2016年10月13日木曜日
攝津幸彦「満蒙や死とかけ解けぬ春の雪」(「俳壇」10月号)・・・
攝津幸彦新居にて、右は攝津資子・(背中が愚生)↑
今日、10月13日は命日、攝津幸彦没後20年。「俳壇」10月号(本阿弥書店)では、仁平勝が特別寄稿「毛と満蒙」を執筆している。さすがに仁平勝らしい視点と攝津幸彦の資質、特質をよくとらえた見事なものだ。「自身の通俗さに対してつねに肯定的であることだ」という件などは卓見で、攝津幸彦と仁平勝との間に、具体的な世俗の例があるのだけれど、書くのは憚られる(ちょっとしたエピソードだが・・)。
話題は変わって、「満蒙や死とかけ解けぬ春の雪」の仁平勝の鑑賞の一部を以下に引用する。
掲出句は「満蒙」がキーワードだが、「死とかけ解けぬ」というのは、「〇〇とかけて〇〇と解きます。その心は・・・」というパロディーである。寄席の大喜利でやる遊びで、戦後「とんち教室」というラジオ番組があって、庶民の間で流行した(今日の笑点」に引き継がれている)。攝津のなかでは子供の頃の思い出として、父親の軍歌とともにこれが重なっているのだ。
「死とかけて」という題は、出征する兵士には理不尽な謎かけである。戦争で死ぬことは自分の選択ではないし、「その心は」と問われても、「お国のため」と答えるしかないからだ。一句は謎かけを「解けぬ」と受けて、それを「春の雪が解けない」と転換してみせた。兵士にとって確かなのは、満蒙の長く厳しい冬という現実である。(中略)
つまり攝津は「皇国前衛歌」のパートⅡを、「皇国」が終焉を迎える場面から語り出している。いうならばそれは戦死者にたいする鎮魂だった。
最後の思い出話には、愚生も登場するのだが、攝津新居の場面は、夫人・攝津資子の『幸彦幻景』(スタジオエッジ)に詳しい。
「豈」編集会議
三月に入って、わが家においては初めてという「豈」の編集会議が開かれました。新居のお披露目の最後の客人ということになりましょうか。大井恒行氏、仁平勝氏、池田澄子氏、酒巻英一郎氏といったお顔ぶれで、シロウトには何が可笑しいんだかさっぱり、といった話題に皆さん終始笑いさざめいておられました。
その会議という名目の集まりに攝津幸彦は2月の頃から桜の枝木を10本ばかり買ってきて部屋に飾り、その日に合わせて開花させようと暖房を入れたり、寒くしたり、攝津家はいろいろ苦労する。
こうした苦労の甲斐あって、会議の当日は、時折花びらがハラハラと紅い毛氈の上に舞ったりして絶好のお花見ごろに。ご満悦の幸彦はとっておきのお香まで燻らせて、客人方をお出迎えしたのでした。
(中略)
そして、彼が仲間たちと楽しげに談笑し、花見酒(幸彦だけは烏龍茶でしたが・・)を傾け合っている図は、知ってか知らずか真に、¨今生の別れを惜しむの宴¨と申すに相応しい情景ではありました。
忘れもしない20年前の10月10日、その日、愚生は2~3時間、会社を抜け出して、仁平勝、酒巻英一郎と待ち合わせて、攝津幸彦を御茶ノ水の順天堂大病院に見舞った。そして恒例となっていた「豈」忘年句会を攝津幸彦は病室を抜け出して参加するというので、近くの会場を探す約束をして病室を後にしたのだった。
エレベーターまで、点滴の管をつけたまま見送って手を振ってくれた攝津幸彦の姿が最後になろうなどとは誰も思わなかった。思えば、ただ一人、余命を知らされていた資子夫人だけが、是非、見舞いにと導いてくれたのは、その覚悟あってのことだったろう。そのわずか三日後、容態は急変し、あっという間に逝ってしまった。
ルコウソウ↑
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