2016年2月1日月曜日
小湊こぎく「たっぷり笑いおり切株に初雪」(「豈」128回東京句会)・・・
一昨日は隔月に開かれる第128回「豈」東京句会。曇り空だったが、雨雪はなかった。
以下に一人一句を記しておこう。
肩幅のぶつかる路地に雪催 小湊こぎく
初すばる清少納言とそぞろ歩く 川名つぎお
雪吊りの星につながる糸電話 羽村美和子
またの日を芹の根洗う垂乳女よ 福田葉子
さざんかのそのかたわらをゆく小犬 佐藤榮市
日のにほひ布のにほひや草城忌 堺谷真人
レ・ミゼラブル皇帝ダリヤ背丈かな 岩波光大
水にちかき石寒月の照る音 吉田香津代
まれびとの空気ひろげるお初釜 早瀬恵子
寒晴の天つ風なれがらんどう 大井恒行
*閑話休題・・・
堺谷真人、つい愚生は、披講の際に「さかいたに・まひと」と呼んでしまうが、本名は「まさと」である(許されよ・・)。かつて加藤郁乎が仁平勝(まさる)のことを、「にひら・かつ」と呼んでいたのをふと思い出したりした。
その堺谷真人が持参した「一粒」(NO,76 ’15・12月号 一粒俳句会)の特集が「俳句のオリジナリティ」。評者は堺谷真人「宿浴衣と花衣」、湖内成一「私自身の俳句探求」、鈴木達文「俳句のオリジナリティを考える」の三名。いずれも示唆に富む。巻頭言(堺谷真人)にその特集の趣旨が述べられているようなので、以下の部分を引用する。
俳句はその短さと音数・語彙上の諸制約の故に、類句というパーペチュアル・イシューに向き合わざるをえない宿命にある。類句を脱した処にオリジナリティを求めるのは、俳人として当然の態度である。一方オリジナリティの有無を判断するのは選者の責任である。互選句会でも参加者一人一人に選者責任が生ずるものの、一誌の主宰や新聞俳壇選者という立場にある俳人の責任は遥かに重大である。作を誤る俳人は己一身を誤るに過ぎないが、選を誤る俳人は人を誤るからである。選者は作者の「連帯保証人」たることを遂に免責されない。
ミツマタ↑
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