今は限りなく亜流かもしれない。一流という大河には、なれそうも無いが大河に注ぐ小さな川ぐらいなら、なれるかも知れない。それを私の本流としよう。

 本句集『さわがしい楽園』は句会を中心にあとは、西東三鬼賞、各種大会に投句した句を年度別に集めた小句集である。


とある。そして、集名に因む句は、


   小鳥来るこのさわがしい楽園に     蝸歩


であろう。ともあれ、本集より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。


   ひとつ来てふたつと来ない冬の蝶

   妻一番仕事遅番春二番

   新住所枯野経由で徒歩五分

   本籍地列車と書いて修司の忌

   病歴に一人静と書いてみる

   空の青消されて十二月八日

      曲水の宴寺井谷子先生特選

   人恋えば花にならんか三鬼の忌

   閃光の先八月という柩

   平成や畳の上のしだらでん

   師を持たず三鬼の師系花の時

   天皇の国に生まれて桜守

   春愁や三面鏡に過去未来


 小川蝸歩(おがわ・かほ) 1963年、岡山県生まれ。



    撮影・鈴木純一「うさちゃんのクツシタぬげた梅咲いた」↑

2021年2月26日金曜日

春風亭昇吉「雛あられ姪にひと粒ごとのおと」(プレバト・春の頂上〈春光戦〉)・・・




  昨日25日(木)午後7時からのプレバト・春の頂上「春光戦」cブロック(題は「きのこの山とたけのこの里」)に、我らが遊句会の仲間である春風亭昇吉が参戦した。結果は、夏井いつき大先生に惜しいといわれながら、最下位に沈んだ。これはこれで、これからが楽しみなのだが、そんなことより、TVプレバト春光戦参戦の前日、案内とともに届いたのは、真打昇進の知らせの披露だった。それによると、愚生の知らないところでの春風亭昇吉の落語家としての顔が伺える。その一端を以下に紹介したい。


          

 それには、

  昇吉くん!真打昇進おめでとう 学生時代は國枝くんと呼んでいました 東大の落語研究会は『落語辞典』を編集したり噺家の歴史や江戸文化を考証したりする”学究派”と扇子を持って人前で一席申し上げる”武闘派”に分かれます (中略)彼の特徴は とにかく噺の稽古が好きなことです 朝から一日中落語の稽古をしていてなお飽きないと言います それがカラ稽古 ムダ稽古に終わらないよう これからの成長を見守りたい思います (以下略)

                          東大落語会OB  山本 進


(前略)昇吉さんは 私が総長を務めていた二〇〇六年に第一回東京大学総長賞を受賞されました 全日本学生落語選手権での優勝及び高齢者施設や盲学校へのボランティア活動による社会貢献によるものです 知と志を十分に発揮した卓越した活動を評価しました(中略)これからも社会のために昇吉さんの能力を最大限に発揮してください(以下略)

                    第二十八代 東京大学総長 小宮山 宏


(前略)昇吉さんは 東大生に最も向かない職業と言われる落語家の道を選び 春風亭昇太師匠の下で 努力を重ねてこられました (中略)そして岡山のテレビ番組などで大活躍 常に気になる存在です ひょっとして向いている職業は知事だと思われるのではないかと ヒヤヒヤしていましたが これで安心して寝られます

 どうか今のまま 落語の道を極めてください そしてふるさと岡山を愛する落語家として真打昇進を契機に さらにパワーアップして 笑顔と岡山を発信してほしいと思います

                        岡山県知事   伊原木 隆太


(前略)東大落研 國枝君の名前は学生時分から鳴り響いておりました 諸先輩の期待通り東大初の落語家となり 気象予報士の資格も取得 この人ならマスメディアを通じて大衆に支持されると思い ワタナベエンターテインメントに所属してもらいました (中略)そんんな昇吉さんもこれからはいよいよ真打です 本格派として落語界での伝説を作っていってもらえるものと思います

              株式会社ワタナベエンターテインメント

                       代表取締役会長  吉田 正樹


(前略)東京大学卒という落語界としては迢変わり種です 一般の会社ならばこの経歴は仕事のプラスになることが多いのでしょうが プラスばかりではないのが芸人という不思議な世界に暮らす者の宿命です

 これからも試行錯誤の連続だと思いますがそれでいいのです(中略)これからも春風亭昇吉という落語家のスタイルを模索していってもらいたいと願っています

 この真打昇進がさらにその一歩を進めるきっかけになると確信しています どうぞ皆さまの益々のお引き立て頂けますよう伏してお願い申し上げます

    公益社団法人 落語芸術協会 会長   春風亭 昇太

                       春風亭 昇吉

        副会長 春風亭 柳橋

            三笑亭 茶楽

            三笑亭 夢太朗  (以下略)・・・参与・参事・相談役

                     最高顧問 桂 米丸 


 とあった。因みに、プレバト春光戦Cブロックの第一位は、東国原英夫「買い食いを叱られて来し末黒野(すぐろの)」だった。



          芽夢野うのき「いっときの川音に聞く辛夷の芽」↑

2021年2月25日木曜日

攝津幸彦「表札を洗ふみどりの戦火かな」(「俳句界」3月号)より・・・



 「俳句界」3月号(文學の森)の特集は、「いま、評論を読みたい!」(五十嵐秀彦・復本一郎・坂本宮尾・外山一機・今泉康弘・愚生)と「耽美性俳句」(総論は、関悦史「五七五で世界の僭主になること」)、そして「発表 第22回山本健吉評論賞」(選者は井上泰至・小林貴子)がある。これに「佐高信の甘口でコンニチワ!-亀石倫子」などを加えると、今月号に限っていえば、愚生が、「いま、評論を読みたい!」に駄文を草しているのを差し引いても、他の俳句総合誌にはない魅力がある。紙幅もないので、「第22回山本健吉賞」の摂氏華氏「攝津幸彦論ー想像力の可能性をめぐって」を抄出して、紹介したい。まず、ペンネームからして面白い(本名を知られまいと韜晦している?)。華氏は、たぶん華氏451度、レイ・ブラッドリの小説名に由来しているだろう。紙の燃え始める温度である。攝津幸彦も読んでいた。「受賞の言葉」に記された略歴に、「1963年、石川県生まれ。句集に『花谺』(喜多昭夫名義)・・歌人にして主宰誌『つばさ』など」とあったので、記憶をたどって、「俳句空間」(弘栄堂書店版)の投句10句一括掲載が条件の「新鋭作品欄」に登場していた人だと思ったのだ。果して、第9号(1889・6)には、「青き兵士」10句(金沢市・26歳)があった。


  葉脈のごとき刺青よ八・一五       喜多昭夫
  日の丸をみづいろに塗る九月かな
  夏の野に青き兵士は烟るなり
  桃啜る義兄(あに)の美貌を恐れけり  (他6句略)
  

 これら若き日の彼の句からも、攝津幸彦の句や4句目「夏の野」に、芭蕉「夏草や兵どもが夢の跡」を淵源とする論がみえてくる。ともあれ、不十分を承知で、攝津幸彦論を以下に抄出する。


   送る万歳死ぬる万歳夜も円舞曲(ワルツ)

 「万歳」はよく頭に「天皇陛下」をつけて用いられた言葉だ。出征式では見送られる人の氏名の頭につけて用いられた。(中略)この句がすぐれているのは、まがまがしい時代の記憶に縁取られた「万歳」に「夜も円舞曲(ワルツ)」を配したところだ。たいへん優雅な円舞曲は多くの死と無関係にきょうも流れ、そこに集まった人々を酔わせるのである。戦争のさなかにあっても生活はあり、庶民の困窮の対極には、特権階級の貴族的な遊興が繰り広げられていた。そこを鋭く突いている。


 あるいは、また、


  幾千代も散るは美し明日は三越

この句は、「今日は帝劇 明日は三越」を踏まえている。この広告文は明治四十四年に帝国劇場ができ、大正初年からプログラムを無料配布した。その中に入っていたものである。(中略)「幻景」は第二次世界大戦を戦後の視座に立って劇画的に再構築したものである。そのことを念頭に置くと「幾千代も散るは美し」の「幾千代」は「君が代」の一節「千代に八千代に」を連想させる。(中略)攝津は上五中七で戦死をあえて「美し」と反語的に捉え、下五に浮き立つような気分を配した。これは戦時中の高揚感を買い物に行くような地平にまで引き下ろしたものであり、痛烈な皮肉といえる。攝津は第二次世界大戦を戯画として描き、国家主義を低い目線から批判している。攝津は権力に対する反骨精神を持っていた。一見軽やかで表層的に見えるが、この句は時代の虚妄を突き刺す針を含んでいる。(中略)

