2014年3月30日日曜日

堺谷真人「氾濫を事とするなり遠桜」・・・



昨日は2ヶ月、奇数月に一度の「豈」の句会だった。
現代俳句協会の総会と重なったが、句会は少人数ながら滞りなく終えて、堺谷真人と現代俳句協会の懇親会に駆けつけた。
宇多喜代子の現代俳句大賞のお祝いを言いに出掛けたのだが(宇多の姉御は、愚生を他の人に紹介する時は、いつも「この子はねえ・・」というのである。かつて坪内稔典の「現代俳句」の頃からの長ーィお付き合いだから、いつも懐かしい感じがする・・・)。
久しぶりに文學の森・副編集長の松本佳子にもあった(愚生が昨年,社を辞めて以来かな?・・)。

話をもとにもどして、上掲の堺谷の句は、当日句会のとりあえず,最高点を獲得したした句である。再度掲載するとともに、出席各人の一句を挙げておこう。

    氾濫を事とするなり遠桜        堺谷真人
    目貼剥ぐように海猫が聞こえる    小湊こぎく
    行間が総立ちとなる落椿        杉本青三郎
    
    つつやみの
    つゆさやぐかに
    ねりゆかば                酒巻英一郎

    落椿きのうが空に貼りついて      羽村美和子
    桜まじ三角帽子のぐりとぐら       早瀬恵子
    雛あそび宇宙取り込み〇(ぜろ)の域  岩波光大
    つちふる曙堕ちる冬衛の一脚よ    大井恒行

閑話休題・・
 先般のこのブログで書いた首くくり栲象(たくぞう)と愚生の偶然の出会いがYouTubeで「密着24時・首吊り芸術家」のタイトルでアップされているので、興味のある方はどうぞ!


この映像のなかにセピア色の写真が出てくるが(よく持っていたな~)、左端が愚生で、首くくり(当時・古沢栲)、 故・風倉匠、そして鈴木一民(書肆山田・社主)である。井の頭公園の座敷を借りて句会をやったときのものだ。
                ハナニラ↓

2014年3月27日木曜日

「3.11以後の俳句」?・・・


「3.11以後の俳句」?に高山れおなは以下の様に書き継いでいる(『俳句原点ー口語俳句年鑑2013』・口語俳句協会刊)。

   そんなものは存在しない。3.11は、日本を襲った最初の大地震大津波ではないし、最  後の大地震大津波でもない。3.11に打ちのめされた者、打ちのめされなかった者、す   でに3.11を忘れてしまった者、今も3.11がもたらした状況に苦しむ者、それらさまざ   まの個人がこれからも俳句を作り続ける、それだけである。

「震災句集再説」と題された評文の最終締めの部分の引用だが、いわば俳人として、また表現者として、現在の状況認識と表現意思の覚悟をたくまずして披瀝したものになっている。もちろん彼が与題としてあたえられたテーマ「新興俳句の再吟味」についての全体の要約もなしに、最後の部分のみを引用するのは公平を欠いているかも知れないが、これ以上、興味のある人は、直接、この年鑑にあたられたい。
全体のテーマは「新興俳句の再吟味」ということで、その他にも興味深い論考が掲載されている。例えば川名大は「合い言葉による国民感情への同化と不同調ー新興俳句の女性俳人の境涯俳句と銃後俳句の各異相―」題して、藤木清子、すゞのみぐさ女、竹下しづの女、東鷹女(三橋鷹女)の四名について詳細に論じている。とりわけ東鷹女の「後の『聖戦俳句』も赤面するような公の国民感情をコード化した句を作ったのだ」と指摘、「彼女の境涯俳句が示すように、自己中心のナルシズム、子への溺愛という心性は、客観的な眼や批評精神が脆弱で、そのために易々と公の国民感情に溺れたのだ、と看做せよう」と批評してみせた。その上で、

  昭和十年代の「忠君愛国」という合言葉による国民感情と「3.11」の「絆」という合言葉  による国民感情とは、そこに高揚された国民感情の内容は全く異なる。だが、国家・メディ アを語り手とした合言葉による語りは、聞き手(国民)をそれに同化させ、高揚した国民感 情を生み出す反面、聞き手個々の独自の思考、洞察、感情を空虚化するメカニズムは共  通している。

と、冷静に分析している。
あと一篇を是非挙げておきたいのは、秋尾敏「新興俳句と『南柯』」である。秋尾敏の父・河合凱夫が戸張凱夫の名で戦中に投句していた雑誌「南柯」について述べたものだが、もう一誌の新興俳句系の「東南風(いなさ)」にも関わって、これまた短歌で用いていた宮野滾という名で編集を手伝ったりしたという。「南柯」は内藤鳴雪が始めた雑誌で、当時は、巻頭に「敵国降伏」という選句欄を設けたり(カモフラージュかも知れないが・・)しているという。

   基地帰還不可能に哭き夏雲衝く       戸張凱夫(「南柯」昭和19年2月号)
   敵機去りし芝の暖色寒禽に             (  〃 昭和20年4月号) 

