2014年11月12日水曜日
今泉康弘「寺山修司と『差別語』-その書き変えの問題・・・・
「円錐」第63号の今泉康弘の批評「寺山修司と『差別語』-その書き変えの問題」は、避けては通れない現在の表現者の問題を論じている。自らの立ち位置を明確にして論じる姿勢には今泉康弘の書くことへの覚悟を感じさせる内容である。「差別語」の書き変えについての今泉の見解が披歴されている。それは、具体的に入手しにくい原資料にあたりながら、すべての書き変えをあきらかにする道程でもある。例えば、寺山修司没後に出版された『寺山修司俳句全集』(新書館)でも、この全集が価値ある企画であり、仕事だとみとめつつも、著作権継承者の了解を得た上で、という断わりがないので、編集部が勝手に書き変えたということになると指摘している。『寺山修司の俳句入門)(2006年、光文社文庫)については、これには巻末に「本文中、一部考慮すべき表現がありますが、著者が故人のため、また作品が書かれた時代的背景に鑑み、概ねそのままとしました」と記されている。つまり「概ねそのまま」ということは一部を書き変えたということだ、と指摘する。もちろん角川文庫に収録された文庫本は、著作権継承者の了解を得て、「差別語」を書き変えている。これらの事実を踏まえて、今泉康弘は、
ハッキリ言ってしまうと『全集』も、『入門』も、俳句についての寺山の文章を読むためのテキストとしては信用できないものだ。
と言う。さらに、
作者が故人となっているものを、後世の人が書き変えてはならない、とぼくは思う。まず、ある語が現在は差別語であるとしても、その執筆当時には決して差別のために使われたものではない、という場合がある。それをひとしなみに「差別」であるとするのは短絡的だろう。また、仮にある文章・詩歌の中に差別的な表現があったとしても、その語はそのまま残すべきである。その表現から後世の者は、ある時代に差別語がどのように使われていたかを知ることになる。その手がかりを消すことは、歴史から差別を消し去り、「なかったこと」にしてしまうのである。なお、寺山は挑発的に「差別語」を使うことがあるが、それは決して侮蔑や悪意のためではなくて、偽善に満ちた社会秩序を批判するためである。これが最も重要なのだが、もし作者以外の人間が作品の言葉を書き変えてもよいということになったら、作者という存在意義は消滅する。
もちろん、今泉康弘は次のように言うことを忘れていない。
念のために言っておくと、ぼくは現在の書き手に対して、「差別語」を自由にどんどん使え、と言いたいわけでは全くない。何よりも、差別という行為は絶対許されてはならないことである。どんな言葉であっても、それを使うことで傷つく人がいないか、どうか、慎重に検討しなくてはならない。
いつもすばらしい刺激をいただいています。
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