2017年2月27日月曜日
長谷川櫂「大夕焼沖縄還るところなし」(『沖縄』)・・・
長谷川櫂『沖縄』(青磁社・2015年)。愚生の年代では、沖縄を詠んだ句集といえば、まず沢木欣一の『沖縄吟遊集』(牧羊社・1974年)を思い浮かべる。それは一巻すべてが沖縄滞在時の句で満たされている。その沢木欣一の「あとがき」には、
種々の意味で沖縄は日本の縮図であり、故郷であるという念を深くした。現地において相当数の句を成したが意に満たず、ほとんど書き下しに近い句集となった。(中略)
沖縄の復帰は実現したが、いろいろ大きな問題をかかえている。。古来人間と自然が一体となって生き抜いて来た沖縄文化の原型、いつまでも生命を維持し、更に発展することを願って止まない。
とある。そのなかの句に、
赤土(あかんちゃ)に夏草戦闘機の迷彩 欣一
ことごとく珊瑚砲火に亡びたり
日盛りのコザ街ガムを踏んづけぬ
この1974(昭和49)年には(前年と後年を合わせると珠玉の句集が多く刊行されている)、例えば、三橋敏雄『真神』、阿部完市『にもつは絵馬』、鷹羽狩行『平遠』、高柳重信『青弥撒』、草間時彦『桜山』、細見綾子『伎芸天』、平井照敏『猫町』、中村苑子『水妖詞館』、飯田龍太『山の木』、赤尾兜子『歳華集』、伊丹三樹彦『仏恋』、山田みずゑ『木語』、宇佐美魚目『秋収冬藏』、石原八束『黒凍みの道』、『定本加藤郁乎句集』、佐藤鬼房『地楡』、鈴木六林男『桜島』など枚挙にいとまがない。もう45年近く前のことだ。
沢木欣一の句集と比べて長谷川櫂の句集は、その集名に「沖縄」が冠されているとはいえ、沖縄詠で全句を占めているわけではない。櫂の句にならえば、もともと沖縄には還るところなどないのだ。1970年代には、沖縄解放、沖縄独立を叫んだ人たちもいた・・。ともあれ同集からいくつかの句を以下に挙げておこう。
亡骸や口の中まで青芒 櫂
飴山實、十三回忌
飴山忌この世の桜間に合はず
軽き身のいよいよ軽し衣がへ
夢にまた火だるまの馬敗戦忌
吹きすさぶこともありけり隙間風
撮影・葛城綾呂↑ヒヨドリ
2017年2月26日日曜日
宮本素子「犬蓼やむかし女衒の来し畷」(「鷹」3月号)・・・
「畷(なわて)」などと、愚生より若い世代の人は使わないだろうと思っていた。ようするに田んぼのあぜ道である。さらに「女衒」という言葉も今では使われない。これを「むかし」という一語で結び付けて上五「犬蓼や」だから、なかなかの光景を創り出したものである。時代劇風ですらある。さもありなん、自解に眼を落すと「古民家への吟行。緒方拳演じる女衒が貧しい村にやって来るシーンが浮かんだ」とあった。
犬蓼は赤まんまのことだ。赤まんまといえば、中野重治の「歌」、
おまえは歌うな
おまえは赤のままの花やとんぼの羽を歌うな
風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな
すべてのひよなもの
すべてのうそうそしたもの
すべても物憂げなものを撥(はじ)き去れ
(以下 略)
を思い起こす。
掲句の作者・宮本素子、昭和39年生まれ。本年の「鷹」一月号で第35回新葉賞を受賞している。どこかで聞いた名だと思ったら、愚生が「俳句界」編集部にいた時に、校正の仕事をしていた人だ(掲載された写真を見て一致した)。
その折りの句は20句、その中に、
広島へ立ち寄る旅程水の秋 素子
レセプション始まる画廊花水木
があった。
以前にも少しふれたことがあるが「鷹」には加藤静夫「俳句精読」の三橋敏雄が12回目の連載。奥坂まやが、季語派らしくほぼ四季に一度の連載ペースで「われら過ぎゆくー野生の思考としての季語」が七回目、いずれも愚生の楽しみの読み物だが、博覧の奥坂まやの強記ぶりはまさにレヴィ・ストロース『野生の思考』なみ、とはいえ、愚生などはついにその名著を読み通すこともできなく、その一行すら忘却の彼方の有様である。今号の奥坂まやの結びは、いよいよ次号から「俳句」にいたるのかも・・・
