2015年7月29日水曜日

山地春眠子『月光の象番ー飯島晴子の世界』・・・



『月光の象番』角川学芸出版は、宇多喜代子が帯文に記したように、「飯島晴子論でありながら、その域を超えた俳句論の展開の一書」というに相応しい。それは山地春眠子の俳句の評価の基準をつねに明らかにしながら、飯島晴子の俳句作品の評価が問われ続けているからでもある。そのことは「はじめに」で著者自身が以下のようにそのありどころを披歴していることからもうかがわれる。

 子規・虚子以後の、いわゆる伝統派の俳句は、基本的に、意味を伝達するように言語の機能を使うことで成立してきた。
 だが、言語は、必ずしも意味を伝達せずとも、それ自体が外界から独立したイメージを形成することがあり得る。それを一般には「詩」という。
 俳句に於て、意識的に、後者の「詩」が成り立つことを証明しようとしたのが、新興俳句・前衛俳句などの、いわゆる非伝統派の基本的発想であった、と私は思う。例えば

   頭の中で白い夏野となつていゐる       高屋窓秋
   蝶墜ちて大音響の結氷期           富沢赤黄男

がある。
 この二つの基本路線の差を、イデオロギーではなく言語論として、まず、認識しておいていただきたい。
 飯島晴子は、この二つの路線の差を十分に意識しつつ、どちらか一方のみを是とすることなく、自分自身の「句」をどういう言語によって書き付けるかを、生涯問い続けた作家であった。
 本書は、晴子の「問い続け」の軌跡を追うものである。
   
本著は、「鷹」に三年以上連載されたものが中心となっているが、その「鷹」での原稿の量は、誌面の都合もあって本著の三分の一につづめてあるというから、読者は、是非、本著を手にして読まれるにしくはない。飯島晴子の句作について、より具体的にその理解を深めることができると思う。「鷹」のすべての号の晴子掲載句と、句集との異同を記し、かつ巻末には、そのことごとくの句の索引、また各章の末には引用の注も記されている。今後にもし飯島晴子論を書こうとする者にとっては、逃すことのできない一書となることは疑い得ない。山地春眠子の晴子個別の句の評価にも触れたいが、直接あたっていただくのがいい。


                     飯島晴子原稿↑

横道にそれるが、本書「Ⅶ老いと向き合うー『儚々』」の章と時期は重なっていると思うが、平成2年の頃(翌年に飯島晴子は脳動脈瘤のクリッピング手術をしている)、愚生が編集人を務めた「俳句空間」第15号「平成百人一句鑑賞」ための企画に送稿していただいた飯島晴子の自信作5句は以下の句だった(写真上↑)。実際に鑑賞された句は晴子「初夢のなかをどんなに走つたやら」で、執筆者は妹尾健であった。
参考までにあげておこうと思う。

    寒晴やあはれ舞妓の背の高き          句集『寒晴』
    漲りて一塵を待つ冬泉                 〃
    男らの汚れるまへの祭足袋              〃
    初夢のなかをどんなに走つたやら        「俳句」平成二年一月号
    今度こそ筒鳥を聞きとめし貌           「俳句」 〃   七月号



                 フヨウ↑

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