などの戦地から送られた句を見ると、いずれも「実感の伴なったモダンな表現である」し、「ポエジーが志向されていたと考えておいてよい」という。そして、秋尾敏は次のように結語している。

  「南柯」は新興俳句の雑誌ではない。しかしその時代の何かを伝えている。新興俳句は、 単に一部の俳人の作り出したムーブメントではなく、イデオロギーや立場を超えて広がって いた時代性なのではないかと思うのである。

3.11以後を考えるとは、3.11以前も当然視野に入っていなければいけない。さらに、この世に起きていることで、自身に起こらないことは何ひとつ無い、ということ・・・その意味ではいつもいかなる場合も、自身に問われているのだと、思う。
              ユキヤナギ↓


2014年3月25日火曜日

宗田安正選「平成百人一句」・・・


百人一句選となると、古今さまざまな百人一句がある。
それが、個人選であれば、選者の個性も出てくる面白さがある。また復数による百人一句でも、妥協の産物とはいえ、選んだ人たちのそれなりの考え方や個性が出る。誰を選んだか、どのような句を選んだかは、じつに興味深い。かつて、愚生がもっとも魅せられていたのは塚本邦雄選だった。ほかには、アサヒグラフであったか、趣向が少し変わるが、中井英夫による幻想俳句百選や山本健吉の昭和俳句百句などもあった。
平成時代もすでに四半世紀、みごとな百人一句のアンソロジーができて、古典となるべき作品が紡ぎだされてもいいころだ。
平成時代に入ってからに限って、平成百人一句の最初の選と鑑賞文が世に送られたのは、「俳句空間」(弘栄堂書店版)だったと思う。平成に入って、わずかに二年間。そのわずかな期間ではあるが、活躍中であった最年少は今泉康弘(当時23歳)から、最年長は阿波野青畝(当時91歳)までの百人一句鑑賞であった。多くの方々が今は鬼籍に入っていることを思うとあまりに早い時代の流れと自らの老いを思わないわけにはいかない。
この企画は、各俳人に平成2年間に創った俳句作品の中から、自信作5句を送稿していただき(句集や掲載誌の掲載年月を付して)、それを編集部で一句選び、その一句について各鑑賞文を他の俳人に書いてもらうというものだった。つまり、捨て去られた四句の自信作は、これまで、ついに陽の目をみることはなかったのだ。
あまりにもったいないことに気付き、現在、愚生はぼちぼちと「平成百人一句鑑賞にまつわるあれこれ」と題してブログ「俳句空間ー戦後俳句を読む」に一ヶ月に一度くらいのペースで当時の自筆原稿をもとに、掲載されなかった他の句を掘り起こし、連載している。
ほかに平成百人一句を企画し「2000年百人一句」展(選者・夏石番矢)として自筆色紙などともに開催展示したのは、土屋文明記念館、日本現代詩歌文学館、熊本近代文学館であった。
そして、今回、宗田安正が「アナホリッシュ國文學」第5号で百人一句選を披露している。宗田安正の「選後所感」によると「四半世紀に達した平成年間の作品を対象に何かを表現しようとしている作品を中心に選んだ」としてあるものの、どうやら、最初から作品のみを対象にすることによって選ばれたのではなく、どうも作者を選んでから、平成時代に作られた作品を選び配するという構造になっているのが少し惜しまれる。宗田安正の好みと基準であるから、文句を言うほうが筋違いで、止むを得ないことなのかも知れない。ただ、そのなかでもさすがに宗田安正でなければ出てこない百人のうちの何人かがいるのは得がたい救いである。その中で愚生のに目に入った幾人かの俳人と作品を挙げて、宗田安正の労に報いたい。

     艦といふ大きな棺(ひつぎ)沖縄忌       文挟夫佐恵 
     全身を液体として泳ぎけり             和田悟朗
     死者あまた卯波より現れ上陸す         眞鍋呉夫
     在りて遥かな〈古代緑地〉へ白鳥は発つ    坂戸淳夫
     閃光を見たる閃塔蝉時雨             大林信爾
     万物は去りゆけどまた青物屋          安井浩司
     明日は野に遊ぶ母から鼠落つ          志賀 康
     肉屋に肉入れるところや夏の月         谷口慎也
     前衛に甘草の目のひとならび           攝津幸彦
     たくさんの舌が馬食う村祭             西川徹郎
     ずずずずと鯨の浮力で目がさめる        江里昭彦
     尾の見えてすめらみことの更衣          高橋修宏
     八月の橋を描く子に水渡す             水野真由美
     万両は幻影に色をつけた実か           四ツ谷龍
     断崖に開けつぱなしの冷蔵庫           皆吉 司
     
               コブシ↓

     
          

