2021年9月13日月曜日

伊丹三樹彦「古仏より吹き出す千手 遠くでテロ」(『伊丹三樹彦の百句』)・・・


  伊丹啓子&青群同人『伊丹三樹彦の百句 解説と鑑賞』(ビレッジプレス)、謹呈紙に「伊丹三樹彦遺族/伊丹啓子・矢野夏子・Lee凪子」とあった。「本書を泉下の伊丹三樹彦に捧げる」と献辞がある。「あとがき」は遺族代表・伊丹啓子。その中に、


  俳人であり、私の父である伊丹三樹彦は二〇一九(令和元)年九月二十一日に永眠した。満九十九歳七か月の大往生だった。(中略)

 伊丹三樹彦の八十有余年に及ぶ永い俳句人生を概括するには、故たむらちせい氏が示された四期に分けることが出来る。すなわち、先師日野草城主宰の膝下で「靑玄」を編集発行した十年間を第一期。草城師逝去の後、「靑玄」を継いで主幹となり「第二次靑玄」に入った第二期。第二期には三樹彦自身が編集発行業務のすべてを背負った。(中略)第三期。この頃よりかねて願望があった写真を始め、「写俳」のジャンルを創始した。満八十五歳で脳梗塞で倒れ、再起不能と思われながら精神力で復帰した晩年の第四期。(中略) ところで、「第二次靑玄」に於いて伊丹三樹彦が打ち出したテーゼは【リアリズム リゴリズム リリシズム】(三リ主義)であった・リリシズムは本来三樹彦が持ち合わせていたもの。あらゆる時期の句に感じられる。リゴリズムは五・七・五音の「活用定型」が実践された。三樹彦はあくまで「定型感(活用定型を含む)」を重視した。リアリズムであるが、三樹彦はリアリズムの作家である。これは間違いのないところだ。更にそのリアリズムの内容を突き詰めるならば「ドキュメンタリズム」ということになろう。(中略)

 父は行動する作家なのだった。写真界ではカメラのレンズが捉えた瞬間を「一瞬世界の飛翔」と表現したりする。三樹彦の「ドキュメンタリズム俳句」というのはカメラマンの「一瞬世界の飛翔」に似ている。(中略)つまり、その瞬間を実体験しなければできる筈もないのだ。だが、病後の第四期には遠出がままならかった。だからこの時期の句が回想や日常些事の詠出となったのはやむを得ない。父は死の前日までも原稿用紙を放さず、陸続と句を詠み続けたのだった。


 とあった。本書の見開きページには、三樹彦の一句と合わせて解説鑑賞文が置かれている。執筆は第一部50句を伊丹啓子、第二部50句を鈴木啓造、小嶋良之、政成一行、東國人、岩崎勇、魚川圭子、瓜生頼子、鎌田京子,久根純司、など20数名の方々の「青群」同人が執筆している。そういえば、伊丹三樹彦は、「ボクの財産は人です」と言っていたことを思い出す。伊丹三樹彦が病から復帰して、現俳協の大会の懇親会に来た時、双方を認めるが早いか、金子兜太とひしと抱き合っていた姿を今でも思う。わずかだが、その兜太よりも長く生きたのだ。ともあれ、以下にいくつかの句を引用しておきたい。


   長き夜の楽器かたまりゐて鳴らず         三樹彦

   誰(た)がわざや天衣(てんね)あかるむ花菜など

   大阪やラムネ立ち飲む橋の上

   父死して得たり無用の洋杖(ステッキ)まで

   金輪際坐る行者に ガンガ明り

   草城忌 わが還暦の言上(ごんじょう)

   俳句一生(ひとよ) わが和魂(にぎたま)に 下令して

   一碧の天を戴き 彼岸花

   地に残す爪跡 おのが 十七文字(とおななもじ)

   みほとけに秋かぜの瓶(みか)かろからむ

   梅咲くと 生死の 生の側を行く

   摘むは防風 あれは墓だか石ころだか

   杭打って 一存在の谺 呼ぶ

   抱けば子が首に手を纏(ま)く枯野中


伊丹三樹彦(いたみ・みきひこ) 1920・3・5~2019・9・21 兵庫県伊丹町生まれ。享年99。



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