2014年5月24日土曜日

高橋龍「郵便番号簿季題地名一覧」・・・


                 

それにしても、高橋龍という人は色々なことを考えつく人だ。
約60ページほどの冊子の表紙には「龍年纂愛読者御礼配り 郵便番号簿季題地名一覧 九有似山洞・編」とのみある。高橋龍は毎年「龍年纂」という冊子を発行していたが、十冊をだしたところで、老化も甚だしいと言い、「龍年纂」の発行を止め、これまでの読者御礼にと配布された冊子が「郵便番号簿季題地名一覧」である(平成21年12月1日発行)。遊び心もここまでくると並大抵の努力ではない。その「口上」には、

  季題地名というのは、わたしが勝手に付けた名前で、公称ではない。この季に重なる地名に新たなる名前を付けるにあたり、それを季語地名としなかったについては、わたしの季語と季題についての認識の違いがあるからである。季語は季物や季節現象を主として季感としてとらえたことばである。それに対して季題は、その季感を超えて、季の発生する風土の歴史性や名前(名詞)ということばの母の有する時間構造をも示す。季題観念は古く、すでに閉ざされた言語空間のように思われているが、季題はいまもなお未来に開かれている。わたしは例句を選ぶにあたり、高屋窓秋、富沢赤黄男、渡辺白泉、西東三鬼など新興俳句を推進した人たち、その系譜につらなる、高柳重信、三橋敏雄、鈴木六林男、佐藤鬼房などの作品も選んだ。この人たちの作品に季を現わす言葉があるのでそれを有季俳句に入れてしまうと、何か違和をおぼえるが、同じ言葉を季題と見るならばそのようなさしさわりは生じない。むしろ季題はひろがりをみせ、新しみを加えている。この季題の更新性こそが季題の伝統であり、その伝統を革新俳人といわれる人たちが受け継いでいるのだ。季題は古く季語は新しいのではなく、季語はせまく、季題はひろいのである。季語と季題。どちらも季のことばであるが、季語は季に重き置き、季題はことばに重きを置くのである。

長い引用になってしまったが、ほんとうは、この「口上」をまるまる転載したいくらいなのである。
ともあれ、北は北海道から南は九州まで(沖縄は風土が違うので除外したという)、その季題地名を数か所、さらに引用してその一部分を以下に紹介しておくことにする。

     春之部
  新年
 

〒九七〇ー八〇五三 福島県いわき市平正月
正月
   
   正月やはしらわさびに酒の味       小沢碧童
   正月の河を見る手を帯へさし       高梨花人

  
〒八一二ー〇八七二 福岡県福岡市博多区
  

 バスを待ち大路の春をうたがはず    石田波郷

    夏之部
〒〇二七ー〇〇七二 岩手県宮古市五月町・他
五月(さつき・ごがつ)

  あまたまに三日月拝む五月かな       去来
  手をひたす五月の入江男泣く       三橋孝子

〒九八二ー〇八一一 群馬県伊勢崎市若葉町・他
若葉
  若葉道赤き絵具を拾ふかな       高柳重信

    秋之部
〒六八九ー三三三四 鳥取県西伯郡大山町稲光・他 
稲光
   いなびかり北よりすれば北を見る  橋本多佳子

〒三〇九ー一四五八 茨城県桜川市稲・他

   俺のあとからしばるもの来て稲縛る  阿部鬼九男

   冬之部
〒六七〇ー〇九二一 兵庫県姫路市綿
綿
   海坊主綿屋の奥に立つてゐた    渡辺白泉

〒六一二ー〇八七五 京都府京都市伏見区深草枯木
枯木
   枯木宿まをとこ結びをそはりぬ    加藤郁乎

   追補
〒九二九ー一一七五 石川県かほく市秋浜
秋の浜
    一心に敬礼をして秋の浜      高橋 龍


                 ザクロの花↑

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