2014年11月22日土曜日
波郷「霜柱俳句は切字響きけり」・・・
昨日21日は、波郷忌であった。それに合わせるように依田善朗『ゆっくりと波郷を読む』(文學の森)が贈られてきた。そのタイトルをいいことにゆっくり読みたいと思っている。思い起せば、愚生が文學の森「俳句界」に居た頃、依田善朗は第13回「俳句界」評論賞(平成23年)を「横光は波郷に何を語ったか」で受賞した。選者が替わって二度目の受賞であった。その折に感じていたことは、きちんと書かれていて安心して読める評論という印象だった。もちろん本書は、その当時の印象を裏切ってはいない。
波郷を書いて10年、「あとがき」に依田善朗は以下のように記している。
書きながら、俳句とは何か、季語とは何か、定型とは何かということを波郷とじかにお話ししてきた気がする。そして私も波郷同様、「俳句を作るといふことはとりも直さず、生きるといふことと同じ」ということを最も大事にしたいと思う。
話は横道にそれるが、多くの俳人諸氏は、波郷の下句「俳句は切字響きけり」を、俳句の特質としてよく引用されている。愚生はそのことも分からないではないが、もっと大事なこととして常に言い及んでいるのは、この句が「俳句研究」(昭和17年12月号)に「大東亜戦争一周年を迎へて」という特集の中に掲載発表されたということ。そして、久保田万太郎、前田普羅、山口誓子、大谷碧雲居、長谷川素逝、瀧春一、石塚友二、石田波郷が5句~7句を発表した中で、ただ一人、いや強いていえば久保田万太郎と二人のみが戦意昂揚の句を詠むことなく、当時の時代状況に対して、それを直接詠むことなく、とぼけた句を詠んで発表していることであった。タイトルは障りなく「一周年に當たりて」で・・・
山行や群山氷るその一つ 波郷
石打つや銷然と瀧涸れにけり
十二月鎌倉の海来てみずや
霜に呵す茂吉光太郎亦老いず
霜柱俳句は切字響きけり
時代は新興俳句の各陣営が弾圧された直後のことである。尾崎喜八、臼田亞浪などの執筆陣は、皇紀二千六百一年の「十二月八日の朝から夜にかけての感動と、それは今思ふだに心が躍る」(亞浪)とその一年後にもその心情を句に込め、戦意発揚の作品を発表している。そうした状況下、その意味では波郷にとって少なからずの覚悟をを必要とする事態であったと想像するのである。つまり「切字は響きけり」の句は、もしかしたら和歌の美意識から切れることが、当時の俳諧における切字の眼目であったように、波郷はその時代から切れてみせることが重要だったのではないか。当時の多くの国民の抱いていた感情から切れることの意志が込められていたのではないかと思うのである。つまり「俳句は切字響きけり」は俳句を愛するゆえにいかなる事態にも左右されることなく俳句を詠み続けるというひそかな波郷自身の存在をかけた宣明だったのではなかろうか。
十一月三日十二月八日かな 万太郎
勝ち継ぐや師走八日はめぐり来て 普羅
敵打ちし後寒月の夜を照らす 誓子
茶の花やこのたゝかいに銃後なし 碧雲居
長夜読む志士ら毛唐を斬り捨てし 素逝
御稜威の下戦意一途に冬ふたたび 友二
カツラ↑
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