2015年6月1日月曜日
渡辺忠成『新陰流入門』・・・
三週間ほど前のことに遡って再再度になるが、別のことを書いておこう。その折の段ボールの中にこれも全く所在不明で失念していた本が入っていた。
それは、渡辺忠成著『新陰流入門』(新陰流兵法転会出版部)とその父上の渡辺忠敏著『柳生流兵法口伝聞書』(新陰流兵法転会)である。
渡辺忠成は、かつて愚生が新陰流兵法転(まろばし)会に学んでいた頃の先生である。
愚生は、今ではもう全く稽古をしていないが、30歳前後の7~8年ほどは熱心とはいえないが、学んでたのだ。安易といえば安易だが、サラリーマンで一週間一、二度位なら運動不足の解消になるかと思ってはじめたのだ(当時の海燕書房・勝野幸男に誘われた)。愚生の職場で何人かが入会し、支部が出来るくらいの人数になったこともある。その端くれにいて、天狗抄の位まではいただいた記憶もある。その後、一所懸命に修行を積めば、位は天狗の奥、内伝、印可、免許皆伝となるはずだが、愚生は俗事にまみれて結局は新陰流を辞めてしまった。
当時、愚生がもっとも稽古をつけてもらったのは、すでに師範代格で、現在は言語学者にして批評家の前田英樹であり(すでに若手の有能な武道家だった)、また現在は、別流を起している「刀禅」老師?の小用茂夫である。
古武道なので〇〇段という呼称はなかったが、稽古を積み修練すれば、すこしずつ位が上がって行く。例えば小転(こまろばし)の位を先生から伝授されるときに、たった一度だけ伝授される秘伝の技がある。いわば、勝ち口の伝授である。つまりその刀法を究めれば、相手の打ち込んでくる太刀筋に勝ち乗ることができる、というものであった。
簡単に今風に言ってしまうと、映画などでよく出てくる柳生兜割りであるが、愚生等はその太刀法を転(まろばし)打ちとして伝授された。
下段、中段、上段の各位(くらい)ごとに伝授される内容は違っていた。もっとも、究極の教えは無刀の位であり、「ゆめゆめ争うことなかれ」だったように思う。争わずに勝つのである。
もっともこうした、口伝中の秘伝として伝えられてきた剣の道は、戦国時代を経て(戦国時代は相手を確実に死に至らしめるための実用の方法を口伝することであった。何しろ多くは出血多量による失血死なのだから・・)、やがて戦国の時代も終り、江戸時代の平和な時代を武士階級が生き抜くために武士道という思想が生み出されることになるのだ。
その転会は、いまや日本のみならず、外国にも支部をもつほどに大きくなっているらしい。
ともあれ、渡辺忠敏(愚生が入門したときはすでに亡くなられていたが)が『柳生流口伝聞書』を著したのは、「はしがき」によると昭和47(1982)年、七十七歳の時である。明治27年栃木県生まれ。小学時より神道無念流を学び、大正6年、尾張柳生の新陰流十九世・柳生厳周に入門し、新陰流二十世・柳生厳長の補佐役を務めたとある。
ヤマボウシ↑
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