2018年5月4日金曜日
井口時男「五月晴れ過失自死なる死もあらん」(『をどり字』)・・・
井口時男第二句集『をどり字』(深夜叢書社)、集名に因む句は、
をどり字のごとく連れ立ち俳の秋 時男
「踊り字」には、パソコンの文字変換では出ない文字がある。とくに愚生のようにパソコン操作に習熟していない者にとっては特にそうである。例えば「へ」の字の縦に長くなったようなものとそれに濁音が加わった字はそうだ。著者「我が俳句ーあとがきを兼ねて」に記された「二の字点」もそうである。その中に、
タイトルも『をどり字』とした。わたしの目には、「おどり」はちっとも踊っていないが、「をどり」はたしかに踊っているのだ。その愉しさが句集名の理由だが、いささか大げさに付け加えれば、消えゆく可憐なものたちへの愛惜であり、反時代的文字美学の実践でもある。
と記されている。また、その冒頭には、
『天來の獨樂』以後、二〇一五年五月から二〇一八年三月までの句を収録した。
「天來の獨樂」としての、つまり思いがけず入手した「愉しき玩具」としての俳句との「真面目な戯れ」は、すっかり私の日々に定着したようなのだ。この小さな玩具は、愛撫するに手ごろで、虐使によく耐えてくれる。
ともある。短歌の革命を意図した啄木の「悲しき玩具」のパロディ―のような名づけだが、愚生には、まだまだ、反語にしても、なかなか愉しめないでいる自身がいることに、煩悩している在り様である。
本書には、句のほかに随想6編が収められているが、中では、「久保田万太郎の『なつかしさ』が読ませる。「歎かいの人」と言ったのは、たしか芥川龍之介だったと思うが、そのあたりの機微は井口時男にも底流しているのかもしれない。ともあれ、本集より、愚生好みの句を以下にいくつか挙げておきたい。
秋の夜の濡れ吸殻や思惟萎えて (金子兜太による)
初空や化鳥のやうな凧ばかり
蟬として目覚め蟬として啼くばかり
つゞめれば「あゝ」の二タ文字五月雨(さみだれ)れて
先触れがことに悪声寒鴉
シェーンベルクの管弦きしる北は雪
二〇一八年一月二十二日。初雪が大雪となったこの日夕刻。西部邁氏が昨日多摩
川に入水自殺したとの報知あり。現場は我が住居より十キロほど下流。私は氏の
主宰する「表現者」に三年間にわたる連載を終了したばかりだった。
多摩川に無神の自裁雪しきり降る
内子町
木蠟や紅葉をせかす山の霧
諏訪大社
雨ざんざ昨日立ッたる御ン柱
清津峡
たをやかに峡(かひ)を守りて谷うつぎ
撮影・葛城綾呂 パンジーゼラニウム↑
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