この「内面」と「外部」との矛盾を、俳句はどのように乗り切ろうとしたのかを、次回に探っていきたい。
とあるゆえ。
2017年2月25日土曜日
田中不鳴「子の声にためらいはなし鬼は外」(『傘壽』)・・・
田中不鳴(たなか・ふめい)『傘壽』(2013年2月刊・私家版)、今では句歴が浅いか長いかに関わらず句集を出したり、また、出せる時代になったが、田中不鳴存命の頃はまだまだそういう時代ではなかった。事情は「あとがき」に、
師の見学玄は自家句集について、生前出すものではない、没後誰かの手で編まれるのが、本当だと信じていた人だったが、世の趨勢に抗し難く『莫逆』の名の句集をだした。私はそれに倣ったわけではないが、齢八十にして句集を出すことにした。(中略)
脊髄狭窄症という難病にかかり、入院一年、手術二回を受けたが、手が上がらない、回せない、一人では歩けないという有様で、身体障害者となり、字も満足に書けない状態になったが、その後のリハビリで、下手ながら字が書けるようになった。それでようやく資料を整えた。考えてみたら、七十九歳も過ぎるので、それなら自ら傘寿を祝うこととして『傘寿』の句集名にした。
その田中不鳴は二年ほど前に81歳で亡くなった。不鳴は昭和8年2月14日、東京生まれ、本名博正。長期にわたり見学玄「五季」の編集長を務めた。職場であった読売広告社俳句会は最後まで続けたという。句集『傘寿』には、旅先のエッセイ「日本ところどころ」と「芭蕉の推敲」論が収録されている。
ともあれ、平明諧謔味のある句や愚生の好みの句を以下にいくつか挙げておこう。
竹輪一本穴まで食べて冬に入る
日本中逃げるつもりで羽抜鶏
浴衣着る今日の終りの陽を浴びて
凩や女の爪の痛い夜
梅雨の雲極楽坂はゆるい坂
美しき嘘が出る唇息白し
春の星きれいな音をたてる水
笑いたくなるほど胡瓜曲っており
こんな日だきっと出て来る雪女
墓洗うだんだん力入れだして
鬼は外静まり返ってしまう町
炎天の一本道曲ろうともしない
一日じゅう自分で揺れて猫じゃらし
2017年2月23日木曜日
石原日月「逝く春や耳寄せて聴くピアニシモ」(『翔ぶ母』)・・
石原日月句集『翔ぶ母』(ふらんす堂)には、献詞が付されてある。
悲しみの彼方、母への、
捜り打つ夜半の最弱音(ピアニッシモ)。
吉田一穂「母」部分
この献詞に呼応している句が「逝く春や耳寄せて聴くピアニシモ」であろう。もちろんというべきか、芭蕉「行くはるや鳥啼うをの目は泪」も応えていよう。芭蕉元禄二年三月二十七日「奥の細道」に旅立つ留別の句である。
著者「あとがき」の冒頭に、
平成二十三年三月一日 母死去
平成二十三年三月六日 父死去
(平成二十三年三月十一日 東日本大震災)
平成二十三年三月十二日 通夜
平成二十三年三月十三日 葬儀
平成二十三年六月五日 納骨
収録した句は平成二十一年八月一日に母が倒れ、入院・手術となった時から、平成二十三年一月の父の緊急入院、同年三月の父母の死、六月の納骨、平成二十四年の一周忌あたりまでの約二年半の間に作ったものです。(中略)
今年は父母の、ということは東日本大震災の犠牲者の方々の、七回忌ということで、ひとつの区切りとして句集という形に纏めてみました。
とあり、父母に献じられた追悼の句群である。
愚生が献詞に反応したのは、かの加藤郁乎が師事し、敬愛してやまなかった吉田一穂の薔薇篇冒頭の「母」には、愚生が好きな二行が、一行空けて献詞の行前に置かれている。それは、
あゝ麗はしい距離(デスタンス)、
つねに遠のいてゆく風景・・・・・・
合わせても四行の詩である。そしてまた一穂に、「野狐山門、一穂の寒燈を点ず。」また「『豈』、月に打つ狸和尚が腹鼓」などと記された、
ふる郷は波に打たるゝ月夜かな 一穂
の句もあったことを思い出したのだ。
ともあれ、石原日月(いしはら・じつげつ)、1946年愛媛県生まれの本句集から、いくつかの句を以下に挙げておこう。
軍務あるごとき眼の大烏 日月
空蝉や翔び去る母を押さへけり