2014年3月24日月曜日

榎本好宏『懐かしき子供の遊び歳時記』・・・


              『懐かしき子供の遊び歳時記』(飯塚書店刊)↑

物のない戦中・戦後に育ったという著者・榎本好宏によるこども時代の遊びのあれこれを歳時記と名付けて春夏秋冬雑の部に分類して一本にまとめたもの。
ある意味で民俗的な伝承遊びのおもむきさえ感じられた。その意味では、懐かしさだけではなく、たぶん現在の幼稚園、小学生の子どもたちにも受け継がれている多くの遊びがあるはずである。
それにしても、本書を読んでおもうのは、かの時代背景もさることながら、著者の遊んだ記憶と遊びの方法をよくも克明に覚えているものだと、しきりに感心する。
愚生などはせいぜいチャンバラ、しゃぼん玉、メンコ、本著には出てこなかったが相撲もあったよな~、くらいのものである。
面子を例にとって少し・・・
本著には「泥だらけになって面子(めんこ」のタイトルで出て来る。
次のように記してある。

   私の疎開していた群馬県では、どういう字を書くのか知らないが、面子のことを「めん  ち」と呼んでいた。ちなみに手許にある『日本方言辞典』(小学館)で面子でひいてみると、 その呼び名はあるわあるわ、全国の六十六の面子の方言が採録されている。そして、私が 群馬で使った「めんち」は、遠く離れた徳島県海部郡で使われていることも分かった。その 方言の多さは、いかに全国で子供に好かれた遊びであるかの証左であることを示してい  る。

こう書かれたあとに三通りの遊びがあったと、さらにその遊び方の詳細が書き込まれるという具合である。
面子の表には絵が描かれており、彼の育った戦中戦後には田河水泡の「のらくろ」の絵が記憶に残っている、という。


        府中町古書店「夢の絵本堂」で一枚10円で売っていた面子↑

その面子だが、愚生の育った山口県山口市付近では「ぱっちん」と言っていた。「めんこ」という名称は上京してから初めて知った。が、いまだになかなか口出しては言えない。愚生の育った地方では、一字ほどの違いで女性器をいうときに隠語のように言われていたので、口に出すと、いまだに恥かしい感じがともなうからである。その「ぱっちん」には勝つためにいろいろ工夫をした記憶もあるが、戦利品となった多くのぱっちんは宝物のように缶に入れて、だれにも分からないようにどこかに埋めたようにおもう。そして、ついにこれまで、一度も掘り出されることなく、行方不明になったままである。

                コブシ↓

2014年3月22日土曜日

店のない本屋・・・


昔、本屋(書店)に勤めていたからか、出版業界、それも末端に位置した書店業界に関する記事にはつい目がいってしまう。
というわけで、最近東京新聞夕刊に連載されている石橋毅史「店のない本屋」は楽しみに読んでいる記事の一つである。
石橋毅史(いしばし・たけふみ)は最初の紹介に1970年生まれ、現在はフリーライターだが、出版業界紙「新文化」の記者、編集長を勤めていたとあったので、まんざら縁がないわけでもなかった。
愚生が本屋に勤めていたころから、「新文化」紙は、業界紙でありながら、ちょっと辛口のメディアで、業界全体はもちろんだったが、全国のちょっと変わった書店やちょっと変わった書店員を紹介する記事が多かった。愚生も一度、半年?くらい連載のコラムを書かされたこともあった。
愚生の勤めていた書店は、1967年、書店業界では初めての他産業資本から書店業界に参入したことをもって、日本書店組合による出店反対の抗議の対象だった。その後、東京八重洲口の鹿島建設による八重洲ブックセンター、西武資本によるリブロ、阪急資本のブックファーストなどの参入による他産業資本からの書店業界参入もめずらしいことではなくなった(当時の事情は愚生の『本屋戦国記』〈北宋社・1984年〉にまとめた)。
その後の書店間戦争は、多くの街場の本屋さんを潰していった。もっともこうした動向は街に大きなスーパーができると、豆腐屋も魚屋も八百屋もつぶれていったのと同じ社会的な構造変化でしかないのかも知れない。
書店業界は、ある意味で委託制度と再販売価格維持制度で守られていた街場の本屋も時代と資本の波に抗しきれず、コンピュータの販売データのみが支配する世の中となってしまった。
ホントウの書店ではない本屋(特殊なことかも知れないが、その本を必要としている人自身に届けるという意味で)をめざしている様々な人たちの物語を描いている連載が石橋毅史「店のない本屋」の主人公たちである。
例えば、阪神淡路大震災から復興しながら、昨年で閉店した神戸・海文堂書店(現・海文堂ギャラリー)のオーナーが今年1月17日、東日本大震災の東北と神戸をつなぐ13日間のイベントを実現した話など、この連載が始まってから一ヶ月ほどしか経っていないが、愚生は、次の記事を楽しみに、日々夕刊を待っている気分なのである。
                 農工大キャンパスの桜↓

