2014年12月2日火曜日
佐藤文香「手紙即愛の時代の燕かな」・・・
掲句は、佐藤文香『君に目があり見開かれ』(港の人)より。
いまは、「手紙即愛の時代」ではないのだろうか。それとも、そういう手紙が出されない時代だからこそ、かえって「手紙即愛の時代」になってしまうのだろうか。
前者なら、謹呈の便りに付されたように「三橋敏雄・渡邊白泉を、とくに近しく感じるようになりました。自分なりに新興俳句を更新するべく、新しい俳句を書いていきたいと思っています」という戦前の新興俳句の時代に近い、手紙のことだろう。
愚生にとっては、三橋敏雄も高屋窓秋も最後まで新興俳句の俳人だったという印象だ。それは二人ともついに最後まで時代と社会における自身の在りようを書き続けた俳人だった、ということである。
ならば、その片鱗を佐藤文香の句に認めることが可能だとすれば、それは現代の現在の猥雑さを句に留めようとする痕跡を認めることができるか否かということにかかっていると思う(たとえ「レンアイ句集だとしても)。
人待てば樹は春雨に重くなり 文香
掛け時計外しその釘に吊る薔薇
店を出てさつきの昼の月の続き
焼林檎ゆつくり落ち込んでゆく
遺影めく君の真顔や我を抱き
新興俳句はただ新しかっただけではない。時の権力に弾圧されるのにはそれだけの理由があったはずである。逼塞の時代を生きている見開かれた目ならば、かならずそれを見届けるにちがいない、と期待したい。
柚子の花君に目があり見開かれ
ともあれ、出版される最近の句集の句の多さには少し辟易していたので、6年間161句は読むには程よい句数だった。帯に自選句や代表句がなく、少なくとも中を読もうと思わせるのもよい。
冬タンポポ↑
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