噛む噛む秋風を噛むさらに噛む
風と化す桜も母のてのひらも
菜の花や母と云ふ字は雨となり
母居らぬ母の日となり父の日も
撮影・葛城綾呂↑(自宅ベランダかららしい)
2017年2月22日水曜日
宮﨑莉々香「さざんかさくかさくかさかぬよははがきらひ」(「円錐」第72号)・・
「円錐」第72号の「俳句トス」という連載企画、セッターが一句を提示して、スパイカーがその句を解釈してみせるという趣向だ。なかなか面白い。いいトスでスパイカーの山田耕司は、いいところにスパイクを決めている。例えば、
俳句トス 私が多行俳句を苦手とするのは、これ迄にそれを書いたことがないからだろう。
一句セッター 矢上新八
火は放たれき/内耳の/太古の/密林に 高原耕治
一句スパイカー 山田耕司
(前略)高柳重信が多行俳句の創始者というならば、したがってそれは過ちである。高柳は、すべての俳句作品の中に沈潜し内在する多行の要素を、見えるように取り出してみせた作家である。
つまり、高柳重信という視点を得ることで、すべての俳句は多行作品の枠の中にあるものであると思い当たることが可能となったのだ。
その通りだと納得できる。もちろん多行の試み自体は、明治時代から、短歌もそうであったように俳句でもあった。いえば高柳は、多行作品を書くことに殉じた作家だったのだ。
また、こうも述べている。
多行として構想され読解されることの大切な要素はいくつかあるが、その中でも最大の項目は、言葉なりをリニア(直線)で繋げるのではなく、逆行させたりあえて混線させたりすることで、意味情報として指し示していること以上のイマジネーションを読者の脳に発生させることであろう。
高原耕治の掲句については以下のように結んでいる。言い読みだと思う。
ならば「密林」という語の斡旋は、もったいない。ジャングルの「なんでもあり」感は、ささやかな芸術的香気を、意味世界にがっさりさらっていってしまうからだ。作者はそのリスクをかねて理解していたかもしれないがあえてそうしてしまったのは、読者への配慮からか。あるいは読者への絶望が不足しているからか。
ともあれ、特別作品からの一人一句を以下に、
羽切ると枕に聞こゆ寒禽よ 荒井みづえ
白鳥の水の顔陸の顔思案顔 橋本七尾子
運動会見下ろす父の肩車 原田もと子
懐かしくでんして帰る茱萸の家 矢上新八
【でんして帰る】 何かにタッチをして帰る
ダム底となる一村の秋の色 丸喜久枝
冬かもめ君たちに骨ぐみがある 宮﨑莉々香
撮影・葛城綾呂↑(自宅ベランダからだそうである)
閑話休題・・
訃報あり、中村裕氏、19日に逝去。家族にて密葬。後日偲ぶ会を予定らしい。
確か愚生と同年生まれだったような・・・早すぎるか。はるかにご冥福を祈る。
2017年2月20日月曜日
ふけとしこ「椿が赤いぼくが火傷をさせたんだ」(『ヨットと横顔』)・・
ふけとしこ『ヨットと横顔』(創風社出版)はエッセーと俳句の本だ。坪内稔典の帯文にある、
彼女の特色は草花が大好きなこと。少女時代から草花と共に生きてきた人なのだ。
と言う通り、そのエッセーには、愚生などは到底およばない観察眼が働いている。ところで、ブログタイトルの句だが、どこかで聞いたことがあるようなと思い、記憶を呼び戻し、坪内稔典が毎号、檄を飛ばしていた「現代俳句」に行き着いた。特集は「同時代の散文」、愚生も背伸びをして中上健次論を書いていたのでとっておいた「現代俳句」第6集(南方社、1979年10月発行)の帯であった。
それには、
定型に日が射し秋の風が吹く 火傷しそうな君に会いたい
とあった。たぶん、ふけとしこはそれを知っていたのだろう。
「船団」第84号の変身特集。全員何かに変身して短文を書き、一句を添えよ、という無茶ぶりである。