  南国に死して御恩のみなみかぜ   (中略)

南風を御恩と呼ばなければならない悔しさと虚しさ。攝津は戦後生まれという距離感で、戦争の内実を極めてシニカルに捉えることに成功したのである。戦争体験者は、とてもこのような醒めた詠み方はできないにちがいない。体験しないことで、先入観なく白紙の眼差しで戦争を詠むことができたということはしっかりと押えておく必要がある。戦争体験者だけが戦争を語れるのではない。戦争を知らない世代だからこそ詠むことのできる戦争詠があるのだ。

 そして、最後は以下のように結ばれている。

 攝津幸彦は稀有なる言葉の反射神経で「私」から「非私」への往復運動を繰り返し言語世界を構築した。そこには体制を批判する毒が目立たないように仕込まれている。攝津幸彦の俳句を読むという行為は、まさにその毒を俳句もろとも味わうことにほかならない。
 
 その他、本論中の攝津幸彦の句を以下に少々挙げておこう。

   生き急ぐ馬のどのゆめも馬          幸彦
   戦場へ母校へ魚のやうにゆく
   大日本(おほやまと)墨は匂へる新歴史
   若ざくら濡れつつありぬ八紘(あめのした)
   きりぎりす不在ののちもうつむきぬ
   ひとみ元消化器なりし冬青空   



      撮影・鈴木純一「オオイヌノフグリにもあり花言葉」↑

2021年2月24日水曜日

大石悦子「春の夜の闇を遊のはじめとす」(「ふらんす堂通信」167より)・・・


 「ふらんす堂通信」167(ふらんす堂)、特集は「大石悦子句集『百囀』を読む」、書きおろし特別寄稿に、藤本夕衣「魂との交感の言葉」と「『百囀』三十句抄出」。その結びに、


  そして八十を過ぎた作者自身も、いつくるかわからぬ、けれど必ずくる自分の死と向き合う。

    冬うらら遺言書くによき日なり

    終活は鈴虫の甕捨ててから

 あとがきに「書名とした『百囀』は多くの鳥の囀りのことで、大阪の郊外にあるわが家へ、四季をとおしてやってくる野鳥への親近の思いをこめて名づけました」とある。野鳥への親近は、すなわち死者への親近であろう。『百囀』は死者との魂の交感の言葉に満ちている。


 とあった。その他、本誌にはひかれる連載が多い。例えば「競泳七句」、藤島秀憲「こわい俳句⑪」、岸本尚毅「虚子研究レポート㉚」、「小野あらたの毎日精進⑧」などだが、とりわけ、髙柳克弘「現代俳句ノート㊱ 山頭火」は、山頭火の俳句を論じて魅力的だ。例えば、


(前略) ちんぽこにも陽があたる夏草    昭和7年作

 といったように体言止めの句がある。しかし、有季定型の体言止めとは異なって、「陽があたる」から「夏草」の名詞に移るという唐突感がつよい。(中略)「夏草にもちんぽこにも陽があたる」とでもすればわかりやすくはなるが、一気に魅力が減ってしまうのは明らかだろう。ちなみにこの句、唐突な語の運びに驚かされるが、句の情景はたいへんわかりやすい。野原で小便をしているのだ。じつはアヴァンギャルドな言語実験をしているのだが、意味や情景は受け取りやすくできている。詩としての高さと一般読者への親しみやすさを、両方兼ね備えているのが山頭火の俳句なのだ。

 自由気まま、息を吐くように句を作ったといわれる山頭火であるが、じつのところさまざまに表現を工夫していたことは、もっと注目されてよい。


 と述べるあたり、出色であろう。この後に続く「鉄鉢の中へも霰」(昭和7年作)をめぐって、山頭火がさまざまな表現を試みたことが記され、加えて、山頭火の他の句を解釈してみせる髙柳克弘の手際にも、愚生は脱帽する。そして彼は言う。


 山頭火の人生の特殊性にこだわっていると、かえってその句が持つ主題や思想の豊潤さを見落としてしまう。たとえば「うしろ姿のしぐれてゆくか」は、自己表現に何よりも価値を置く個人主義の現代人にとって、一顧すべき思想を孕んでいるように思える。山頭火はまだ、堀りつくされていない。


 「ふらんす堂通信」・・・、なかなかあなどれないよ・・。ともあれ、「こわい俳句」と「競泳七句」から一人一句を紹介しておきたい。


  汗臭ふ貧しき友の呉れし金        日野草城

  齢ばかり加へはるかや青邨忌      深見けん二

  頬杖の杖の丈夫を去年今年        池田澄子

  男の子初めて大き鮪を見         西村麒麟



    芽夢野うのき「さくら木にきのこ咲かせる青幽霊」↑

2021年2月23日火曜日

島袋時子「同席の何か居心地悪き春」(「花林花」VOL.15 2021)・・・


 「花林花」2021・VOL.15(花林花句会)、特集は「俳人研究 山口誓子」。同人それぞれが、誓子論を展開しているが、高澤晶子「俳句表現に於ける山口誓子の変遷」と題して第一句集『凍港』(1932年)から第7句集『晩刻』(1947年刊)を論じ、終えているのは、たぶん、山口誓子に学ぶべきものは、一応ここで区切りがついているということなのかもしれない。その結びに、


   川音に冬の翡翠ただ一羽      晶子

 誓子の『七曜』『激浪』『遠星』『晩刻』を通読して、私は淡々とものをよく見ることを学んだ。

   月明の宙に出て行き遊びけり   山口誓子『晩刻』


  とあった。愚生も多くの人たちと同じように、長く、現代俳句は山口誓子から始まったと教えられ、そう思ってきたが、今では、やはり、高屋窓秋「頭の中で白い夏野となつてゐる」(昭和7年)の句から始まると考えている。ともあれ、同誌本号より、以下に一人一句を挙げておこう。

  

   鬼灯を翳しあちらへ行きなさる      高澤晶子

   あおあおと青松笠はよき硬さ       廣澤田を

   背泳ぎのばた足で蹴る雲の峰       石田恭介

   一茶忌や死の家の詩今ここに       榎並潤子

   ふたところよりスズムシのふた音色    金井銀井

   愛日や石の三猿皆痩せて         原詩夏至

   厚氷一縷の草を織り込めり        鈴木光影

     従弟・飯田邦夫との別れ

   君送る夜の七夕飾りかな         島袋時子

   雛一対秘めごとつひにあばかれず     福田淑女

   杜若むらさきという色に咲き       宮﨑 裕

   気がつけば行年同じ冬線香        杉山一陽

   青空のノート注文梅雨の空        岡田美幸

   熟れて割れじぐじぐどぅるる僕トマト   内藤都望


   

★閑話休題・・・山口誓子遺句集・二冊の『大洋』について・・・


 「花林花」の特集「山口誓子」つながりで思い出したこと。山口誓子には、二冊の遺句集がある。一つは『大洋』(明治書院・平成6年刊)と『新撰 大洋』(思文閣出版・平成8年刊)である。『大洋』のほうは、松井利彦が「あとがき」を記し、その結びには、


  (前略)ところが平成四年のサハリン行は誓子自身が

      日本時代の面影は全く無く、外国になってた

と言っているように、太くて薄い虹の懸る、文字通りの外国行であったのである。それは八十年間、誓子の中に生きつづけてきた樺太を消し去ってしまった。(中略)

それは又、自分の中に生きていた日本の残像との訣れでもあった。

「皆さん、これが最後です。さようなら。さようなら。」

の言葉の中には心の中に生き続けた日本とそして日本領樺太の風物との訣れの言葉でもあったのである。

 それに加えて再び来ることのない「ふるさと」樺太に対する永訣の言葉であったことを知るとき、一層の悲しみが加わる。


 とある。では、同じ遺句集である『新編 大洋』は、何故、出版されたのか。そのことは、新撰の「あとがき」に、句の実作はされてこなかったが、弟の末永山彦が、


  兄、誓子の遺句集となった第十七句集が、大洋の名の下に世に出ることは然るべきことであったから、編者からの提案に対して私共は直ちに承諾をした。

 作者による自選が望めない遺句集であるから、作品の殆どを網羅したものを思い描いていたのであるが、平成六年明治書院より刊行された『大洋』は、編者の別個の判断によって、「天狼」発表作品四百八十二句から百八十六句(年間自選十句の中の十九句も含む)が省かれたものであった。

