2017年9月30日土曜日
髙柳重信「目醒め/がちなる/わが盡忠は/俳句かな」(「現代俳句」10月号より)・・
第41回現代俳句講座に澤好摩「髙柳重信と多行表記」の講演録が掲載されている。多くの俳人が多行表記の俳句に慣れ親しんでいないと洞察して、じつに平易に、丁寧に高柳重信の俳句を語っていた。冒頭には、
実は「多行形式」と「多行表記」ではだいぶ内容が違っております。「多行形式」と言いますと、もともとあります「俳句形式」と対立するものと思われ、逆に、多行をあまり快く思わない人たちからは、俳句とは別ものとして括りだされてしまう恐れがある。そこで私は注意深く、「多行形式」と「多行表記」を使い分けて、というより、「多行形式」とはあまり言わないようにしてきたわけです。
と述べ、講演の終わり近くでは、
(前略)多くの人は髙柳重信を前衛派の人だと思われていますが、重信は前衛ではありません。むしろ俳句作品史を引き継いで、かつそれを更新するために、新しい方法論を生み出した。またイマジネーションを重視してロマネスクな世界を書き留めながらも、方向的には決して詩、いわゆる現代詩というものに近づくことはなかったんです。俳句形式の名誉を守るべく常に鋭意努めている人でした。それに、伝統派と目される俳人も非常によく理解していて、優れた作品に対する読みも的確でした。もっと言えば、俳句の、真の意味での「目利き」でした。
と、正しく述べている。だから髙柳重信は、いわゆる前衛派と言われた作品については、いわゆる伝統派に対するよりも、厳しい批評をした。自分こそ言葉の正当な在り方において、もっとも伝統的だと思っていたのではなかろうか。
澤好摩は髙柳重信編集長時代の「俳句研究」を長くその膝下で支え、髙柳重信亡き後の数年間は(富士見書房に売却されるまで)、三橋敏雄、高屋窓秋、阿部完市、藤田湘子などとの合同編集体制時の、その実務を、あたかも髙柳重信が存命中であるかのように忠実に実行していたのだ。
澤好摩、昭和19年、東京生まれ。
船焼き捨てし
船長は
泳ぐかな 重信
明日は
胸に咲く
血の華の
よひどれし
蕾かな
かの日
炎天
マーチがすぎし
死のアーチ
飛騨の
山門の
考へ杉の
みことかな
デュランタ 撮影・葛城綾呂↑
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