と「わたしの十句」に記している。そのエッセーには、「美しいと思う。けれども、私が好きなのはやはり、赤い藪椿の花である」と結ばれてはいるが、文面には出てこないものの、きっと坪内稔典に挨拶しているのである、と思いたい。なにしろ、「現代俳句」は坪内稔典が編集した、当時の俳句の新世代を、文字通り牽引していた雑誌であり、「俳句研究」でも「俳句」でもなく、総合誌には相手にされなくても、自分たちで自分たちの句を発表し、批評し、俳句のシーンを変えて行こうと試み続けた場をめざした雑誌だった(各地でシンポジウムもやった)。その在り様は「船団」の船出のときのものでもあった。
ふけとしこ(1946年、岡山県生まれ)の略歴をみて、市村究一郎に師事し「カリヨン」入会、「カリヨン賞受賞」とあった。じつは、いま愚生が勤務している府中グリーン・プラザの会議室で「カリヨンの会」「カリヨン〇〇」などの「カリヨン」の名が付く借主の団体がいくつかある。当初、なぜだろうと不思議に思ったのだ。それらの会は、市村究一郎の死後、雑誌は廃刊されたが、いくつかのグループに分かれて、いまも句会をされているのだった。
ともあれ、エッセイ中、もっとも印象に残った言葉は、
俳句は言葉でできるもの。対象を如何に納得できる言葉に置き換えることができるか、にかかっているのだ。安易に妥協をせず、耐えて自分の言葉を持つ姿勢に。
である。そして、いくつかの句を以下に挙げておきたい。
舌といふ隠れ上手を桃の花 としこ
葛の花顔を濡らしたまま歩き
明礬(みょうばん)の少しを量る冬あたたか
オリオンの腕を上げては星放つ
マフラーを投げればかかりさうな虹
2017年2月18日土曜日
福田若之「成人の日にいないやつから電話」(「オルガン」8号)・・
「オルガン」誌にはいつもながら、対談のテーマといい、語り口といい、愚生など頭の固い年寄りには、理解に苦しむところもないではないが(愚生がダメなだけだが・・)、興味深く読ませてもらっている(愚生より若い世代がどのような姿勢で俳句に向かっているのか)。今号もまた、生駒大祐✖福田若之対談「プレーンテキストってなんだろう」。生駒大祐✖田島健一✖福田若之✖宮本佳世乃の座談会「『定本 三橋敏雄全句集』を読んでみた」。それと「《書く姿勢》と伝統ー堀下翔に答えて 福田若之」。「書く姿勢」について真摯に問われていたことは理解でき、清しい印象だった。ただ、テーマが「書く姿勢」なので、無いものねだりになってしまうが、「伝統」とは何か?という前提について、まったく規定がなかったので、その点惜しかった。もちろん「前衛」と無限定に提出されても同様だが・・・。
プレーンテキストという言葉、横文字に弱い愚生が初めて知った言葉だったが、もっとも興味深く読ませてもらった。それなりに理解はできたものの、そうした意味合いも考えて、句を創ったことがないので、おおそうか、とまるで、若いときに、最初にソシュールや時枝誠記の言語論を読んだときのウーンといった感触だった。
ブログの福田若之の句には、思わず田中裕明「水遊びする子に先生からの手紙」を想起した。
ともあれ、同号から一人一句を以下に、
フレームのそのままに日の古びたる 鴇田智哉
朝、醒めたら、原爆になってて落ちる 福田若之
自転車を漕ぐたびに音クリスマス 宮本佳世乃
枝がちの空も冷たく古りゐたり 生駒大祐
昨夜からそこに箱あり深雪晴れ 田島健一
2017年2月17日金曜日
池田澄子「箸置や冥途も年を越すだろうか」(「WEP俳句通信」96号)・・・
総合誌を眺めると、愚生は「豈」同人なので、どうしても「豈」同人の作品や文章を偏愛してしまう。掲載記事の中でも一番読み応えがあって、かつ作品が良いようにおもってしまう。もっとも贔屓の引き倒しにはならないとおもっているが・・。
「WEP俳句通信」の今号では、池田澄子特別作品25句「嬉し」に注目。
膝で折る枯枝の香と音や幸 澄子
日脚伸ぶとりのお墓にした石に
論では、筑紫磐井「新しい詩学のはじまり(七)ー社会性俳句の形成②/私の伝統論」。
それを、私的な体験と断ってはいるが、1971年頃、