2014年3月21日金曜日

テーマは戦中、終戦直後の俳句・・・


樽見博著『戦争俳句と俳人たち』は労作である。当時の原資料がふんだんである。
「あとがき」によると「日本古書通信」編集の仕事をされているらしいから、確かに資料収集という面では、お手の物というところなのかも知れない。しかし、もし古本を家業とされていたのであれば、それゆえ儲けのチャンスを逸することもあったはずでは・・。
それでも、当時の資料を手にするには、あらゆる手だてと時間、資金を必要としたに違いない。
まずは、それらのたゆまぬ努力に敬意を表したい。
いわば、俳句史にとって戦中は空白期間である。戦火によって灰燼に帰した資料も多いし、まして、戦時色にひたされたすべてを記憶の底に閉じ込めておきたいか、もしくは放擲してしまいたい、語りたくはないもろもろもあったに相違ないからだ。
著書の第一部は山口誓子、日野草城、中村草田男、加藤楸邨という昭和の初期、新興俳句運動を経て、現代俳句の曙を生きた俳人個人にスポットを絞っての戦争俳句の蒐集に費やし、第二部(この章が、とりわけ貴重だと思われるが)、「戦前・戦中の入門書を読む」のテーマのもとに、内藤鳴雪、高浜虚子から始まって、荻原井泉水、水原秋桜子、大須賀乙字、飯田蛇笏、富安風生、星野立子、長谷川素逝など30名の俳句入門書のことごとくを例示したことではなかろうか。つまり、戦時にどのような俳句指導が俳人によって行われたが明らかにされているのである。それら入門書の発行年月日をたどり、目次などをたどるだけでも、その内容がどのように変化していったかが推測される。
俳句表現にとって変わらないものと変えざるを得なかったもの、さらに、率先して変えていったものなど、今になれば、ある種の痛ましささえ思わないわけにはいかないが、それは、現在只今にも通じている現実への回路である。
すでにして、好ましくない自主規制的な言語狩りの鬱勃たる現状況がないわけでもない。その意味では五・七・五のただ指示するのみの短い器は、かつても今も、十分に私たちの存在のありようのほうに規定されて読まれる都合のいい詩器の一面を有しているものなのかも知れない。
愚生は本著を手にしたとき、とっさに樋口覚の『昭和詩の発生「三種の詩器」を充たすもの』(思潮社)を思い浮かべた。これは昭和詩の発生の根源を、良し悪しではなく戦時に満州で出された「亞」という詩誌を通して語った著で、戦中詩史の空白を埋める作業だったように思っていたからだ。
樋口覚の著書も、樽見博の著書も、一人でも多くの人に、是非、読んでもらいたい一書である。
最後に、本著の第二部「戦前・戦中の入門書を読む」から桜木俊晃『伝統俳句のこころ』(昭和17年10月、全国書房刊)からの孫引きだが、引用して挙げておこう。

    「有難いことには大陸の征野に吟じ、大洋の艨艟の上に、あるは傷痍のベッドの上に   詠ぜられつつも、その作品を一貫する精神はやはり大和心であり、日本精神であるこ    ちである。俳句は所詮日本的なるもののうち最も高雅な日本的なものでしかない」

   「稿を終るに当たつて、真珠湾九軍神を讃仰する諸先生の俳句を記して筆を擱くことに     する」

        散つて万朶の花とかがよう九軍神      月斗
    極月八日潮の明暗醜を攘つ         蛇笏
    若桜初ざくら散るはなやかに         蕪子
    母子草その子の母もうち笑みて       虚子
    その母を讃へまつれば春の露        風生
    浪の花と散りけむもおもふだに寒き    別天楼
    花咲くや九軍神さて幾億神         東洋城
    花散るよおほきひかりのいくさ神       徂春
    止まざるの心は神ぞ梅白し          冬葉
    七花八裂九弁の牡丹かや寒月に      井泉水


                           ウメ↓

2014年3月18日火曜日

「ラッキーにも癌」と大本義幸の春・・・


「豈」次号56号(7月下旬刊予定)の特集の一つに「攝津幸彦以後の『豈』」のなかで、「天国の攝津さんへの手紙」というのがある。
創刊同人の一人・大本義幸が早々と締め切り前に原稿を送って寄こした。その同封された便りのなかに、今度は肺がんで6度目の入院手術をすることになったとあった。
なんということだ,言葉にもならない。
舌癌、咽頭癌、食道がん2回、胃癌に肺がんである。
十年前の咽頭癌手術で声を失った。肺がんは進展が早いらしく4月早々に手術するらしいから、早目の送稿となったのだろう(この方の稿は「豈」発行後に読んで下さい)。
検査入院の結果が「ラッキーにも癌でした」と便りにあった。
それによると1年前から胸のCTを撮り続けていて、二月末で7ミリを確認。一年で2ミリ大きくなったという。
咽頭癌手術で奇跡的に復活してのち、大本義幸は70歳までは生きる自信があると言っていが、彼の一年先輩で同じ川之石高校の文芸部同志だった坪内稔典が今年、古希のお祝い会をするようなので、70歳までの望みは達せられると思う。
ここで、大本義幸は75歳までは生きてみる、と下方修正したとしたためてあった。
手術の成功を祈り続けたい。
盟友・攝津幸彦は49歳で逝ったが、幸彦の母で角川賞受賞の俳人の摂津よしこは健在、94歳。後一人の友・澤好摩は句集『光源』で無位無冠を放擲して、芸術選奨文部科学大臣賞文学部門受賞と目出度い。
大本義幸には、沖山隆久が恩義と友情で咽頭癌手術後に出版した唯一の全句集『硝子器に春の影みち』(沖積舎、2008年刊)がある(10代から45年間の句、377句を収録)がある。
その中から挙げる。