 誓子が一年にわたる推敲ののちに「天狼」に発表した作品は余さず収めたかったし、他の新聞・雑誌に寄せた分についても、最後の気力を傾けてものにしたそれらを、相当量句集に留めたかった。(中略)

 従って本書には『紅日』以後、「天狼」平成五年九月号(最終号)に至る期間の「天狼」発表の全句四百八十一句、これに加えて外部発表の百三十三句を収めた。

 本書の六百十四句を含めて、『凍港』にはじまる全句集所載の作品の総計は九千八百三十九句となる。


 と記している。以下に幾つかの句を挙げておこう。


   坪庭の雪いつまでも穢れざる        誓子

   紅椿壁爐の上の瓶に挿す

   死者の山下りて生者の寒き村

   雪の富士宝永山も雪の壺

   初凪の眞つ平なる太平洋   


 山口誓子(やまぐち・せいし)1901・11・3~1994・3・26、享年93.京都市生まれ。

逝去の翌年、阪神淡路大震災により誓子居は全壊、解体撤去。全遺産は神戸大学に寄贈。

     


      撮影・鈴木純一「沈丁花お名前が出てきませんの」↑

2021年2月22日月曜日

荒木甫「目に見える黄砂見えない放射線」(『遍舟』)・・・

  


 荒木甫第一句集『遍舟』(ウエップ)、帯文は大石悦子。それには、


  国といふ大いなる闇税申告

荒木 甫さんは同郷の一年先輩である。小中高を通して殆どが同じ市内の学校に通った。中学二年のとき私は生徒会の書記になったが、そのときの会長が三年生の荒木甫さんだった。まさか俳人として再会するとは思わなかったが、ご縁を思わないではいられない。


 とあった。序は髙橋道子、その中に、


(前略)甫さんの句には甘いところ、華やいだ表現、手慣れた詩語で適当にあしらうようなところが、まず無い。少年時代に敗戦日を体験し、大学卒業後は長く企業に勤めた甫さんは、その間に培った批評精神を根底に、万象に「俳」をもとめているように思われる。


 とある。また、著者「あとがき」には、


 (前略)「鴫」の信条は一言でいえば「人間の総量としての俳句」である。「いのちをほめ、かなしびを表白し、自然の中に生きる人間の総量として俳句をめざす」と師は諭されている。


 師とは、最初の師であった伊藤白潮である。また、集名『遍舟(へんしゅう)』の由来については、


 句集名、章の題は良寛の最晩年の詩とその代表的な歌から採った。

     壮年會極佳妙地

     老来頻動遍舟興

     やまかげの岩間をつたふ苔水の

           かすかに我はすみわたるかも


 と記されている。ともあれ、愚生好みに偏するが、いくつかの句を以下に挙げておこう。


    憂国のおまへとおれと生ビール        甫

    冷酒や六つむかしの労働歌

    八月の雨国民に荒々し

    勝負ごと断る八月十五日

    冬至湯や九竅およそ不憫なり

       弟

    燗熱うせよ百日の余命とぞ

    ゴールデンウイークそもそも今日は何の日だ

       バンザイ・クリフ

    小さきは子の墓碑ならむ鳳凰木

               鳳凰木=現地でサイパン桜

    ものをいふまへに目つむる原爆忌

    さうか 君 原爆胎児か 孫 居るか

    花の下行く我輩は猫である

    死ぬるとは生きて来しこと栗の花

    きのふけふあしたもきつと冷奴

    柿たわわ「百年生きてしもうたわ」

    湯たんぽの一夜なじみて水抜かる

    御慶かな昭和平成あと余生

 

 荒木甫(あらき・はじめ) 1937(昭和12)年、京都府舞鶴市生まれ。



★閑話休題・・・募集中!府中市生涯学習センター「現代俳句入門」講座」(講師・大井恒行)・・・


 昨年に引き続き、コロナ禍のなか、人数を制限しての講座開催となりました。回数は4回(5月13日・27日、6月17日・24日ー14時~16時)。定員18名。受講料(税込み)・3000円。

申し込み方法は、

1、府中市生涯学習センターのウェブサイトからの応募。

2,往復はがきに必要事項を記入し郵送。

3、来館して直接申し込み(抽選結果を通知するためのはがき(63円切手貼付)を持参。

第一次募集期間 2月3日(水)~2月28日(日)

 定員をオーバーしたときは抽選。キャンセル待ち優先受付、2次募集(3月14日~)

府中市生涯学習センター

  183-0051 府中市浅間町1-7 

  電話042-336ー5700



       芽夢野うのき「まだ秘めていますか芯の緋のこころ」↑ 

2021年2月21日日曜日

岡井隆「吉岡實さんと並びて畏れ多し『E/T』もこの秋の光に」(『書肆山田の本 1970ー2021』)・・・


 『肆山田の本 1970—2021』(書肆山田・200円)、挟まれた案内には、

  

 千代田区神保町東京堂本店2Fの一遇にて/『書肆山田の本1970-2021』ブックフェアを2月20日より開催予定です。詳細はあらためて東京堂書店のHPにてご確認いただければ幸甚です。


 とあり、扉には、


 深謝:書肆山田は、一九七〇年に創業者・山田耕一が岡田隆彦詩集『海の翼』を一冊目の刊行書としてはじめ、その後八〇年の吉岡実詩集『ポール・クレーの食卓』より鈴木一民が引き継いできました。いくつもの出会いに恵まれて、一冊一冊を紡ぐようにして本を作り続けることができました。なくてはならないはずの世界に立ち会えた幸運を思わないではいられません。ここに一文を寄せていただいた方々をはじめ、支えて下さった読者・著者の皆様に深く感謝いたします。


 とあった。寄せられていた小文は、すでに故人となられた岡井隆、入沢康夫を含め、健在の方々、60名を超える。中には、愚生が「俳句空間」(弘栄堂書店版)を出していた頃に、店頭書棚でお世話になった名古屋・ちくさ正文館書店の本店々長の古田一晴(当時は文芸詩歌書担当だった)もおられる。また、同じ名古屋の俳人でもある馬場駿吉、彼は想い出の三冊に、


これまでの書肆の刊行物で特に感銘深いものを絞るのはむづかしいが左の三冊を挙げておきたい。

加納光於・瀧口修造『《稲妻捕り》Elements』、若林奮『I.Wー若林奮ノート』、笠井叡『カラダと生命』。


を挙げておられる。せっかくだから、恥ずかしながら、愚生の駄文も以下に挙げて、書肆山田への感謝としたい。


 大事な二つの思い出がある。一つは、ぼくの『風の銀漢』、清水哲男と福島泰樹のお二方に跋をしたためていただいている。それは書肆山田の配慮だ。二つ目は、ぼくが制作に携わった高屋窓秋最後の句集『花の悲歌』(弘栄堂書店刊)。書肆山田の装幀のほとんどは亜令こと大泉史世、迷うことなくお願いした。貴公子・高屋窓秋に、これ以上はない装幀、その場で「雪月花美神の罪は深かりき 窓秋」と自署して下さった。

記憶に残る著書としては、瀧口修造『地球創造説』、清水哲男『打つや太鼓』、打田峨者ん『光速樹』を挙げたい。


 そして、今回のフェアーの企画の主、神田神保町・東京堂書店、文芸書担当の清都正明は以下のように記している。パンデミックな中、もし、お近くにお寄りならば、書棚に寄ってみて下さい。


今まさにパンデミックの只中ですが、自然災害、社会の混迷の前で人間一人ひとりは本当に小さく弱い存在であるということを想います。しかし、だからこそ、むしろそのことによって、これまで人間が連綿と紡ぎ繋いできた詩や書物の真の美しさ・儚さ・豊穣さと再び向かい合う機会に恵まれたのだと考え、今回フェアを提案いたしました。「小さな本屋」書肆山田の、その50年分の、宇宙まで届かんとする知の幾何かでも、皆様と共有したく存じます。

記憶に残る著書としては、藤井貞和『神の仔犬』(東京堂にに入社した日に積んであった本です)、山崎佳代子『ベオグラード日誌』、『カヴァフィス全詩』(「小さな本屋」でも世界と繋がることができる、という証拠のような本です)。


 とあった。


★閑話休題・・・谷佳紀「出会ったこと小石を手放したこと冬」(「外山一機の『俳句のまなざし』」東京新聞・2月20日付より)・・・
  

 今年の東京新聞の俳句時評蘭は「外山一機の『俳句のまなざし』、昨年の福田若之も良かったが、今年も期待できそうである。早速、ほぼ世間にはあまり知られていないが、稀有な俳人だった谷佳紀を取りあげている。


