九里順子第二句集『風景』(邑書林)の帯文には著者「あとがき」から、
肌に触れる空気や日差が身体に馴染んで、眼差しに浸透した時、新しい風景が見えてくる。風景は、その人が生きてきた時間と場所が交差する十字路に立ち現れるのだ。
とある。風景と言えば、愚生にはすぐにも志賀重昂『日本風景論』が思い起こされるが、ここでは印象が違う風景のようである。これまでも風景論は色々あったが、少なくとも風景は過去と現在をつなぐ役割をはたしているとはいうものの、懐かしむものとばかりは言えない。
本集のなかには本歌取り、コラージュの趣をもつ作品、例えば、
永き日のにはとり挑む隠逸士 順子
白紙賛滝現れて落ちにけり
みわたせば花ももみじもなき竹林
眼差のどうぞこのまま秋入日
惜しみなく愛は奪ふか冬木立
など、また、「続・近代詩漫歩」の章にも、その前書が句の背景を暗示しているので、趣向としては根がひとつだろう。愚生の好みからえば、
小野十三郎
葦原に垂直の旅始まりぬ
あたりかも・・・。ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておこう。
影もたぬ闇の林檎と炎かな
借景の正面にある竹の春
ホースより低き水音寒の闇
にんげんもトマトも持てる浮力かな
魂に逢ふため裸脱ぎやがれ
九里順子(くのり・じゅんこ)1962年福井県大野市生まれ。
ハナミズキ↑
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