伝統俳句ブームが生まれるのは、伝統俳句の枠組みの中で、今までの古い伝統俳句(客観写生・花鳥諷詠)でもなく、前衛俳句でも見られなかった新しい俳句が生まれ、それが人々を引きつけたと言うべきなのである。私は、それを「新しい抒情」だったとみている。
その「新しい抒情」の例句を幾人かのいわゆる伝統系の俳人を挙げているが、愚生はまず飯田龍太と野見山朱鳥あたりに指を折りたい。対極にいたのは,いわゆる前衛系と言われた高柳重信だったろう。
あと一人の「豈」同人は、北川美美の「三橋敏雄『眞神』考⑨ 戦火想望俳句と敏雄」である。美美は生前の三橋敏雄に会ったこともないのに、戦前の資料も駆使しながらの敏雄論の展開は力作に値する。愚生よりはるかに若い俳人なので、俳句の状況認識については、一言添えたい部分もないではないが、最初から最後まで新興俳句の人であったという三橋敏雄への想いは正しいと思う。
リアリズムを超える無季句は、この戦火想望俳句という踏み絵を踏まなければ生まれなかったとも言える。弾圧によって筆を折った先師の憑りつかれた無季への執念、怨念めいたもの・・・そんな背景を知ると、『眞神』冒頭に配される〈昭和衰へ馬の音する夕べかな〉〈鬼赤く戦争はまだつづくなり〉が何か象徴的ですらある。
と記されている。先師とは渡辺白泉である。戦火想望俳句への批判は、そのまま3.11以後の俳句にも、震災想望俳句として、その批判・反批判が亡霊のように現れた。
2017年2月16日木曜日
倉阪鬼一郎「野の果ての砂に埋もれしハープにて風は奏でる始まりのうた」(『世界の終わり/始まり]』・・
倉阪鬼一郎歌集『世界の終わり/始まり』(書肆侃侃房)は著者三十年ぶりの第二歌集だという。愚生は、倉阪鬼一郎が短歌を作っていたなどとはまったく知らなかった。「あとがき」には、
もともとは短歌を作っていて、俳句へと転向するかたちだったのです。学生時代は早稲田大学の幻想文学会に所属し、幻想短歌会という分科会を主宰していました。(中略)
一九八九年に第一歌集『日蝕の鷹、月蝕の蛇』(幻想文学会出版局)を上梓しました。(中略)
こうしておもむろに短歌を再開し、いまここにようやく成ったのが三十年ぶりの第二歌集というわけです。
とある。
以下のことも愚生は初めて知るのだが、趣味はマラソン、トライアスロン、囲碁、将棋、油絵などというから、怪しい世界の人という印象ではなく、けっこう肉体派かも知れない。因みに本歌集の表紙絵も倉阪鬼一郎だ。
また、オリジナル著書は130冊を超えたという。確か彼が「豈」同人になった頃から専業作家の道を歩んでいる。そのころの小説はホラーで、これでもか、というほど全く救いのない特異な小説だった。もう20年近く前のことだ。幾つかの歌を以下に挙げておこう。
キッズスペースで夜もあお向けにされている碧すぎる目の人形たちよ 鬼一郎
眠れない深夜バスのつれずれに想う世界の終わり/始まり
風の門は閉った それからを生きるペンギンなど
肉は駄目だがカツカレーは食すわたしは死ぬまでイデアを食べて
見える 本当は呪いがかかっている穏やかな枝ぶりの松ここからは見える
決定的なことは常に起きてしまっているから海の夕焼があんなにも赤い
2017年2月15日水曜日
山口可久實「善悪を/わきまえぬ木が/さくらです」(『天の道』)・・
山口可久實『天の道 多行俳句+写真』(書肆未定)、1930年、岡山県生まれ。後書ふうの文に、
俳句をはじめて30年余り「未定」に所属してからも20数年。俳句鍛錬会で高原耕治は高柳重信の言葉「俳句表現は省略ではなく神のごとき統一である」を紹介した。身を置いているところは間違っていないと確信した。
とあった。愚生は、20歳代が参加の条件だった「未定」の創刊同人の一人だが、現在、創刊同人は一人もいなくなってしまったが、「未定」は高原耕治を軸として持続し、近年、多行俳句に特化した同人誌として再出発を果たした。いかにも同人誌らしい純粋化を達成したのである。
本句集は、句のほかに写真が片ページに入っている。そこに登場する人物は、山口可久實の子息・山口健児である。大野一雄の弟子だった、その舞踏を何度か観たこともある。