(前略)昨年末刊行された谷佳紀の遺句集『ひらひら』(東京四季出版)である。一九九九年から亡くなるまで(二〇一八年)の句を芹沢愛子ら八名がまとめたものだ。〈どこへでも走って天気の中にいる〉など、明るいトーンの句が並ぶが、しかし時折翳(かげ)りを帯びる瞬間がある。

 〈色々な静けさ友の死に樹の芽〉〈可愛(かわい)くなって柩(ひつぎ)に入れば雨の香〉ー七十五歳で亡くなった谷は十代から半世紀にわたり俳句を書き続けてきた。(中略)

 しかしいま、当時の句を辿(たど)りなおすなかで、晩年の谷の行き当たっていたものがようやく見えてきた気がする。〈母の遺骨青葉と仲のよい白さ〉〈人類のつとめはもうはたしました時雨〉。句友の死、父母の死、東日本大震災ーそれらを経て、それでも生き延びていること、それでも俳句を読み続け書き続けていること。その意味を自らに問うていたのではなかったか。



          撮影・鈴木純一「如月の麺麭の略取も珈琲と」↑

2021年2月20日土曜日

西村麒麟「春風や鰻のたれも龍太製」(「古志青年部作品集2020」)・・・


  「古志青年部作品集2020・第8号」(古志社)、作品講評は岩井英雅「『一物仕立て』と『取り合わせ』」。その中で、


 (前略)「一物仕立て」は、ものの姿を写すにしても、自分の思いを述べるにしても五七五という字数に合わせれば誰でも簡単に詠めるが、そのため平凡で平板な句になりやすい。何よりはっとするような新鮮な発見があることが大事である。他方、「取り合わせ」は、季語以外の十二音の「ひとかたまりの事柄・情景・感懐」と季語との組み合わせだから、その事柄・情景・感懐に新鮮さがあるかどうかが一句の成否を分ける。さらに「ひとかたまりの事柄・情景・感懐」と季語との距離感の取り方が大切。(中略)

 最後にまとめ。「一物仕立て」と「取り合わせ」には優劣の差はなく、そのどちらかを重視するかはそれぞれの作者の志向によるが、いずれの型を取るにしても、生き生きとした新鮮な感覚がすっきりした表現で詠まれ、一句がみずみずしさに溢れていることが求められる。


 と述べられ、作者全員の句に好意の講評をしている。ともあれ、愚生好みに偏するが一人一句を挙げておきたい。


  まだそこにあるやうな虹見てゐたり    イーブン美奈子

  凩が叩き落としてゆく星ぞ           石塚直子

  歌ひ継ぐ者のオラショや星冴ゆる        伊藤 空

  教室に私を置いて行く小鳥           佐倉 碩

  勝独楽やぐらついて又たちなほる        関根千方(ちかた)

  スタンドに初刷りごつと立ちてあり      高角みつこ

  籐椅子にあにお頃の父居眠りて        高橋真樹子

  亥の子餅かういふものといふでなく       竹下米花

  すべり台夏のにほひの真ん中に         田村史生

  白魚をのみ春色のあくびかな         丹野麻衣子

  魂は大きく持ちてつばくらめ          辻奈央子

  亡き姉のさしたる栞柿若葉           土谷眞理子

  神々の丸き姿や福詣              西村麒麟

  流鏑馬や弓は肘より張りつめ来         平野晧大

  君らみな声が小さい鬼やらひ          藤原智子

  大雨を直線で描く夏休            前田茉莉子

  何落ちて来てもしづかや冬の水         三玉一郎

  待ちきれず春を迎へにゆくところ        森 凛柚

  台風の大きな円の外の虫            吉富 緑

  全身を噴井となつて揺れてをり         渡辺竜樹



 撮影・中西ひろ美「おうめにもポッポッと梅のあしおと」↑ 

2021年2月19日金曜日

西東三鬼「秋の暮大魚の骨を海が引く」(「「図書新聞」3481号より」)・・・


  「図書新聞」3481号・2021年、1月30日(武久出版)に、神田ひろみが「芭蕉から西東三鬼までー現代の俳人たちの上に、今も生き続けている芭蕉を実感させられる重厚な評論集」と題して、堀切実著『芭蕉を受けつぐ現代俳人たち』(ぺりかん社)の書評を寄稿している。その中に、


 (前略)第三章「『切字』の働き」に、氏は『三冊子』の中の「五七五という句構造には『切れ』が絶対的に必要なのである」が「形式的に切字を入れても、切れの働きがなければ、発句(俳句)とはいえない」という芭蕉の言葉を伝え、切字論はすべて「この芭蕉の逆説的切字説をめぐって展開されてきた」と述べる。そして川本晧嗣氏の「切字論」(『芭蕉解体新書』所収、平成九年)と、それに対する藤原マリ子氏の「切字小考ー切字論の再検証」(『江戸文学』26号、平成一四年)、井上弘美氏の「芭蕉句、切れの構造ー川本晧嗣の『切字論』の検証を通して」(『連歌俳諧研究』一〇九号、平成一七年)などの論を紹介し、「なお多角的に再検証する余地はあるだろう」という。


 と述べられている。これらの切字論などを、網羅し、評した著書がある。高山れおな著『切字と切れ』(邑書林・平成31年)である。それは切字の誕生(平安~鎌倉時代)から平成時代の切字論まで、最終的に「切れという夢」として批評し、提示してみせたものであった。ところで、堀切実には、類似した同様の著が以前にもある。井上弘美主宰誌「汀」に連載されたもので、『現代俳句に生きる芭蕉ー虚子・波郷から兜太・重信まで』(ぺりかん社・平成27年)である。



 本著の巻尾には「『俳句即生活』説と『心象造型』論ー高柳重信と波郷観」が収められいる。話題は横道にそれるが、愚生が聞いた話では、「俳句評論社』には、「三鬼のベッド」というのがあって、三鬼が上京すると泊まっていったらしい。飲み仲間としても、三鬼・波郷・重信は親しい間だった。その波郷と重信について、


  近、現代の俳句表現史において、従来の俳句概念を決定的に打ち破って出現した俳人高柳重信の存在は異彩を放っている。

  身をそらす虹の

  絶巓

      処刑台    (蕗子)

 髙柳のこうした三行もしくは四、五行による多行形式俳句のねらいは、イメージの屈折と重層性による暗喩的な表現世界を確立させることにあった。それは子規以来の写生主義的な近代俳句への一つの挑戦であり、同時代における既成の俳句表現法からの超克を図るものであった。(中略)

  頭の中で白い夏野となつてゐる    高屋窓秋

  秋の暮業火となりて秬は燃ゆ     石田波郷

の二句をあげて、当時、二十二歳の窓秋、波郷が、昭和の新しい時代の到来を告げる二人であったと評している。(中略)

 伝統的な俳句形式に挑戦して多行形式俳句を実践した高柳重信が、その伝統的な形式に献身した波郷の姿勢に賛辞を贈っているのである。(中略)それは要するに、波郷の「俳句即生活」の句境ーいわば日本的な俳句の世界を理解しつつも、そこから脱皮して、昭和の「現代」の文芸にふさわしい新たな俳句の可能性を探ってゆこうとする姿勢を示すものなのであった。

 

 と記され、締めくくられている。愚生が思い起こすのは、あるとき、重信が「俳句は比喩ではダメだ。一句が書かれ終って、結果的に、一句が比喩的にも読める、ということであればいいが、最初から比喩として書くのはダメだ」と言っていたのを句作のたびに思い出すだ。



    芽夢野うのき「花山羊をさがしにきたり吊るし雛」↑

2021年2月18日木曜日

上田玄「挽屑に/零す/鮮血/サンサーラ」(「連衆」89号)・・・

  


 「連衆」89号(連衆社)、「編集後記」に、「本誌に初めて登場する多行様式の俳句」とあった。ここでは、多行様式と記されているが、多行俳句という人もいれば、多行表記という人もいる。多行の句は、短歌では啄木などがいるが、俳句の多行の歴史も、自由律俳句などとともに、戦前に遡る。上田玄の多行は、今回のみを通覧すると、あきらかに高柳重信が到達した4行を基本とする多行形式である。それは、林桂が言っていていたと思うが、この4行表記を行えば、一行棒書きの俳句と同じく、極端に言えば、誰でもが継承可能な、ある意味で形(かたち)が書かせてくれる俳句になる、というものである。しかし、形(かたち)は同じでも、高柳重信が描いた世界と上田玄の描く世界は大きく違う。上田玄にはめずらしく、その方法について本誌の「多行式俳句をめぐる私考」で述べている。


