2014年2月13日木曜日
摂津特集をもって本誌は終刊する。(「花綵列島」第7号)・・・
「花綵列島」という特異な同人誌があった。覚えておられるであろうか、いや、ご存知であろうか?
30年前のことである。
愚生の手元に残っているのは第五号「特集・大本義幸」(1983年4月)と終刊号の第七号「特集・摂津幸彦」(1985年5月)のみである。
終刊号に、小西昭夫は次のように記している。
思えば、花綵列島は自分達の作品や文章を自由に発表できる場として、高橋信之に発 行人を依頼し、山田清紀に協力を依頼して創刊した。しかし、高橋も山田も、私の思うよう に編集させてくれた。毎回特集を組もうと思った。評論のある雑誌しようと思った。詩や短 歌とも交流しようと思った。視野を広くもって、同人誌の不潔なイメージと無縁な雑誌にしよ うと思った。そのため、外部執筆者を多くし、同人作品欄は一切作らなかった。その結果、 「他者を主張する」というきわめて「ユニークな雑誌」という評もいただいた。(中略)
豈にはいつも、「or Last」の文字がある。摂津特集をもって本誌は終刊する。
「同人誌の不潔なイメージ」とは当時の印象だが、確かにそうした感情があった。攝津幸彦もまた、「三十歳をすぎて同人誌をやってるなんて気持ち悪いよね・・」と自嘲気味に言っていたことがある。とはいえ、当時、散在していた同人誌は、お互いを意識しあっていたことが伺える。執筆などは、もちろん謝礼もなにもなく協力しあっていたのだ。攝津も愚生も最後まで同人誌しかついに関わることが出来なかったのは何であろうか。結社をある種羨んだこともあったかも知れないが、結局はその場に赴くことを潔しとしなかっただけのような気もする(結社を否定しているわけではない)、あるいは、選句という制度による暴力的な添削、句は良くなったとしても、自分自身の心持や時代の精神は、その欠片もなくなってしまう制度的な言葉の羅列。
それは、俳句表現技術の獲得を結社が支えてくれているはずであり、その方がきっと表現効果としても効率がいいかもしれない。それでも、遅速の、自分たちの納得できる言語に傾斜していかざるを得なかった心性こそは愚生らの孤立を支えていたのかもしれない(若い???ねえ)。
攝津が「静かな談林をめざす」と言ったのは、かの談林が抱えていた当時の時代、いわゆる貞門のような束縛と形式的なものへの反措定であり、大阪の町人を多く抱えていた談林の階級としての勃興、その経済力を背景とした個性の発露、その混沌のエネルギーをのみ、秘めて、静かに俳句に処して行こうということであったと思う。また、それは、髙柳重信が社会性俳句運動華やかかりし頃に、「ぼくらは氷のような炎で焼く」と言ったことと通底していたように思う。
因みに「花綵列島」五号の大本義幸特集の執筆者は、大本義幸・坪内稔典・河口聖・しょうり大・熊本良悟・東莎逍・妹尾健・塚越徹・仁平勝・戸南杏・大井恒行。短歌作品は、渡瀬治・加藤明生。俳句作品は、田中三津矢・岡本亜蘇・岡本のりを・加地勝敏・小西昭夫・熊本良悟・長野文子・東莎逍・矢辺みその・脇坂公司・山田清紀・吉田和子。他に高校生俳句作品が七名。詩作品は鴉裕子。表紙絵は長尾洋子。
朝の虹
蛮刀で切る
ホスピタル 義幸
「花綵列島」七号「摂津幸彦特集」の執筆者は、摂津幸彦・坪内稔典・大井恒行・冨岡和秀・仁平勝・宮入聖・戸南杏。他に詩は広瀬治・佐々木啓二。俳句は以下に一句ずつ挙げておこう。
ものの芽をいらへば思想傾きぬ 幸彦
春浅しくちびるをかむ糸切歯 山田清紀
眼光を海に刺し込み舟を操(く)る 藤田みその
春愁の河口までゆく境涯派 熊本良悟
次々と解剖へ向く油蝉 東 莎逍
落花して骨の残りし椿かな 岡本亜蘇
夏柑の無数の粒の涙痕よ 脇坂公司
飲めば酔い酔えば喚(わめ)きて醒めて月 小西昭夫
フユバラ↓
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