2017年6月14日水曜日

摂津よしこ「黄落の幹のいづれに隠れしや」(『大阪の俳人たち7』より)・・



 大阪俳句史研究会編『大阪の俳人たち7』(和泉書院・上方文庫41)には、次の俳人たちが収められている。高浜虚子(小林祐代)、川西和露(わたなべじゅんこ)、浅井啼魚(久留島元)、尾崎放哉(小林貴子)、橋本多佳子(倉橋みどり)、小寺正三(小寺昌平)、桂信子(中村純代)、森澄雄(岩井英雅)、山田弘子(黒川悦子)、摂津幸彦(伊丹啓子)。カッコ内は執筆者。序文は宇多喜代子。
 ここでは、摂津幸彦の章のみを取り上げる。
 伊丹啓子は本書執筆を一度は断り、摂津の初期中心でよければと条件を出して執筆したという。それが良かったように思う。伊丹啓子が摂津幸彦を俳句に誘った事情や、当時の「青玄」に拠っていた坪内稔典をはじめとする俳句状況が伊丹啓子の証言として浮上しているからだ。それは、愚生が知らなかった詳細が明らかにされているからでもある。摂津幸彦の若き日を彷彿とさせてもいる。例えば、同じ関西学院大学にいた摂津の風貌について以下のように記している。

 だが、摂津はそんなキャンパスの点景として見てもおかしくない風采をしていた。初会の頃の彼は、黒いとっくりのセーターに紺色のブレザーを着ていた。色は黒かったが、長身で、痩せていて、首がすっくと立っていた。話し方は鷹揚な関西弁だ。ともかく茫洋とした人物だったが、遠くを見据えるような視線が印象的だった。

愚生が摂津幸彦に会ったころはすでに恰幅がよかった(痩せていたんだ・・・)。
また、摂津と学内句会の帰路で、阪急甲子園駅へ歩いて下ってくる別の場面では、

 摂津 「このごろ神経衰弱でな。」
 伊丹 「へぇ、神経衰弱ってどんなん?」
 摂津 「たとえば夜寝るときに、冷蔵庫に苺が残ってたのと違うやろかと考え出す。そしたら、その苺を食べてしまわんといかんのと違うか、と思う。そしたら、どうしても寝られへんのや。」
 伊丹 「ふうん。」

(中略)

摂津の服装もアースカラーのジャンパーに変わったりもした。けれども彼は首が立っていたのでジャンパー姿はあまり似合わなかった。因みに、当時の坪内の服装ときたら、よれよれのズボンにジャンパーを引っ掛け、素足に下駄履き。やや俯き加減に歩く姿が立命大生にふさわしかった。立命館の校風は関学に比して庶民的だったし、学生運動も関学より過激だった。

 さらに「青玄」時代の句会とは「青玄クラブ」での句会のことであり、結社の基金で阪急塚口のアパートを借りて「青玄クラブ」と称し、地方からの宿泊と歓迎句会が行われていた。住み込みの管理人も「青玄」の独身者から選ばれたという。結果的に当時の「青玄」、結社から離れ、同人誌「日時計」を創刊した。その代々の管理人が、同人だった矢上新八、穂積隆文、坪内稔典、立岡正幸らで、沢好摩(当時)も一時期は滞在したという。また、大本義幸「すてきれぬ血族 ここにも野すみれ咲き」の句を引用して、

 大本義幸も十代の頃「青玄」に所属した。川之石高校での坪内の後輩に当たる。二十代の頃、クラブ句会にきたこともあるが、当時は住居を転々としていた。摂津の「豈」創刊に関わり、彼の最後に至るまでの同志である。

と記されている。そして、

 摂津はクラブの句会に何度か出たが、ついに結社に所属することはなかった。だから『青春俳句の60人』に彼の句は掲載されていない。句会で突飛な(悪く言えばトンチンカンな)質問をする。摂津には、場の空気を読んで和気藹々と交際せねばならぬ結社という場は所詮無縁だったのだのだろう。


 摂津の知られざる二十歳が見えてくる。興味のある方は本書に直接あたられたい。ブログタイトルの句は、摂津幸彦の母・よしこの句である。摂津よしこは「草苑」の俳人であった。摂津の好きだった映画界に進んだり、まして俳句の道に入ることは反対していたというが、息子の幸彦を亡くしたときの句は悲痛にして絶唱である。自分たち夫婦が生前に買い求めた墓に、よもや息子の幸彦が先に入ることになるとは夢想だにしなかったはずだからだ。

     十月十三日長子幸彦逝く
  秋茄子長子の逝つてしまひけり    摂津よしこ(『珈琲館』)
  黄落の幹のいづれに隠れしや




 

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