  私が念頭においているのは、新興俳句時代の渡辺白泉の「戦火想望俳句」といわれる作品です。(中略)

 生きていく上でどうしても直面する人間の社会性という面では、人は、善も悪も判別できないほどの矛盾を抱えているのだということ、その引き裂かれかねない切実さこそが表現衝動だ、と私もまた思っています。(中略)そして私の多用する空白行は、そうした相反するものの乱反射を、そのままに内包させたいという思いからのものです。説明しきれないもの、説明しようとしたら零れかねないものをこそ、大事にしたいのです。


 続けて、蛇足ですが、と断わりながら「有蓋貨車」について「ある時代ある地域では、その中に人が積み込まれたのです」と述べられているのは、シベリアのことのように思える。


   ツンドラ鉄路

   

   薄暮暁闇

   連結す             玄


   

   槌

   呼笛(よぶこ)

   月下に黙(もだ)


 上掲句などは、あきらかに、カマ・トンカチといわれたソ連国旗を表していよう。次の最後の句には、自嘲も伺える。


  レーニンに

  帰依し

  十九歳の

  世界地図


 レーニンこそは、革命の英雄であり、それを受けついだスターリンは、まさにスターリニズムを生み出した、本質的には、自由とは相容れない反革命である。革命は絶対自由のためには永続的、永遠になされなければならない。「十九歳の地図」は中上健次の小説の題名、その小説のなかに「死ねないのよお」「なんども死んだあけど生きているのよお」と呻くシーンがある。レーニン(=ボルシェビキ)に帰依とは、なんと皮肉な言葉だろう(あるいは、上田玄19歳のときの回想かもしれない)。これらの句を読むと、上田玄は、たぶん、愚生などよりはるかに厳しい現実を這うように生きてきたにちがいない、と思う。それらの現実的な悲惨を高柳重信は、象徴主義的に作品に昇華してみせた(大手拓次曰く、象徴主義ここそは現実に根を持っている)。

 ともあれ、本誌より、昔の「豈」関係者も含めて谷口慎也の一人一句を挙げておこう。


  有蓋貨車

  肩肘凭れ


  火の残夢                 上田 玄


  秋口からの順路に闇を差し入れる      夏木 久

  鬼おこぜアバンギャルドを先導し     羽村美和子

  冬の雨親しき棘に飢えのあり        加藤知子

  「愛よね」「いいや愛だよ」皇帝ダリア   鍬塚聰子

  脚あげることはなさそう凍蝶は       谷口慎也



撮影・鈴木純一「見てたけど  it's  only a paper moon 知らんぷり」↑

2021年2月17日水曜日

夏目漱石「有る程の菊投げ入れよ棺の中」(『金尾文淵堂をめぐる人びと』より)・・・

 


 石塚純一『金尾文淵堂をめぐる人びと』(新宿書房)、金尾文淵堂、どこかで目にした名だと思った。巻尾の刊行図書目録年表を見ると、1901(明34)年に『俳句問答 上』(獺祭書屋主人(正岡子規)とあった。備考欄に俳書堂と合同出版とある。また「尾崎紅葉が来阪し、金尾は紅葉と徳田秋声に千日前で馳走」ともあった。当時の書影をみると背の下に「俳書堂 金尾文淵堂」と記されている。石塚純一は「はじめに」の末尾で、


 (前略)金尾文淵堂は近代出版文化形成期に活躍した。現代出版界の諸状況は、昭和初期に本の大量生産・大量販売が可能となった円本時代を起点とするものなので、金尾文淵堂はそれ以前のいわば黎明期の出版のありようを伝えている。この当時、本づくりはどのようにおこなわれたのか、出版社と著者の関係をたどり、できることならば一冊の本が生まれる場に立ち戻りたい。断片を重ねあわせるようにして進まざるをえない。金尾文淵堂を通して出版社の果たす文化的意味を探ってみたい。


 と記されている。また「あとがき」には、


(前略)東京の出版社を辞し、札幌に来て八年になる。学生たちに出版や本についてごちゃごちゃと語っているうちに、出版が文化に果たす役割の少なからぬ重さに気づいた。編集者時代には仕事に追われ、何をやっているのかわからぬ日々もあった。しかし、著者と語り合うのはもちろん、資料集め、撮影に出張し、図版の描き起こしを依頼し、装丁家と打ち合わせる・・・金尾文淵堂の本を調べながら、一冊の本が仕上がっていくときの喜びがよみがえってきた。この八年の間に出版の環境は加速度的に変化した。皆がデジタル化の未来を語るうちに、「本とは何か」という嘘のような問いに直面せざるをえなくなったことは、季刊『本とコンピュータ』の八年間の記事によく表れている。デジタル技術とともに編集者の仕事も変化し、印刷所の仕事も、校正者の仕事もすっかり変わった。活版・木版時代の金尾文淵堂の本と、現代の本とは形は同じでも別物といえるかもしれない。

 私たちに親しい本は、長い歴史のうねりの中で形づくられ、変化し継承されてきた。作品は出版社を通してはじめて「作品」になり、書き手は出版社によって「著者」となる。そういう制度を近代の出版がつくってきたわけだが、その関係性が揺さぶられている。出版者を中抜きにし、書き手と印刷会社だけで本をつくることは十分に可能であり、そういう方向へと進んでいる。(中略)

 それは書物とは何かという問いでもある。


述べられている。この本の出版年は、2005年2月で、すでに15年が過ぎ去っているが、その間にさえ、パソコン、インターネットの普及で、まさに、さらに急速に変貌しつつある。WEB版の本もある。愚生のような者には、もはや、そうしたデジタル化にはついていけないし、むしろ、ゆうくりと時代遅れを楽しみたいとさえ思うようになっている始末だ。

 「第五章 挿画考ー所縁の画家たち」では、


 金尾文淵堂の本からは、造り込まれた編集の情熱が伝わってくる。テキストだけが重視されるのではなく、装丁や口絵・挿絵。本文活字組みや凸版・木版・コロタイプ・石版印刷、製本のそれぞれが主張を持ち全体として「モノ」としての存在感を発散している。

 本絵と挿絵という差別が固定され、美術館や美術学校が整備されファインアートの価値が高まる反面で、総合的な技術の枠である工芸が低く見られるようになる過程と、文学・小説本から挿絵が消え、本がテキスト中心に編集されていく過程とは平行している。

 金尾文淵堂の本は、近代と現代の二重の転換期における「本」の存在意味を問いかけてくる。


 と述べられている。金尾文淵堂(かなおぶんえんどう)は明治から大正期に活躍した版元で、その主人を金尾種次郎(1879~1947)といい、奇人にして、『仏教大辞典』で破産するが、めげずに美しい本づりのために産を投げうち、与謝野晶子、薄田泣菫、徳富蘆花、木下尚江など、多くの著者画家たちと交流したという。ブログタイトルにした漱石の句「有る程の・・」は、大塚楠緒子が36歳で病死した際に手向けられた。楠緒子の新聞連載長編小説『露』の出版を、金尾種次郎から漱石が橋渡しを頼まれていたらしい。ここでは、「あとがき」に記されている、新村出の金尾種次郎挽歌(墨書)を引用しておきたい。


  冬こもり春をも待たて痛ましく 老木の梅の折れにけるかも     新村出

  塵もなく眞澄みの水の静もりて 汲みて尽きざりし文のふか淵

  道のため心こめにし数々の 書ととこしへに君をつたへむ

 

 石塚純一(いしづか・じゅんいち) 1948年東京生まれ。



           芽夢野うのき「水鳥の左脳でおよぐ月の下」↑

2021年2月16日火曜日

岸本マチ子「着ぶくれて背面跳びなど考える」(「WA」第93号・終刊号?)・・・


 「WA」第93号・終刊号?(WAの会)、奥付には、1989年1月創刊号 年一回発行/1998年から年2回発行/2002年から年4回は発行、とあった。そして編集後記の署名氏(晄)は、たぶん宮里晄のことであろう。その作品下段エッセイには「『WA』終刊号に寄せて」とあって、それには、


 創刊号の俳句8名、詩12名から、115名の創刊20周年記念合同句集(2008年12月号』を経て48名の92号(2020年9月号』に至るカーブには御多分にもれず会員の高齢化と新入会員の足踏み状態があげられます。