     月へ向かう姿勢で射たれた鴨落ちる       義幸
     密漁船待つ母子 海光瞳を射る朝
     硝子器に風は充ちてよこの国に死なむ
     河とその名きれいに曲がる朝の邦
     父よ、匹(ひき)という言葉いつしかわが身にも
     TOKYOは秋攝津幸彦死す
     生きている冬のはじめがいつか春
     朝顔にありがとうを云う朝であった。
     病葉の落ちるはやさに目がゆきぬ
     初夢や象がでてゆく針の穴
     
前号の「豈」55号からも挙げておこう。

     片影(へんえい)を昼とおもいぬ幸彦も      義幸
       
         *片影を〈かたかげ〉と読めば夏の季語。〈へんえい〉と読めば故人のおもかげであ           ると辞書にはある



      
    
      

2014年3月15日土曜日

高橋龍「黒き猫飛雪流し目にしたり」(『飛雪』)・・


高橋龍句集『飛雪』(高橋人形舎、不及齋叢書・伍、2014・2・28)は、彼が17歳から19歳にかけての俳句を収めた10代句集(復刻)句集である。
制作時期は昭和21年12月から昭和24年2月、復刻前の部数約50部。
高橋龍と面識のあった中村草田男、大野林火、古家榧夫、藤田初巳、また、すでに彼がその名を知っていた中島斌雄、志摩芳次郎、高橋鏡太郎、本島高弓、古川克己、髙柳重信などに贈呈したという。
本句集「あとがき」に高橋龍は当時の思い出を次のように記している。

    髙柳さんからは感想を書いた葉書が届いた。全句ことごとく山口誓子のエピゴーネン   だ。だが、「山火事の鐘を打たるゝわが頭上」だけはいいと書かれていた。わたしは反論を書いて出したような気もするがよく覚えていない。

収録された句を挙げておくと「凍る夜のコップかくまで薄きかな「暖房に碧きソファの花ひらく」「黒き猫飛雪流し目にしたり」など。

また、高橋龍は「日本俳句新聞」を古書店の目録で見つけ、29号分(3号欠け)を入手、高柳恵幻子の作品で、『髙柳重信全句集』に漏れている作品を見つけたばかりか、あろうことか、高橋龍自身の記憶から消え去っていた作品10句が自身の署名と合わせて掲載されているのを見つけた。まさに10代最後の句であるこの10句を今回の『飛雪』に増補している。
「罪ゆえに」(日本俳句新聞・第24号、昭和24年・7)と題された10句を以下に挙げておこう。

   夕雲雀雑木は梢のみ燃えて       龍
   春三日月橋のリベット頬に冷たし
   復活祭すつくと下枝なき巨木
   真夜中のたゞ照る鐵路初蛙
   菜園の隅初花の樹のもとに
   自動車の淡き燈坂の夕櫻
   花冷えのペンシル握る白き指  
   街角の突風手のばらに
   蝶ねむりたれば麻薬の青まさる
   罪ゆえに蟲打たれたる蝶よ

高橋龍は今年85歳になる。これまでも第一句集『草上船和讃』から第二句集『翡翠言葉』、また『後南朝』『伯爵領贋志』や個人誌「龍年纂」など、実に多彩な表現法を駆使してきたが、3年ほど前に出された句集『異論』(天主公教会出版部、不及齋叢書壱・平成22年・限定200)の「あとがき」には韜晦的に以下のようにも述べている。

   何しろ駄目な句ばかりなのだから、この句集について言うことは何もない。世の中の多く  の人たちのように、俳句で自己の外なる風景や景色、物事や出来事を書いたり、内なる  理念や心象を書いたり、あるいは俳句で俳句を書いたりもしなかった。ただ、時たまこと  ばの塊りがぽたりと落ちてくるので、それに箟を使っただけである。それが俳句であれば  よいとはおもって来たが、いまだに遂に一度もそのようなことはなかったし、これからも実  現しないであろうが、何しろ他にやることもないのだから、これからも書いてゆく。

 『異論』からいくつかの句・・

    二十六(とどろき)といふ村ありき青あらし       龍
    死にたしと時には思へ年の豆
    はじまりに行き着く道の燕麦(からすむぎ)
    夏山も丹下左膳も縦に傷
    天地を開闢(おしひらく)なり貝柱
    突撃一番春二番昭和の日

       




