2016年6月14日火曜日
川口重美「六月猫が曲つた方へ曲らう」(宇多喜代子『俳句と歩く』)・・・
25歳9か月で逝った夭折の俳人・川口重美の名を知ったのは、数年前、遺句集の復刻版『川口重美句集』によってである。これも宇多喜代子の手配によるものだった。川口重美は宇多喜代子と同郷の山口県、愚生にとっては同窓ともいえる山口高校、旧制山口中学には、ほかに詩人の中原中也、俳人・種田山頭火、小説家・嘉村磯多がいる。これに川口重美が加わったのだ。これには、さしたる意味もないが、とおく離れてしまった故郷の幾人かを何かにつけて思う望郷ナショナリズムのようなものかもしれない。そういえば、金子みすずもそうだが、愚生にはなじみが薄い。故人を別にすれば、現在の同郷の俳人ならば、宇多喜代子、江里昭彦、葛城綾呂、河村正浩、藤田美保子、福永法弘あたりが思い浮かぶ。
宇多喜代子は『俳句を歩く』(角川書店)に次のように記している。
川口重美が山高理科を卒業したのは昭和十九年九月、短縮卒業で東大第二工学部建築科に入学したのが同年十月、まさに戦火盛んな時期である。翌年が敗戦。敗戦後国家観や制度の変化変貌に混沌とした日を過ごした青年の一人であった。そんな中で俳句を始めた連中にとって、昭和二十一年五月に創刊された「風」は、いまや黄変はなはだしい全三十二頁の雑誌ながら、若者にはさぞ魅力があったろうと思われる内容である。(中略)
そんな若い重美は、女学校を卒業したばかりのS家の栗子さんの婿養子として結婚した。多分に経済的なことが絡んでことだったのだろう。ところが、大学三年の重美は、この幼妻から離れて倉石悦子さんという「戦争未亡人」と同棲(どうせい)するようになる。下関の小さな古書店を営んでいた女性で重美より六歳年上、彼女には十歳くらいの男の子がいた。
その幼妻・栗子との千葉での生活は、重美とは別の部屋を借りて暮らし、下関の身内には一緒に「居る」と思わせていたのだそうだ。やがて重美は大学を卒業、説得されて栗子同伴で下関に帰郷した。しかし、重美は死ぬ前日、上野燎に悦子と別れるつもりはないと話し、千葉から追いかけてきた悦子と旅館でアドルム(睡眠剤)を飲んで心中を選んだ。昏睡の二人を発見したのは、悪い予感を抱いた上野燎。
渡り鳥はるかなるとき光り 重美
生きたかり埋火割れば濃むらさき
泳ぐ身をさびしくなればうらがへす
焼跡やかつてもこゝらまくなぎ居し
炎天下穴に沈めり穴掘りつゝ
炎天の羽音や銀のごとかなし
炎天の鶏まつ毛なきまばたきを
金星見放しこの道曲らねばならぬ
ギンバイカ↑
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