 「句会はこれまでとおり続けます、そしてシンプルな句会報をと考えています」との先生のお言葉にホッと胸をなでおろしてします。


とあり、今年になって「『WAの会』新役員の就任のご挨拶」が送られてきた。それによると、


 (前略)これからの新しい形の俳誌「WA」の発行を主眼に会の継承・運営を図ってまいりますので、今後ともご支援ご鞭撻を賜りますようお願い申しげます。(中略)

           WAの会

               顧 問  岸本マチ子

               代 表  上地 安智

               副代表  伊波とをる


  とあった。 羽村美和子「第九十二号会員作品評」では、「終刊は寂しい限りではあるが、「WA」の仲間であったことを誇りとし、それぞれの場所でお元気でご活躍されることを、切にお祈り申し上げる」と記している。ともあれ、同誌同号より、新三役の方と、愚生が縁のあった幾人かの句を挙げておきたい。そして、再出発をするらしい「WA」を待っておこうと思う。


    小間切れの居眠りの中小鳥来る     伊波とをる

    島浦に杭打ち込むな薔薇伐るな      上地安智

    首里城が消えてきれいな夕焼だ   親泊ちゅうしん

    今もまた新樹の山が生き埋に       嘉陽 伸

    孤独という最前列の冬の星       岸本マチ子

    たましひを刺しぬけるさみどりの凩    小橋啓生  

    秋思ありかの首里城の赤瓦        佐滝幻太

    どくどくと母性の残滓桃剥いて     瀬戸優理子

    ふうせんかずら異端の風となら遊ぶ   羽村美和子

    忌中札かかげし家のかまどうま     原しょう子



       撮影・鈴木純一「遅いひとの歩く速さでシャボン玉」↑

2021年2月15日月曜日

妹尾健「半身をみせて大根の時間と無」(「コスモス通信」とりあえず34号)・・・

 

 「コスモス通信」とりあえず34号(発行者・妹尾健)、今号は二つの論考がある。一つは「松永貞徳『戴恩記』を読む②」 と、もう一つは「題詠和歌の訓読みについて」。貞徳の部分をみてみると、


 (前略)そこで貞徳は、切紙(きりがみ)目録を引いている。「切紙」とは「重要な秘伝を一項目ずつ一葉の紙に書いたもの(小高氏注)である。

   切紙目録少々

一、玉代の秘目    一通

  題のよみやう  一七通

  官名       一通

  四題       一通

  歌人の名のよみやう 一通

  年号のよみくせ   一通    (中略)

これらは相伝としてつたえられたものであるが「定家卿より幽斎法印まで、一器の水を一器にうつすやうに、口づから伝へ給しなり。」というものである。(中略)

 幽斎の

 月こよひ音羽の山の音にきく姥捨山の影も及ばじ

 について川田順氏はこう述べておられる「月こよひという歌言葉は、古典にはなかった。幽斎もとより連歌を試み発句も作ったので、その方の言葉遣いが和歌にも利用されたと愚考する。この一首戦国時代から始まった和歌と発句との関係の一端をしめすものである。」(川田順『細川幽斎』)幽斎の弟子である貞徳にとっても、この一首との関係はこれまでにないあたらしい和歌の内容を表現したものといえるものではなかったか。


 そうして、次の「題詠和歌の訓読みについて」では、


(前略)大取一馬氏はこう解説しておられる「訓題とは、たとえば『尋花』という題を『タヅヌ花』と訓むか、花タヅヌルとよむかといった歌題のよみ方についての問題であって」といわれている。つまり「題そのもの」のよみ方ということになる。(中略)

 これを「山早春」やまのそうしゅん・「海早春」うみのそうしゅん・「都早春」みやこのそうしゅんなどとよんでいくのが、この時代のよみ方というのである。和歌の題詠化が盛んになるにしたがってますます技巧的になり知識化していった様が、これによって分かってくるのである。


 という。この通信の、もう一つの愚生の愛読コーナーであるエッセイ・秋華「私の桂信子研究⑤」の題は「記憶」で、句と文は以下である。


    冬波のひびき記憶の奥処より    桂 信子

(中略) 先生はこの句をいつお作りになったのでしょうか。私は、もうベッドの中でお休みになる前ではなかったかと思います。「冬波のひびき」とは、繰り返し心に響く音です。もしかしたら、熱を出して臥せっていた時の幻聴、波の音が蘇ったのではないかと思ったりしています。

 ともあれ、妹尾健の句日記からいくつかの句を挙げておこう。


   冬ごもり嘘をつきつつ嘘返す       健

   虚実皮膜定家偽書群毛布引く

   みごとなるおおくさめあり隣家より

   初電話ずるりとうどんすする音

   枯蔦の人の気配のほしき家


        芽夢野うのき「花アロエ一部はなからツンとたつ」↑

2021年2月14日日曜日

森澤程「ゆっくりと鶯餅をひっぱる手」(「ちょっと立ちどまって」)・・・

 

「ちょっと立ちどまって」2021・2(津髙里永子・森澤程)、津髙里永子と森澤程二人のハガキ通信である。挨拶には、


 はじめまして、私たち二人のつぶやき、ささやき、そして時にはゆらめきの句とちょっとおつきあいください。よろしくお願いします。


 とあった。読み終わって、昨夜、寝ようとしたら、10年前と同じように、福島沖からの地震の揺れが2分程続いた。東京武蔵野は深度4。この度は、あれほどの大事にならずに済んでよかった。ともあれ、以下に一人一句を挙げておきたい。


  一緒に死なうなどと焼蛤ひらく     津髙里永子

  岩肌を滑るほかなし春入日        森澤 程


   

★閑話休題・・・伊藤希眸「寒林の寒のしづもり生きてをり」(「現代俳句」2月号より)・・・


 「現代俳句」2月号(現代俳句協会)の巻頭エッセイは仲寒蟬「蔵書は必要か」、特別エッセイは山﨑十生「私の中の寺山修司/自伝的わが俳句出発の記」。それには十生になる前の十死生時代のことが多く語れている。寺山修司には「山﨑十死生くんが句集『上映中』を出版/《現代生命派》のひとりであり。昨年の本誌〈俳句欄〉で活躍した山﨑くんの第三句集だ」などと評されているのは、愚生が「豈」で、十死生(十生)に出会う以前のことを伺い知ることができた。山﨑十生自身にしても、かくも綿密に初学・少年時代のことを詳細に明らかにしたのは初めてではなかろうか。

 閑話休題のタイトルに挙げた伊藤希眸の「寒林の・・・」の句は、グラビア頁「百景共吟」から。ほかにも「豈」同人夏木久が「今、伝えたい俳句 残したい俳句/11月号 特別作品より」を執筆している。ともあれ、以下には、「自伝的わが俳句出発の記」から、三人の句を挙げておこう。


   黒生まれたちまち白が包囲する     関口比良男

   石榴の実裂けて激しき海の暮れ     山﨑十死生(「蛍雪時代」より)

   ラグビーの頬傷ほてる海見ては      寺山修司



                 撮影・鈴木純一↑

2021年2月13日土曜日

武貞啓子「『未来図』の表紙黒白天牛(かみきり)も」(『若楓』)・・・


  武貞啓子第一句集『若楓』(角川書店)、帯文は守屋明俊、それには、

 

   若楓父母に学びし「真」と「美」と

 慈しみ深くお育ちになったせいか、武貞さんの句には大らかさがある。

 詩情豊かで、上質のユーモアも感じられる。「未来図」鍵和田秞子主宰に永く薫陶を受け、身辺句にも大きな景の句にも作者の情(こころ)が通う。

 ゆったりと時の流れを愉しみ、これから作者はさらに豊饒な世界へ進むであろうと期待している。


 とある。また、著者「あとがき」の中に、


 (前略)その日、睡りから覚めてぼんやりしていらした先生は、お声掛けする中で、しばらくすると、にこっと微笑んで下さいました。頬に赤みがさして来てお顔がぱっと輝いて見えました。その後、色々なことをお話しすることが出来たのです。「今となっては何もして上げられないけれど、思い出す私の評があったらどんどんお書きなさい。後は編集長の守屋明俊さんに色々教えて貰って・・・」と。お別れに際して握手させていただいた掌のほっそりとして柔らかかった感触は今も私の掌に残っております。