ともあれ、愚生にとって、高橋龍との第一の思い出といえば、髙柳重信の「俳句研究」編集長時代の編集後記を集めた『俳句の海で』(ワイズ出版1995年9月)の出版である。
構想の初めは、確か7回忌だったと思うが、鈴木六林男が、「俳句研究」の編集後記だけを集めても立派に批評集ができると発言したことによる。
愚生はそれを実現するために、もっていた「俳句研究」の編集後記をコピーし、若干不足していたものを俳句文学館でコピーをしなくてはと考えていたが、68年4月から83年8月、およそ15年間分を目の前にしていささか途方にくれていた。
重信夫人・中村苑子の了解も、当時の「俳句研究」・富士見書房の了解も得られていたが、その作業は、サラリーマン生活をしながら遂行するには、いささか骨が折れることだった。そのときちょうどと言っては申し訳ないが、高橋龍は重信没後十年を期して毎日、一日三冊分を筆写していた。それを聞きつけた愚生は、その筆写本を原稿にして本にしていただけないかと厚かましくもお願いした。高橋龍は二つ返事で受けてくれた。幸運だった。
さらにその本の「あとがき」として「遂にの人生」をも書いてくれた。
たぶん、高橋龍がいなければ、この企画は実現していなかったか、もし実現していたとしても、さらに多くの歳月を必要としていたはずである。

数年前だったか、佐佐木幸綱が某新聞のアンケートに答えて、座右の書三冊の中に『俳句の海で』を入れてくれていた。実は愚生の第二句集『風の銀漢』(書肆山田・1985年)をいち早く「俳句とエッセイ」(牧羊社)に書評してくれたのが佐佐木幸綱だった。不思議な縁と巡り合わせを思った。
もちろん、本の帯文は鈴木六林男がこれも快諾してくれた。
それを以下に筆写しよう。

   高柳重信は「俳句研究」において、現代俳句の地平を切り開くために編集の基本姿勢を  問い続けた。広い視野。冴えた現状分析。比類ない未来への洞察力。これらの結晶とし  て高柳の「編集後記」は昭和俳句史を形成する。
  「編集後記」は、職業としての編集者が想いを〈言葉〉に賭けた歴史である。その重みを   本書によって知ることができる。 ―鈴木六林男

                  馬酔木↓

2014年3月8日土曜日

ハイレッド・センター:直接行動の軌跡展・・・


先日、渋谷に出たついでに渋谷区立松濤美術館で開催されている「ハイレッド・センター:直接行動の軌跡展」(3月15日まで、60歳以上、無料)を観た。
ハイレッド・センターとは、高松次郎・赤瀬川原平・中西夏之の頭文字を英訳して並べた名称。「匿名の行動」のために1963年に結成されたグループだ。愚生にとっては、多くが追体験の代物だが、赤瀬川原平の千円札事件が裁判沙汰になったのは覚えている。
その渦中に、愚生が編集人を務めるようになってから、「豈」の表紙絵(デカルコマニー)をずっとお願いしてきた風倉匠がいた。
今回の展示のなかの映像なかで、若き日の風倉匠がふんだんに登場する。
その風倉匠は2007年11月13日死去。死の翌日の新聞で訃報を知った。
朝日新聞の訃報記事には「13日、肺がんで死去、71歳。(かざくら・しょう=前衛芸術家)。大分県出身。60年代に注目された前衛芸術集団『ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ』に参加。風船やピアノを使った過激なパフォーマンスで知られた」とあった。
風倉匠と親しくしてもらったのは彼の親友の古沢栲(たく)こと首くくり栲象に紹介されたからだ。
坪内稔典のやっていた「現代俳句」の第何集かで「俳句の前線」特集で愚生が紹介されたときに、愚生についての小文を書いてもらったのも懐かしい。彼の没後も奥様の好意でずっと風倉匠の絵を「豈」の表紙に使わせていただいている。
彼が60歳を過ぎた頃、銀座で個展が開かれた折りだったと思うが、地元の大分美術館が常設に風倉匠を加えたり、この歳になって初めて絵で飯が食えるようになるとは思わなかったよ、とにこやかに話されたのを覚えている。
風倉匠には多くの伝説があるようだが、愚生の覚えているのは、敗戦直後、子どもだった風倉匠は不発弾の信管をたたき、その爆発によって右人差し指を無くしてしまうが、その指の付け根の傷跡から、爆発時に入り込んだであろう種子よって、小さな草が生えて、やがて小さな花が咲いたというのだ。


その「風倉匠、誰だ、彼は」という追悼文を集めた『時計の振り子、風倉匠』(書肆山田刊)ではナムジュン・パイクが「世界でもっとも無名な有名人」と書いていた。本書に使われている風倉匠のすべて写真は荒木経惟のものである。
いつも、にこやかだった風倉匠は実年齢よりはるかに若く見えていたが、愚生よりちょうど一回り年長だった。もし、存命ならば喜寿だ。
俳句もけっこう作っていて、地元の由布院で風倉匠回顧展が開催されたときには絵と俳句のノートが陳列されたと聞いた。許されるなら、一度「豈」で一挙に50句くらいは掲載したいものだ。



