2015年11月18日水曜日

山田耕司「下萌えの逃げどころなくこれが老い」(「円錐」67号)・・・



「円錐」67号の特集「昭和が遠くなりません」が三回目で、これが最終。なかでは、宮崎莉々香(19歳)の「なぜ、今『新興俳句』なのかーこれからに向かって」が真摯でかつ初々しく好感がもてた。まだまだ俳句の世界も捨てたものではない、と思わせる。愚生にも少し気力がわく。一部分を以下に引用する。

 「新興俳句の何が新しかったのか。あれから約八十年を経た現在の地点から、俳句の表現史の青春を振り返り、私たちの新たな時代を生きる糧としたい。」とある(現代俳句協会青年部ホームページより抜粋)。しかし、なぜ、今なのか。私たちが今、新興俳句期の作品を見ても「新しい」とは感じないだろう。
 しかし、それでも私は藤木清子の句にドキドキするし、富澤赤黄男を読むと体に電流が走る。鴇田智哉の第二句集『凧と円柱』(平成二十六年・ふらんす堂』は構成等、高屋窓秋の『白い夏野』(昭和十一年・龍星閣)を研究して編まれたものである。

作品では、「円錐」の編集部の比較的若い二人の句を以下に挙げておきたい。今泉康弘は詞書き付きである。

    八月二十五日、丸木美術館にて「原爆の図」を見る。痛ましく傷ついた人々の群像。
    その中に、エロチックな裸体があり、見とれてしまう。
  原爆図にちちははの裸かな          今泉康弘

    八月三十日 国会前デモに行く。小雨の中、合羽を着て、議事堂や日比谷公園等を歩き回る。
    シュプレヒコールを唱和するのは、どこか照れくさい。直接行動は苦手なのだが・・・
  ポケットに檸檬国会議事堂前

  目の玉の羽化せぬことを遠花火       山田耕司
  ヒノマルとおぼしき布と軒時雨 




                      
                     永青文庫↑
★閑話休題・・・


とある日、都内に出た日に、少し足を延ばして永青文庫「春画展」を観た。待つことなく入館できたが、噂通り、老若男女で混んでいて、ゆっくり見るというわけにはいかなかった。むしろ美術館の中のところどころに置かれた調度品やフランスの皮装本の典籍の方に目が奪われた。永青文庫所蔵の春画は作品目録によると、「欠題十二ヶ月」(狩野派・江戸時代17世紀)と「艶紫娯拾余帖」(歌川国貞・天保6年1835年)の二点である。

 




  

0 件のコメント:

コメントを投稿