 秞子先生から直接の選句は叶いませんでしたが、句は二十年の間に先生に目を通していただいたものばかりです。


 とあった。ともあれ、愚生好みに偏するが、いくつかの句を以下に挙げておきたい。


   初蝶のさらりと躱し黄を残す        啓子

   伊豆沼の闇よ万羽の浮寝鳥

   青虫の消えてみどりの残りけり

   桜落葉身になとひたき色拾ふ

   地震後もみ空万羽の雁渡る

   口笛や瓢の笛より吹き易く

   麗らかや象を操る竹箒

    鍵和田秞子主宰「毎日芸術賞受賞祝賀会」

   賜りし真竹の扇愛無限

   師のおこゑ聴かれぬ日日の虫の声

   傘寿いま山頂に立つ桜どき

   新緑や令和天皇声若き

   身に入むやこころを正す天災よ

   

 武貞啓子(たけさだ・ひろこ) 昭和13(1938)年、東京生まれ。


          芽夢野うのき「誰を待つ春をうつむく白い花」↑ 

2021年2月12日金曜日

芭蕉「阿蘭陀も花に来にけり馬に鞍」(『千代倉家の四季』より)・・・


  森川昭『千代倉家の四季』(円座俳句会・非売品)、序は武藤紀子「森川先生と『円座』)、その中ほどに、


 (前略)魚目先生からは時折、森川先生のお名前を伺っていました。東京大学の近世文学の教授で、魚目先生のお住まいの鳴海の下里家(三代目蝶羽以後は下郷家)の古文書の研究をなさっていること。下里家は芭蕉とも交流があり、パトロンのようなものだったこと。書家である魚目先生が下里家の古文書を読むのを手伝い、森川先生と親交があったことなどを聞いていました。

 また、私が発刊した『一晶と歩く東海道五十三次』で、森川先生のお弟子さんの名古屋大学教授の塩村耕先生にお世話になったことから、森川先生のことは存知上げていました。

 森川先生は心良く引き受けて下さり「新・千代倉家の四季」という連載がは始まりました。

 平成二十四年「円座」九号から第一回が始まり、現在まで五十回の連載となっています。


 とあり、この連載は今も続いている。「円座」2021年2月・第六十号で52回目「風邪・世上一円風邪流行(せじょういちえんかぜりゅうこう)」である。つまり、連載の最新稿には、


  (前略)江戸時代にはお駒(こま)風邪、お七(しち)風邪、明治なってはお染(そめ)風邪など何故か女性の名が冠せられました。お染は大阪の油屋の娘で宝永七年に丁稚(でっち)の久松(ひさまつ)と心中(しんじゅう)した悲恋物語の主人公です。心中直後から数多くの歌舞伎や浄瑠璃(じょうるり)につくられています。深川江戸東京資料館の長屋(ながや)には「久松るす」の貼り紙があります。お染風邪さん、あなたの愛する久松は留守ですよ。お帰り下さいという庶民の切実(せつじつ)な願いがこめられています。

 お七風邪が流行したのは享和二年(一八〇二)です。(中略)

 日記にこの風邪の記事が初めて見えるのは三月八日です。

 世上一円風邪流行、家内へ茶釜煎じ飲ませる。

                 (享和2・3・8伝芳日記)

 世間に広く風邪が流行しているというので、茶釜で大量の薬を煎じて家中の者に飲ませたのです。にもかかわらず、感染拡大のスピードは速くて、一日置いて一〇日には早くも何人かの患者が出てしまいました。(中略)

 こうなるともう、ワクチンもタミフルもありません。神仏にすがるほかありません。

   風邪一同流行につき、今晩より一七日まで細根御宮へ御灯(みあかし)上ぐる筈(はず)申し遣はす。観音様へも蝋燭(ろうそく)上ぐる。

        (享和2・3・11伝芳日記)


 とあった。本書中では、「芭蕉・西鶴そして宇佐美魚目さん」(「円座」48 平成31・2)を、興味を惹かれた部分を少々引用しておきたい。


 (前略)昭和六三年四月三日、天和三年の知足の日記を調査していました。昔は紙が貴重でしたから、日記帳は余所から来た手紙などを裏返して貼り継ぎ裁断して調製してあります。だから、現存の日記の裏側には余所(よそ)から来た手紙などが書かれています。これを紙背文書(しはいもんじょ)といい、中には研究上貴重なものがあります。天和三年の表の日記を読み終わり、今度は裏側を覗いて行きますと、一際(ひときわ)風格のある一通の手紙に出会いました。差し出し人は「西鶴」とあるではありませんか。(中略)調査協者の長島、塩村両君と驚きと喜びを共にしました。西鶴の手紙はそれまで六通しか知られて居らず、しかもその内三通は知足に宛てたもので、知足に宛てたものとしては四番目、全部で七通目のものでした。(中略)

 さてこんな貴重なものが、このままでは永久に紙背に埋もれてしまうことを惜しまれた千代倉家当主の君雄様は、その手紙を日記帳から取り外して軸装することを思い立たれました。そうするとこんどは日記の記事が紙背に隠れてしまいます。そこで魚目さんにお願いして日記の該当部分を臨写していただき日記帳にはめこむことになりました。私たちは魚目さんがいとも易々(やすやす)と書き写されるのを見て感嘆しました。

 


★閑話休題・・・武藤紀子「先生とゆく俳諧の照葉みち」(「円座」2月・第60号)・・・

 で、「円座」には、他の連載に、中田剛「宇佐美魚目ラビリンス」(60)があるのだが、外部からの寄稿に、活きのいい俳人を幾人も起用している。記しておくと、外山一機「魚目と私(第11回)/不思議な魚目」、関悦史「平成の名句集を読む 第37回/鍵和田秞子『光陰』ー等身大と位格」、藤原龍一郎「句歌万華鏡 第28回/漱石。虚子、そして子規」、松本邦吉「芭蕉論ノート⑥/宗房、空白の六年間(四』『続山井』をめぐって」など、いわば、結社誌にしては、読みどころ満載なのである。ともあれ、本号より、いくつかの句を挙げておこう。


   猿酒夢の中では上戸にて        中田 剛

   春風や帆を立てかけてあるピアノ    清水良郎

   読初は古事記に見ゆる神の舞      鮫島茂利

   三つ撞かば三度(たび)楽しき秋の鐘  三好康子



     撮影・鈴木純一「生き残った負い目に一つ春の雲」↑

2021年2月11日木曜日

渡辺誠一郎「わが息は飽きずに続き春の宵」(「小熊座」2月号より)・・・


  「小熊座」2月号(小熊座俳句会)、特集は渡辺誠一郎句集『赫赫』(深夜叢書社)、内容は、自選二十句、論考は堀田季何「俳と詩とみちのく」、豊里友行「溢れ出る生命賛歌と現代社会詠」、駒木根淳子「再生の声」。一句鑑賞に小山玄黙、板倉ケンタ、浅川芳直、菅原はなめ。興味を持たされたのは、自選20句と、論考と鑑賞者の選ぶ句に、若干の齟齬が生まれているように思えたことである。評者の方の多くは、句集において赫赫たる戦果になるようなはずの句を挙げているように思えるが、自選の句はおおむね静謐さに軍配をあげているようにも思える。ホントは逐一例句を挙げるのが礼儀であろうが、愚生にはその力量に欠けるゆえ、あくまで印象的に言っている。愚生が自選句の中から選ぶとすれば、ブログタイトルに挙げた句と、


   原子炉を遮るたとえば白障子     誠一郎

   戦前の前も戦後や秋扇

   草木に手足がなくてただ暑し

   天山も冨士も土くれ一茶の忌

   みちのくのどれも舌なき菊人形


 あたりだろうか。なれば、この先の道は細い。しかし、その細い道をたどることこそ、これまでにない膂力が必要とされるのではなかろうか。確か、渡辺誠一郎は、攝津幸彦の句に対して、かつて「ある時代を本歌取りしてみせているのだ」と言ったことがある。これは当たっていると思う。なれば、渡辺誠一郎句の手がかりもこのあたりにあると思えないわけではない。愚生が最初に渡辺誠一郎に会ったのは、たしか,佐藤鬼房がまだ健在だった「こぐま座」5周年のシンポジウムに招かれて、塩竈に行ったときではなかろうか。あれから、たぶん30年以上の月日が沈んでいる。そして、もう一つ「《そして、》」(下の写真は攝津幸彦追悼号、これで終刊した)という小さな冊子を出していた時期がある。



 「《そして》、」は、不定期? 毎号持ち回りで「キーワード」の題が出され、それには、いつも即吟で出すようにしていた愚生だが、亡き佐藤きみこと、渡辺誠一郎の尽力で発行されていたように思う(そして、仙台に居を移した橋本七尾子と・・)。冊子のデザインは渡辺誠一郎だった。その後も、自身手作りした豆本の句集を贈って頂いたこともある。思えば、遠く来たものだ。