2014年3月6日木曜日

木村聰雄「なるほどバナナ 形からしてバナナ」・・・ 


昨日は一日雨、仕事も無く、自分の時間ができたので、ほぼ二十年来の付き合いになる渋谷の山田光胤記念漢方内科渋谷診療所に持病のせんじ薬をもらいに行った。
最初は顆粒の漢方剤だったが、ここ二年くらいは、色々生薬を配合した煎じ薬になっている。
薬を調合するのもなかなか手間がかかるらしく、煎じ薬の場合は、一時間超を待つことになる。
図書館で明日が返却期限(延長を申し出たが、予約で一杯と断られたので)の伊集院静『ノボさん』を、待ち時間にざっと目を通した(さらに、喫茶店でこんにゃくケーキ?と・・)。
帰路に道玄坂下のブックファースト(かつて旭屋書店があった)に立ち寄ったら、店前に世界初のバナナの自動販売機というのがあった。
そこで、木村聰雄の「なるほどバナナ 形からしてバナナ」という彼の若き日の句を思い出したというわけだ。
彼とは、現代俳句協会青年部委員をやっていたとき以来の付き合いで、最近は国際俳句交流協会や世界俳句協会で活躍しているらしい。もちろん、現代俳句協会国際部部長という役職にもついている。
愚生は、1997年現代俳句協会創立50周年記念青年部論作集『21世紀俳句ガイダンス』(現代俳句協会刊)の制作に関わったが、その書に木村聰雄は青年らしく、次のように記していた。

    未来の世界国家において日本が世界に対してあらゆる扉を開け放った時も、日本は   (ひとつの単位〔ユニット〕として)日本であり続ける。その時日本ユニットの精神を映し出  すものは自動車やTVゲームではなくまたおそらく散文でもない。そこでは俳句形式が特   に重要な役割を果たすことだろう。最短であることはすべてが加速していく未来の表現形  態として非常に有効である。定型は人間の精神を盛り込むにつれて変幻するかのごと   き魔法の箱となる。



ところで、ブックファーストに立ち寄ったのは、俳句関係の雑誌を見るためだったが、「俳句」一冊を目撃したのみで、他の総合誌はなく、文芸総合誌もお粗末な品揃えだった。もっとも、最近の文芸雑誌類はよほどの大型書店でも回転率・売り上げ至上主義になってしまった書店の棚からはどんどん排除されている。売れ残っていた「アイホリッシュ國文学」第五号を少し立ち読み。

2014年3月5日水曜日

忘れられた詩人・・・帷子耀


  朝から雨、お天気頼みの仕事ゆえ、今日は休み・・
 かつて「雨の日にはミステリーでも読んで・・」というような本があったような気がするが、図書館で借りた内堀弘『古本の時間』をパラと捲っていたら、「四十一年前の投稿欄ー詩人・帷子耀」を見つけた。
 それは、古書の入札会に出た帷子耀の自筆の詩原稿をネットオークションで買うというものだが、自筆原稿二千円のスタートから、オークション終了間際までずっと二千円だったものが、終了直前に、もう一人の入札者が現れ、争って、五万円までは意地でも追いかけようと思っているうちに四万八千円で落札したいう話だ。
 帷子耀(かたびら・あき)は、内堀弘がいうように、確かに忘れられた詩人だ。
 しかし、団塊世代の愚生たちにとっては、1960年代末から70年「現代詩手帖」の投稿欄に毎号掲載され、実にユニークな詩を投稿し、掲載され、彗星のように現われた天才詩人のように思われていた。喝采が送られていた。
 内堀弘によると、選考した詩人たちの評は、選んでいるにもかかわらず、選評はほとんど否定的であったという。たぶん、あまりに自在に、時流の詩ともかけ離れて書かれていたからに違いない。
 あるときから、ぷっつりと消息を絶ち、実業に転じていたなどというのは、まるでランボーのようではないか。
 名前は、愚生らは「カタビラ・アキラ」と呼んでいたが、本著で初めて知ったのだが「カタビラ・アキ」らしい。
 詩文については、残念ながら、まったく覚えていない。
 帷子耀は第10回現代詩手帖賞を70年に受賞したとき、「15歳。甲府第一高校」だったと記されている。少年詩人だったのだ。当時、天沢退二郎や鈴木志郎康が注目を集めていた頃だったと思う。
 愚生はそうしたきらびやかだった時代の詩文の陰で、今に到る俳句をひそかに書き継ごうとしていた。
 ノンセクトだった若者の多くは(とりわけ京都地方は、政治組織をもたない者にとって)、壮大なゼロといわれた70年安保闘争が、敗北を確信しながらも行くところまで行かざるを得ないと感じていた季節・・・だった。そして、権力の弾圧の潮が引いたあとには某政党の支配が学園を強権的に制圧し、それ以外は、発言の自由もなく排除された。 