『天の道』より句のみであるが、以下に少し紹介しよう。
天上に
空気草履の
音がする 可久實
少女来て
蟹の鋏を
使いけり
原爆忌
バービーちゃんに
HOTOがない
2017年2月13日月曜日
島田牙城「馬驅くる野を燒かんとしためらひをり」(『俳句の背骨』より)・・
『俳句の背骨』(邑書林)、島田牙城の初の単行散文集である。還暦だという。
愚生が最初に彼の世話になったのは、彼が今は無き牧羊社「俳句とエッセイ」の編集部にいた頃のことだ。彼がまだ二十歳を少し出たばかりのころだったかも知れない。愚生がいわゆる総合誌に最初に書いた散文、飯田龍太論の編集担当者だったのだ。詳細は覚えていないが、龍太が何かの賞を受賞して、そのお祝いの企画だったように思う。若かった愚生はそのお祝いに相応しい論を書いたとは到底おもえない。それでも載せてくれた(後日、クビを覚悟したとも言っていたような・・・それとも龍太が怒ったのであったか・・・)。
それ以来、さまざま彼に世話になってきたが、その恩義には、愚生の非力ゆえに報えていない。
本著中「峠の文化としての春夏秋冬ーあるいは『ずれ』といふ誤解について」では、二十四節気は「決め事としての季節」観なのだ、愚生もそう思い始めていたところだったので、素直に納得した。それゆえまた、決め事にしかすぎないのだ、ということも。「ずれ」というからズレる。立春は寒いのだ。それ以上でも以下でもない(年齢を加えてきたり、とくに俳人は季節を先がけ、先取りするよう洗脳されてしまっているような・・)。
ともあれ、波多野爽波や田中裕明のことを語る牙城の語り口は愛に包まれている。
牙城が「龜が哭いた」で、
どんな例を持ち出してもいいけれど、彼の俳句には、季語を充分に咀嚼してゐる者ににしか近寄れない奥行きがあるのだ。爽波俳句を分からない。難しいといつて遠ざけた俳壇と、裕明俳句を老成してゐるといつて遠ざけようとしてゐた俳壇の趨勢は、同じ根にあると僕は思つてゐる。
というとき、愚生は(俳壇には疎ったのかも知れないが)、ほんとうにそうだったのか、と少し不思議に思うのである。攝津幸彦とおなじように、かくれフアンも多かったのではなかろうか、そうでなければ、彼等の死後の作品の伝播はありえない。
2017年2月11日土曜日
蜂谷一人「ゴム飛びの脚を浮かせて春の風」(第31回俳壇賞)・・・
昨夜は、本阿弥書店俳壇賞・歌壇賞の授賞式と懇親会がアルカデァ市ヶ谷で開催された。
こうした席に参加するのは、実に久しぶりで、長い間会っていなかった小池光や三枝昂之、そして佐佐木幸綱。その子息の佐佐木頼綱が第28回歌壇賞を受賞した。ちなみにもう一人の歌壇賞は大平千賀、そして第31回俳壇賞が蜂谷一人。懇親会のくじ引きの番号引きで忙しかった夏井いつきにもしばらくぶりで会った(ハイタッチした)。
いつもよりも参加者が多く盛会で、愚生はすこし遅れて行ったせいか、料理はほとんど食べつくされてしまっていた(空腹・・・)。
ともあれ、以下に授賞者の作を挙げておこう。
身に星を宿して烏賊の裂かれけり 蜂谷一人
夕闇に小さなひかり交わしあう被害者の窓加害者のまど 大平千賀
刑死せし自由主義者の皇帝ののち問はず食む太刀魚 佐佐木頼綱
『二月の雲をそばにおきその体を叩きたい』(首くくり栲象・2月の庭劇場)・・
ここ二三日、愚生のブログへの首くくり栲象(二・三回彼について書いている)の記事へのアクセスが愚生のブログにしてはその数が急増している。
原因はよくわからないが、彼から2月の庭劇場の案内メールが届いたので、観に行かれる方があればと思い、以下に転記することにした。
さくねんの夏だ。富士の裾野の森にいた。間近ゆえ森の中ゆえ富士山は、木々に視界を阻まれて見えなかった。わたしはかって深いマグマから噴出したであろう溶岩に腰かけていた。蝉の群声は鞴の呼吸のような間あいで森のぜんたいに遊覧していた。巨大な雲も。
