2014年6月16日月曜日
仁平勝「いまに手放す風船を持ち歩く」・・・
現代俳句文庫75『仁平勝句集』(ふらんす堂)が上梓された。帯の句は「追憶はおとなのあそび小鳥来る」、なるほどそうに違いない。幼児や少年にはまだ追憶するべき何物をも所有していないからだ。少なくとも壮年(もっとも青年には憧れてあまりある追憶が想像力の世界として求めらたかも知れないが)以後がふさわしい。下五「小鳥来る」はどうでもよいような措辞だが、これはこれで、うまく置かれていて、光景を設定、創造するための言葉である(それが季語だというのならそうでしょうというほかはないが・・)。人はどのような追憶のうちに生を肯うことができるのだろうか。
誰かが文学とは古里(故郷)のことだ、と言った。思い出すべき幸福な古里(故郷)を持つことがかなわなかった人にも等しく古里(故郷)はある、と思いたい。
それでも「小鳥来る」は「追憶はおとなのあそび」のフレーズと関係すると、淋しい光景であることに変わりはないだろう。仁平勝は、ある意味で、初期から一貫して欠落を詠い続けた。それを空白という人もいるかも知れない。しかし、この空白たる欠落はついに埋められることはない。それは存在のさびしみであり、ある種のニヒリズムを宿している。
解説は池田澄子に宇多喜代子、いい姉御たちに囲まれたものだ。
ここでは、最近の『黄金の街』以後からいくつか挙げておきたい。
献血の旗を倒して春一番 勝
いまに手放す風船を持ち歩く
はぐれたる蟻しばらくはわが膝に
すれ違ふどちらも胸に愛の羽根
湯船とは沈む船なり神の留守
ゆく年の謝れば済むことばかり
日月火水木金土日脚伸ぶ
「あとがき」にいう「俳句というのは、五七五の定型に組み込まれた言葉が、たんに意思伝達の手段とはべつのもの(つまり詩)に変容する。それだけが本質的なことで、あとは流派ごとの趣向の問題である」と、恰好いい。この断定には異論なく思えるが、「あとは流派ごとの趣向の問題」といえば、異論が生じないわけではない。ときに仁平勝は、ワザととも思える挑発的断定を置くときがある。そのときは、「たしかにそうかも知れないが、それだけでもなさそうだぜ」と、ついつぶやいてしまう。その意味では、俳句のことを考えるには、仁平勝の発言はよく写す鏡なのだ。愚生は、その鏡のお蔭で、少しはましに見えるようにと、つい、ないものねだりの方角をみてしまうことがある。
ナツツバキ↑
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