                  モモ↓

2014年3月2日日曜日

郁乎「三月になればわかると微笑めり」・・・


               郁乎句集『初昔』見返し署名↑

土方殺ろすにゃ羽物はいらぬ、雨の三日も降ればよい・・・という訳で、昨日は雨で仕事にあぶれてテレビを見ていたら、朴槿恵大統領が、韓国の日本統治下における「3,1独立運動」に触れていた。
3.1はそのほかにもビキニ環礁での第五福竜丸被曝事件が起きている。
俳人に関わる忌日と言えば久米正雄こと三汀忌がある。「微苦笑忌」という。「微苦笑」は三汀の造語らしい(どこでだかは失念したが、郡山市久米正雄紀念館・名誉館長の久米和子・・正雄の子息の奥様・・とお会いしたことがある)。
「微苦笑」といえば、愚生の世代では、加藤郁乎句集『微苦笑』である。
渡辺一考のコーベブックスから見事な造本で上梓された郁乎のごく初期の句、36句をもって構成されている(昨年末の断捨離で原本は手元に無い)。巻頭の句は、
   
     かげろふを二階に運び女とす      郁乎

また、
     腰紐の全長春の日にさらす
     サイダーをサイダー瓶に入れ難し
     朝顔におどろく朝の女かな
     ごろ寝する女盛りと秋の山
     ひと買はれゆく早春のさるすべり
     かまつかや父より継ぎし机上の手 
     枯木見ゆ作品こはしつゝゆける


あとがきに郁乎は次のように記している。

   こゝに収めた習作次代から第一句集にかけての頃の私は、非具象俳句と称する句境の 展開を考へてゐる。画家に春画、小説家に艶つぽい戯作があるのと同様、若い俳人にもエ ロティックな具象世界を捨象しようとしてゐた時期があつたわけである。









2014年3月1日土曜日

知常「野菊咲いて欝々と太鼓鳴りをれり」・・・


数日前、このブログで《そして、》に関わって、橋本七尾子のことに触れたので、ついでと言っては差し障りがあるが、その父・柳田知常のことに関わる思い出話しを少し・・
愚生が二十一歳の頃?のことである。
初めて貰った色紙が柳田知常だった。
「俳句評論」の句会のあとで、たまたま俳句大会へ、投句するように勧められ、その場で、句を投句した。
愚生の句は忘れてしまったが、柳田知常の大会選者特選としていただいた色紙である。句は「野菊咲いて欝々と太鼓鳴りをれり」である。
そのとき、はずかしながら、初めて柳田知常(俳人諸氏のあいだではチジョウと呼ばれていた。本名・ともつね)の名を知った。
どうやら、知常は日本文学研究者で、名古屋の某大学の学長も勤められたことがあるらしい。
俳人としては、「俳句評論」の同人で、のちに俳句同人誌「橋」の発行人を務められている。
その実娘が橋本七尾子だ。
縁とは不思議なもので、橋本七尾子と知り合いになる以前に、彼女の実弟・柳田・・・と、知り合っていた。
弟は当時名古屋の某書店労働組合を結成し、その委員長を務め、愚生が書店労働者の全国組織化と書店労働者の組合闘争記をまとめた『本屋戦国記』(北宋社刊)を出した直後に、講演交流会を開いてくれた一人だった。すっかり意気投合した(なかなかイイ男だった)。
余談だが、橋本七尾子の俳号を付けたのは仁平勝である。七尾子の本名は直子で、小説では横浜文学賞受賞であるらしいことは聞いていた。
同姓同名の俳人がいたので自分の俳号を変えたと言っていた。
愚生が武蔵小金井に住んでい頃、駅前のパチンコ店にほぼ毎日通ったことがあって、パチンコ店で橋本七尾子にばったり会ったこともある。彼女はマージャンも相当な腕前で、仙台に引っ越して「小熊座」の人たちとも、きっとマージャンで仲良くなったのではないかと思っているくらいだ(もちろん、句会でも・・・)。
弟は愚生と同年齢だったはずだから、気風のいい姉御である。現在「円錐」(澤好摩発行人)同人としてもご活躍。
「俳句評論」に関わって思い出したことがあるのでその話題も一つ。
当時(1978年)、「未定」創刊に馳せ参じた男がいる。名を比田義敬といった。後、義之と変えた。ある時、一冊数万円もする本を、愚生の勤めていた書店の社内売り(定価の2割引)で買って上げた際のお礼だといってくれたのが、「俳句評論」忘年句会でのブービー賞にその場で各人に自画像を書いてもらったという代物なのである。
五つの色紙に記された五名の名は、誰あろう高屋窓秋・三谷昭・高柳重信・三橋敏雄・大岡頌司である。それぞれ、自分の貌をよく捕らえて描いている。





                 

記された期日は1976年12月18日「俳句評論」の集い、ブービー賞と比田の字で記されてあった。
いただいたのは1997年1月24日と愚生が記しているから、その時でさえ20年を経ていたことになる。
「未定」創刊号(1978年12月)に掲載された比田義敬の句を記しておこう。
    
     消しゴムの端から草植えて白夜       義敬
     恍惚と群青に向く海の水