 ところで、楽しみにしている同誌の連載で、後藤よしみ「高柳重信の奇跡」は20回目「初投句」を迎えた。いまだ少年時代からの高柳重信(恵幻子)の道行だから、相当に長い読み物になりそうである。ともあれ、主宰以下、同誌同号「極星集」より、一人一句を挙げておきたい。


  震災遺構校舎わけても米こぼす      高野ムツオ

  草丈を越えぬ淋しさ草氷柱        渡辺誠一郎

  海光にまみれて蘆の枯れ極む       土見敬志郎

  雛本そのまま冬の鳥になる         沢木美子

  狐火が赤色灯の狭間より          高橋彩子

  冬ともし地獄巡りの靴を履き       津髙里永子

  枯葉のかさかさ朽葉のぐにやぐにや     我妻民雄

  穂草分け金色(こんじき)の雉子歩む    阿部菁女

  レノン忌のカセットテープ空回り     郡山やゑ子

  歌舞伎町酒場「火男」に鯨鳴く       増田陽一

  足音の返って来そう冬青空         佐藤みね

  労いを労われおり一茶の忌         吉野秀彦



        芽夢野うのき「きっと鈴懸の実は通りすがりの君」↑

2021年2月10日水曜日

金子兜太「おおかみに蛍が一つ付いていた」(『金子兜太/俳句を生きた表現者』)・・・


 井口時男『金子兜太/俳句を生きた表現者』(藤原書店)、帯文には、黒田杏子さん推薦とあり、


 「長寿者は幸いなるかな/最晩年の句友、文芸評論家/井口時男による兜太論」/没三年記念/過酷な戦場体験を原点として、前衛俳句の追求から、「衆」の世界へ、そして晩年にはアニミズムに軸足を据えた金子兜太の、生涯を貫いたものは何だったのか。戦後精神史に屹立する比類なき「存在者」の根源に迫る。


  とある。著者「あとがき」の中に、


(前略)執筆に際しては、「外部」からの観点を大事にするよう努めた。私が俳句界の「内部」などまるで知らないせいでもあるが、案外これが本書の取得になっているかもしれない。

 具体的には、ジャンルの特殊性(という名目)に閉じこもりがちな俳句を詩や短歌や小説といった文学全般のな中でとらえ、俳人・金子兜太の歩みを戦後表現史や戦後精神史の中に位置づけることである。それは造型俳句論で金子兜太自身が志向したことだったし、また、こういう「外部」の観点に耐えられる俳人は金子兜太ぐらいだろうとも思う。(中略)

 私は以前、第一句集『天來の獨樂』に収めた短文で、「俳句が詩を羨望することの必然性と俳句が詩になることの不可能性とを、同時に知った」と書いた。それは前衛・富澤赤黄男についての感想だったが、加筆を終えたいま、同じことを思う。(中略)

 金子兜太は俳句が「詩」になることの可能性と不可能性を、「社会性俳句」から「前衛俳句」へと遮二無二表現の高度化を推し進めた「往相」(ほぼ一九七〇年代前半まで)と、大衆的な平明さへと、また「原郷=幻郷」へと、還ろうとした「還相(げんそう)」(ほぼ一九七〇年代後半から)とに、振り分けて生きたのだ。しかも往相においても還相においても規格外の表現者として俳句を生きたのだ―と。


 述べている。これまでの兜太評の書にはみられない、特質ある、いわば必読の書である、と言っていい。そして、何より、井口時男自身が、自身の俳句の歩く道を、次のように記しているのは、その出発が誰にでもある、慰藉としての文学(俳句)から、それを超えようとする宣明として、受け止めたいと思う。


  なお、いわずもがなのことながら、私自身は実作において金子兜太のあとを追うものではない。金子兜太は唯一無二。あとを追ったって無駄だ。私自身は晩年の兜太の野太いユーモアを感嘆しつつ遠望しながら、いまむしろ、イロニー的屈折と間テクスト的重層性の可能性につきたいと思っている。


 かつて、加藤郁乎は、芭蕉とは歩く道を異にすると言った。本書中には、引用したい炯眼、具眼の箇所がいくらでもあるが、それは、読者諸兄姉が直接当たられたい。ここでは、結びの場面を挙げておこう。


 (前略)かくして、「太い人」「野の人」は「笑う人」なのであった。そして、この後、晩年に近づけば近づくほど、金子兜太は二者がただ出会うだけの、いわば「二物遭遇」の句を詠み始める。たとえば、

  人間に狐ぶつかる春の谷  (『詩経國風』) (中略)

  おおかみに蛍が一つ付いていた (『東国抄』)

  人間と人間出会う初景色    (同) 

  山径の妊婦と出会う狐かな  (『百年』) (中略)

 これらの遭遇句には、かつての兜太なら腐心したであろう造型性への配慮は見られない。ただ無造作に二物の遭遇が報告されているばかりだ。兜太の造型論はイメージ論でもあったが、そのイメージは過重なまでの意味を担った意味喩であった。造型への配慮の放棄は意味という負荷からの自己解放である。

 中でも最も世評の高いのは、読者が意味付けしやすい〈おおかみに蛍が一つ付いていた〉だろう。(中略)現に兜太の措辞はそっけなくて無造作で直截で、意味へと誘惑するそぶりがまるでない。狼に蛍はただ「付いていた」のだ。

 意味は人間界のもの。生き物たちの関知するところではない。還相の兜太はこうして「非知」の心地よさへと着地したようだ。

 

 井口時男(いぐち・ときお) 1953年、新潟県生まれ。



       芽夢野うのき「一花複雑群れてさびしきイベリスよ」↑

2021年2月9日火曜日

池田澄子「また此処で思い出したりして薄氷」(「読売新聞」2月9日・朝刊より)・・・

 

 「読売新聞」2月9日朝刊 「読売文学賞の人びと」にインタビュー記事が掲載されている。そして、何より昨日は第21回「現代俳句大賞」(現代俳句協会賞)を受賞したことも伝えられた(実は先々日に、「豈」発行人・筑紫磐井から、池田澄子ダブル受賞、残るは〇〇賞と〇〇賞・・・と内々に知らせを頂いていたところだった)。受賞歴でいえば、師の三橋敏雄を超えたことになる。俳句の時代も、ようやく、現代仮名遣い、口語文脈ありの俳人を押し上げた、と言っていいかも知れない。ある人は、「短歌で口語短歌の道を大きく切り開いたのは俵万智、俳句でそれをなしたのは池田澄子・・・」と言っていたが、時代の風がようやく追いついたのだろう。版元の朔出版・鈴木忍のフェイスブック記事によると、


 ●文語と口語を駆使した多彩な表現方法で、独自の俳句世界を確立されたこと。

 ●日常のささやかな題材から、戦争や生死など重いテーマを詠み、深い俳句世界を示していること。

 ●そして、親しみやすい語り口で多くのファンを魅了し、特に若い世代への俳句普及に貢献したことも大きな授賞理由です。

 ●もちろん、平易で説得力ある文章も!


 と、あった。とにかく、重ねてオメデトウ!!ございます。読売新聞の記事中の句を以下に再掲しよう。


  じゃんけんで負けて蛍に生まれたの       澄子

  此の世の此処の此の部屋の冬灯

  こころ此処に在りて涼しや此処は何処

  春寒の夜更けに亡師と目が合いぬ

  あっ彼は此の世にいないんだった葉ざくら

  


  

★閑話休題・・・佐々木六戈「悪意でもなく憎悪でもなくピラカンサ」(「艸 くさかんむり」第4号)・・・

 その跋の後半に、


●再びの緊急事態宣言が発出された。公共施設は閉じられてしまった。句会は閉め出された。不要不急ということか。●ウイルスは悪を成そうととして現れたのではない。却って善をもたらすだろう。人類史的に言えばそうにちがいない。我々の遺伝子の半分はウイルス由来である。その御蔭で人類は生殖が可能になっている。歌の半分である五七五の遺伝子の総体は俳句と呼ばれるゲノムなのである。そのゲノムのおよそ三分一は季語というウイルスを内在させている。眼前の風景がまた違って見える。季のトーテムが人に反省を強いているからである。


 とあった。


  われをくぐりて手袋を裏返す       六戈

  新しき手帖に記す彼是(あれこれ)も予定に如かず扨(さて)も其(そ)の後(のち)



       撮影・鈴木純一「ぷっくりと鶲の尉も春のふん」↑