講演する太田土男↑
5月3日、憲法記念日には、恒例となった「俳人『九条の会』新緑のつどい」。
今回は太田土男の講演「「手と足をもいだ丸太としてかへしー川柳作家 鶴彬のこと」を聞きに出かけた。
鶴彬は、1917(明治42)年石川県生まれ、本名一二(かつじ)。15歳で川柳を始め、19歳で高松プロレタリア川柳研究会で拘束され、21歳(昭和5年)、金沢第七連隊に入隊し、翌年第七連隊赤化事件(ようするに軍隊で反戦ビラを配った)で監獄に収監された。刑期は一年七か月。
この年、満州事変が起こっている。
28歳(昭和12年)の時、詩人の秋山清の紹介で東京深川木材通信社に入社するも、12月3日出勤と同時に特高警察に検挙され、中野区野方署に留置された。その留置場で赤痢にかかり、翌年の9月に逝去、享年29の若さだった。
掲出句の丸太は死体のことである(戦死した死体)。
屍のゐないニュース映画で勇ましい 彬
万歳とあげて行つた手を大陸において来た
そのほかの句に(昭和10年)、
これからも不平言ふなと表彰状
働けばうづいてならぬ●●●●のあと
●●●●は検閲による伏字で該当するのは拷問(ごうもん)と推考すると鶴彬全集編者・一叩人は記している。
タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやらう
釈放を解雇通知が待つてゐた
その鶴彬の墓は、盛岡にいた兄の孝雄が引き取り、彬の一周忌に間に合わせて、(当時、非国民であるゆえに)、盛岡光照寺にひそかに小さく建立した、と、太田土男氏は述べ、その墓を訪ね探し当てたことを話しておられた。
ミズキ?↑
必ずや、鶴彬の無念を晴らそう。
返信削除必ずや、鶴彬の無念を晴らそう。
返信削除