2014年10月14日火曜日
三橋敏雄「かもめ来よ天金の書をひらくたび」の淵源・・・1
三橋敏雄が「野茨」第七巻第一号」に「野茨同人評判記」と題した中で「南雲二峰氏の巻」に於いて次のように記した件りがある。
昭和十一年は過ぎた。
昭和十二年・・・・・
次の如き作品が南雲さんのものである。初句会にての
天金のこぼるゝ冬日に翔ぶかもめ
これはとてもよい。
これ以来、南雲さんの足並はそゞろになつて来た。初頭に於いて放した砲弾をして不発ならしめたくないことは、皆の希望である。この間の彼はぢつと思索し次の飛躍にうつる姿勢をとつてゐるのでなければならない。
二峰氏の」亡霊よ!(前号、渡辺保夫氏が発した筈)
あなたに私たちは万全の期待をかけてゐるのだ。あなたは彼の背後にいつも、この一年間さうだつた。もやもやとたちこめてゐる。私たちは願つてゐるのだが、こいつ仲々昇華しない。
再び言ふ。
二峰氏の亡霊よ!
起つて、天上の一角に土嚢を築け、たゞの亡霊でないためにあなたはきつとさうするであらうと信ずる。それは正しいリベラリズムにのつとり、もつともつと深刻でなければならぬ。(深刻といふおとは、けつして深刻がれといふのではない)そして今日にも燃えて飛翔せよ。そして天上に至れ。そこには徹したロマンチシズムがあるはずだ。あなたはそこに土嚢を築かねばならぬ。そして地上のわれわれに向つて発砲を開始せよ。そのときこそ我々は、諸手をあげて応戦するであらう。
三橋敏雄はそのとき「野茨」(東京堂内 発行所 野茨吟社)・発行者は渡辺保夫)の編集者であった。ガリ版刷とはいえ、この号は奥付まで92ページある。三橋敏雄は大正9年(1920年)生まれだから、数えて17歳。東京堂に入社したのは15歳の時。このあたりの事情については、遠山陽子『評伝 三橋敏雄』(沖積舎)に詳しい。「野茨」は東京堂内にできた俳句会誌で指導をしたのは開原朝吉(冬草)で、長谷川かな女の「水明」の幹部同人だった。三橋敏雄が5歳年長の渡辺保夫に誘われて初めて作った句が選に入る。
窓越しに四角な空の五月晴れ としを
その野茨吟社の機関誌が「野茨」、第五巻第二号(昭和10年11月24日発行)には三橋敏雄のエッセイ「秋心」が掲載されている。これも全文は前述した『評伝 三橋敏雄』に全文掲載されているから、参考にしていただければよい。
それにしても、三橋敏雄第一句集『まぼろしの鱶』の巻頭句・昭和十年代に
かもめ来よ天金の書をひらくたび
の句の淵源がこのようなところに隠されていたのには驚いた。「徹したロマンチシズム」・・・見事な応戦ではないか。
かりん↑
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