田巻幸生エッセイ集『生まれたての光ー京都・法然院へ』(コールサック社)、心に沁みる解説は淺山泰美「うつくしい奇跡」、その結びに、
三十歳までしか生きられないだろうと言われた幸生さんは、この三月、めでたく古希を迎えた。医師からは奇跡だと言われたそうである。うつくしい奇跡はきっと、この先も続いてゆくに違いない。
とある。そうした病に加えて、著者の「三月九日ーあとがきにかえて」では、
ニ〇一一年、高校の司書を退職した年に死と対峙する手術を二度した。やっと起き上がれた翌年、八千代市のエッセイの会と、ふるさと、京都に本部があるという理由だけで短歌結社「塔」に入会した。この六年間に書き溜めた文、短歌、写真をと欲張った本になった。
と記されている。本書には、エッセイの最初に著者の短歌が多く添えられており、ブログタイトルに挙げた歌には、以下のエッセイが続く。
(前略)法然院。谷崎潤一郎の墓がある寺で有名だが、潤一郎の墓のすぐ近くに、歌人で実業家の川田順の墓がある。(中略)妻を亡くされ六十三歳の時に、短歌の弟子として鈴鹿俊子と出逢う。彼女は京都帝国大教授夫人で三十六歳。三人の子供の母であった。姦通罪がある時代、若い俊子の情熱に押されて二人で出奔。当時、皇太子の短歌指導者であり、三大新聞歌壇の選者でもあったので「老いらくの恋」と新聞に書き立てられる。彼は恋を終わらせようと自殺を計る。それも法然院の妻の墓に頭を打ち付けたそうだが、友達が駈けつけて未遂に終わる。俊子の離婚が成立し、一九四九年、順、六十八歳、俊子、四十一歳。京都を離れ子供を連れて結婚生活に入る。
愚生は、18歳から3年間、京都は百万遍の学生寮で暮らしたことがある。法然院には、散歩がてらに、よく行った(当時は、哲学の道も整備されておらず、拝観料もなく、訪れる人も少なかった)。雪の降る日、その雪景色も素晴らしかったが、谷崎潤一郎の墓(確か「寂」の文字が刻まれていた)の前で、夫人の谷崎松子に偶然お会いした。お供の人が一人おられたが、愚生は、その墓前にいたにすぎないのだが、お参り有難うございます、と挨拶されたのをよく覚えている。四季折々、紅葉も格別だった。もう50年も昔の話だ。ともあれ、本書中よりいくつかの歌を挙げておこう。
ふるさとのおけら火廻す初夢の八坂神社の父母若し 幸生
路地路地に虹の切れはし確かめて府庁前にて虹に追いつく
歳月が葡萄のように熟れてゆくつかめぬ風を追いかけるうち
朝七時「生きてるぞコール」の九年半父の電話は二月に途絶え
ハイハイからバイバイまでの人生を忘れたふりして花殻を摘む
公演のベンチはどれも剥げたまま雲の数だけ影がうごめく(コニーアイランド)
岩々より湧き上がりたる風の音は三億年まえの海のさざ波(ラスベガス)
田巻幸生(たまき・さちお)、1948年、京都市生まれ。
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