テイプルの上のコップに挿したる薔薇は、赤い花弁を垂らしている。その脇に小さな蝋燭が灯り、短い線香が一筋の煙をのぼらせている。いまこの庭劇場の庭で眺める雲は二月の雲。あの雲を間近におき、間近で叩けばさくねんの、過ぎた巨体な時間へと谺するだろうか。
●2月の開催日と開演時間
〇22日(水曜日)夜7時開演
〇23日(木曜日)夜7時開演
〇24日(休演)
〇25日(土曜日)夜7時開演
〇26日(日曜日)夜7時開演
開場は各々十五分前
〇雨天時も開催
〇料金→千円
〇場所→くにたち庭劇場
◎庭劇場までの道筋
中央線国立駅南口をでて大学通りの左側を一直線に歩き、二十分ほどで唯一の歩道橋に出ます。そを左折する。右側は国立高校の鉄柵で、鉄柵沿いに歩いて三分ほどで同高校の北門に到達します。その向かいの駐車場(赤い看板に白抜き文字で『関係者以外立入り禁止』の文字が目印です)に入って下さい。左奥で、木々の繁みにおおわれた、メッシュシートで囲まれた、平屋の中が庭劇場です。
>なお国立駅と向かい合っています南武線谷保駅からですと、谷保駅北口をでて国立駅方面へ大学通りを直進。七分ほどで唯一の歩道橋に着きます、こんどは右折し、以下国立駅からと同記述です。
首くくり栲象
電話090-8178-7216
メールアドレス kubikukuritakuzou.japon.kooi@ezweb.ne.jp
庭劇場:国立市東4-17-3
http://ranrantsushin.com/kubikukuri/keitai/
2017年2月7日火曜日
芭蕉「田一枚植えて立ち去る柳かな」(柴田雅子作『やさしい芭蕉さん双六』)・・
柴田雅子作『やさしい芭蕉さん双六』(発売・岩波ブックセンター信山社、税込み500円)を贈っていただいた。『やさしい芭蕉さんかるた』につぐ第二弾。作者は日本伝統俳句協会会員で、著作には『俳句、創ってよかった中学生の十二ヶ月』(日本エディタースクール、平成7年刊)、その後『随想 優しい芭蕉』(岩波ブックセンター信山社)などがある。
愚生との縁はご主人だった柴田信を通じてである。
柴田信は、かつて池袋にあった芳林堂書店店長、コンピュータ管理の片鱗もないときに本に挟まれた短冊のひとつひとつを日々集計し、書店界の単品管理に道を開いた人であった。その後、岩波書店の子会社だった信山社ブックセンター入られた。愚生が『本屋戦国記』(北宋社)を出版した時には、業界人のそれも経営者側の人でありながら、最初に書評をしてくれた人だった。
愚生の娘も学生時代に、書店でのアルバイトとしてお世話になった。娘が言うには、その頃、学生ではとても行けないような店にみんなを連れて行ってくれたり、よく、声をかけてくれたそうである。その柴田信が昨年、10月12日に急逝したのは新聞の訃報欄で知った。享年86。しばらくして、東京新聞「大波小波」で、店が閉店になることも知った。
思えば、70年代後半から80年代の書店労使ともに激動の時代であったにもかかわらず、双方から信頼厚き人であった。急逝されるまで、神田神保町の発展に色々尽くされていたと聞いている。
便りには、虚血性心不全での急逝がいまだに信じられないとしたためられてあった。あらためて柴田信のご冥福をはるかに祈る。合掌。
2017年2月3日金曜日
池田澄子「啓蟄の稲荷寿司から紅生姜」(「ふらんす堂通信」151)・・
ふらんす堂通信・151の特集は「ふらんす堂30周年特別連載・競詠七句」。競詠者は後藤比奈夫・深見けん二・池田澄子。競詠七句の扉には「お互いに兼題を出し合い、そのしばりで競っていただきます」とある。ひねくれ者の愚生は「そのしばり」というのが、すこし気に入らない。他には野村喜和夫と髙柳克弘の「スペシャル『エロス』対談」というなかなか中味の濃い記事もあって、そちらの「しばり」であれば、不自由の極致の美もないではないが、俳句で用いられる題詠という「しばり」は実は、俳句を自由自在に書く(詠む)ためのもっとも有効な手立てだからだ。むしろ、何の題もなく、自由に書いて(詠んで)下さい。自由律ならなお結構です、と言われたりした方が、俳句をなすには、はるかに不自由で難しいことなのである。
