2014年2月18日火曜日
過激でなければ俳句じゃない・・・
「流星」創刊号・奥付、1985年8月15日発行。
表紙絵は皆吉司「春の宇宙論」。カット西坂潤。
編集人・今井豊、発行人・小林正信、今井豊、参集した同人7名。
およそ30年前、というから愚生35歳のころである。
全国の若い俳人たちはあえいでいた。そして熱く燃えていた。
総合誌には頼らず、自分たちの場を創造しようとしていた。
坪内稔典等の「現代俳句」は、先陣にあって、そうした動きを領導していたように思える。
勿論、時代には乗らない、と静かな氷の炎を燃やした攝津幸彦・仁平勝らの「豈」も、雑誌の刊行は不定期であったが、確かに在った。
なみだながれてかげろうは月夜のゆうびん 西川徹郎
コーラ飲む明日は天皇誕生日 小西昭夫
人知れぬ野を行く一匹われというけもの 山羊ななこ
雪解かしその水集め春の花咲かす男のバロックの椅子 米原公子
横死あり やがて目覚める夜の桃 後藤貴子
晩夏光 母と赤鬼目覚めゐて 松田正徳
聖夜流星毛布をまいて寝る少女 今井 豊
その他、評論は米原公子「塚本邦雄論」、松田正徳「俳句修辞学」。エッセイに小西昭夫「田中三津矢への手紙」、今井豊「書込みにある本」、西川徹郎「空蝉と肉、あるいは〈自然〉について」、松田正徳は題を空白にして書いている。
その編集後記に今井豊は次のように記した。
(前略)、その為には、○実践・実作の場
○厳しい相互批評の場
○評論・研究の場
を徹底し、純粋に、ほんとうに純粋に、こなれた処世術を排したところで生まれるものを大切にしてゆきたい。
流星は今までのどの結社も同人誌も果たせなかったものをめざしている。同人の多くは、既成の結社に対して不満や失望、反感を思っているのではないかと思う。しかし、 それは単なる結社批判では消化する事のできなかったエネルギーの噴出に他ならな い。そのそれぞれの闘志は、流星の闘志でもある。(中略)
流星における僕個人の活動目標は、「過激でなければ俳句じやない」を実践する事である。
その「流星」3号(1986.4)の特集「同世代の現状」に、愚生は、妹尾健・四ツ谷龍・西川徹郎・小西昭夫・松田正徳・今井豊に混じって「一木一草に宿る〈伝統〉への問いを」というタイトルで寄稿した。
後日、牧羊社「俳句とエッセイ」の山岡喜美子女史を介して、長谷川櫂から会いたいという申し入れを受け、面会した。書いた内容のあらかたを忘れてしまっており、今回改めて読み直してみた。それは天皇在位六十年という背景のなかで、三島由紀夫「文化防衛論」や山口誓子『俳句添削教室』、長谷川櫂「俳句と私」(俳句とエッセイ」昭和61年1月号)に触れた、いわば足早の状況論であったが、「今後、そういうことは書かない方がいいですよ、貴方のために・・」という忠告をもらったことを思い出す。
その折りの愚生の趣旨は以下にあったのだが、それを記憶のために引用しておこう(思えば、竹内好「一木一草に天皇制が宿る」に比重が掛かって読まれたのかも知れない・・)。
(前略) 便宜的に述べるのだが、前衛傾向の俳句も、伝統傾向の俳句も、自らの根拠を保証するべきものに、自らの内面的不安に秩序を与える構成要素として自然の風景に 寄りかかっているように思う。風景という客観的な対象〈花鳥風月=自然〉によって秩序 化された世界を現前させることで安心したいのである。とりわけ、伝統派と呼ばれる俳 人たちの、ヒステリックなまでの言挙げは、自らの存在根拠の喪失(自然の喪失)に対 して、なお、そうではないのだということを保証するための言説として響いてしまうのは、むなしい気さえする。
いま、時代は流れて、愚生らはどこまできたのであろうか。さらに混迷は深い・・・。
ジュウガツサクラ↓
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