とはいえ、「ふらんす堂通信」の他の連載記事も充実している。執筆陣は吉増剛造、神野紗希、杉本徹、髙柳克弘、岸本尚毅、関悦史。
そして、今号の特別寄稿・杉山久子の文中、
「でも本当にひやかったんよ。友達の〇〇ちゃんがぴーぴー泣きよったからおかしゅうておかしゅうて・・・」
の山口弁に思わず懐かしさを覚えてしまった。愚生は18歳で故郷山口を出奔。ほとんど帰郷することもなく、半世紀が過ぎ去った。それでも年をとってきたせいか、山口弁が記憶の底からふと出てきて、口からこぼれることがあるらしい。まさに故郷は遠きにありて思うものだ。
それにしても、ふらんす堂が設立30周年とは・・・、社主・山岡喜美子を牧羊社時代から知っている愚生としては、他人事なれど、いくばくの感慨がある。娘御の有以子は、二代目を襲う気概あり、今後の詩歌の道のためにもふらんす堂の健在を祈りたい。
ところで、冒頭の競詠七句の兼題は「去年今年」「啓蟄」「菜」だった。無作為に各人一句を挙げておこう。
去年今年きのふとけふが雑り合ひ 後藤比奈夫
いただきし便り宝に去年今年 深見けん二
明けまして兎にも角にもよく噛んで 池田澄子
2017年2月1日水曜日
伊丹三樹彦「大枯野兵馬いく夜も鉄路の上」(『わが心の自叙伝』)・・・
伊丹三樹彦、1920年兵庫県伊丹市生まれ。本名・岩田秀雄。別号写俳亭。
『わが心の自叙伝』(沖積舎)は、神戸新聞に連載されたものを一本にまとめた著書だが、現在もなお連載は継続中だという。巻末には新作「思郷三木」50句と「自筆青玄前記抄」が収められている。集中「乳房願望ー母乳に記憶のない幼少時」に、
思えば僕のペンネームは、三木町の町名ではなく、母校名に由来している。
とある。そして、「初めての句会ー仰ぎ見た新興俳句の先達」では、
俳句を作り始めたのは十三歳の正月だ。日記に「予は俳人として世に立たんと欲す」などと大袈裟に(おおげさ)に決意を書いた。(中略)
仕舞屋で十人足らずの連衆が座敷にいた。当主の山本雄示(ゆうじ)が指導格だった。
計らずも、この人の名は日野草城主宰の俳誌「旗艦」で見覚えがあった。度の強い眼鏡をかけ、柔和な表情の持ち主で着物姿だった。
青い蛾(が)が粥(かゆ)の渚(なぎさ)で遊んでいる
そんな自作の色紙を見せてくれた。まさに新興俳句の先端を行く作風ではないか。こんな鍛冶町の一隅に、かかる異色俳人がいたのだ。
と回顧している。三樹彦は、その後の縁で長谷川かな女の「水明」で岩田笛秋(てきしゅう)の名で、年少俳人として可愛がられる。恩義ある「水明」に配慮して「旗艦」に入る際に、ペンネーム変えて別人になるのだ。それが、伊丹で生まれ、三木町で育ち、母校の小学校が三樹小学校だったから「伊丹三樹彦」になった。当時の「旗艦」には三樹彦のように変名による出句者が少なくなかったという。
俳人の廣岡微風、詩人の鷲巣繁男や千早耿一郎、写真家の芳賀日出男、映画監督の和田矩衛(のりえ)ETC.
とある。そして、
三樹彦の実母の一文字しんのこと、実父は岩田幸吉。宝塚市は小林字堀切の農家の次男だった。婿養子としての初婚再婚も続かぬまま、三度目には伊丹で芸者をしていた増井つねと同棲するに至った。生後間もない僕は、つねの父母である三木の増井藤太郎、キク夫妻や、妹夫妻の増井玉枝、栄吉の許に預けられた。臍でつながったしんを知らぬまま育った。しんとの初対面は軍隊時代になる。
と記している。波乱の幼少期である。
臍覗(ほぞのぞ)く 薄倖の母在りしこと 三樹彦
その伊丹三樹彦と愚生の初対面は愚生が現代俳句協会に入ったばかりの頃(20年くらい前かな?)、総会後の懇親会で、挨拶をしたら「君は、俳人らしく見えないな・・・」と返ってきた。もっとも愚生よりもっと俳人らしく見えなかったのは、カメラを二つぶら下げていた当の伊丹三樹彦のほうだったと思うのだが・・。