2018年8月9日木曜日
大井恒行「刑死あり烈暑豪雨下なりまかる」(「東京新聞」8月8日夕刊・辺見庸の記事に)・・・
昨夕、8月8日付け東京新聞夕刊に、辺見庸は「人びとはこれを望んだのかー『オウム全死刑囚の執行終了』気づかざる荒みと未来」と題された論を書いている。先日の「ジャム・セッション」(編集・発行 江里昭彦)を読んだときもそうだったが、実に鬱勃たる気分は消えないでいたところ、そのわけを辺見庸は、まるで愚生の非力な脳を覚醒させるべく、よく分析し書いてくれている、と思った。以下に引用するが、より興味のある人は、当の新聞を読んでもらいたい。書き出しは、
さながら古代である。計十三人の処刑が終わった。紀元前十八世紀のハンムラビ法典の言葉がよぎる。「目には目を、歯には歯を」。石を噛むようなおもいがいつまでも消えない。わたしたちはこれを真に望んだのだろうか。(中略)
死刑の執行とは、美しい観念や崇高な思想の実践ではない。いくら改心しようが生きたがっていようが、一切問答無用の、リアルな生身の抹殺である。言葉と声、身体の公的な抹消ーそのような行為を、わたしたちはそれぞれの実存を賭して、わが手を汚してやっているのではない。刑務官にやらせているのである。われわれはもっと狼狽(ろうばい)し、傷つき、苦悩すべきだ。(中略)
人はここまで荒(すさ)むことができるものか。死刑反対、賛成の別なく、人命に対する畏れとつつしみをなくしたら、人間はもはや「人間的」たりえない。オウム真理教というカルトは、人命への畏れを欠くことにより、国家悪を一歩も乗り越えることができず、奇形の「国家内国家」として滅んだ。あの「ポア」の思想は、国家による死刑のそれと劃然(かくぜん)とことなるようでいて、非人間性においてかさなるところがある。上からの指示の忠実な実行、組織妄信、個人の摩滅、指導者崇拝という点でも、オウムは脱俗ではなく、むしろ世俗的だったのであり、われわれの”分身”であったともいえる。(中略)
かんたんな道理がとおらなくなってきた。たとえば「人にしてもらいたいと思うことはなんでも、あなたがたも人にしなさい」(新約聖書「マタイによる福音書」)あるいはその逆の「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」(『論語』)といったあたりまえの黄金律も乱暴に無視されることが多い。このたびの死刑もそうだ。わたしはこれをまったく望まなかった。望まないにもかかわらず、執行された。(中略)
確定死刑囚とは何か。確定(・・)とはんなにか。かれらは人間ではないのか。それは古代ローマ法にいう「ホモ・サケル」とどうちがうのか。いっさいの権利を奪われた「剥(む)き出しの生」と、いったいどのようにことなるのか。答えられないのに、議論もせず、殺すことがなぜ赦(ゆる)されるのか。(中略)
被害者感情と死刑制度は、ひとつの風景にすんなりおさまるように見えて、そのじつ異次元の問題である。前者の魂は、後者の殺人によって本質的に救われはしない。わたしは死刑制度に反対である。それは究極の頽廃(たいはい)だからだ。
愚生はたぶん、自分の肉親や子ども,あるいは愛する者が殺されたら、その当の相手を殺そうと思うだろう。癒されることのない憎しみを抱くだろう。そして、自分で相手を殺し、たとえ自分が獄に下ったとしても、自分の心はついに晴れないだろうと思う。むしろ、憎しみの対象が居なくなることにおいて、愚生はその後の憎しみを生きることができなくなる。憎しみ続けるためには当事者に生き続けてもらわなければ困るのだ。つまり、相手を抹殺しても自らのこころは救えない、救われない、それだけは想像できる。いかなる意味においても暴力的に、一方的に他人の命を奪うことによっては、ましてや国家による殺人制度としての死刑では、少なくとも自らの未来も、自らが存在する社会にも、望むような未来はこない、と思える。
現在、麻原彰晃の信者がどれだけいるかもしらないが、この死刑がいくばくかの政治的な(愚生には想像もできない)執行であったとしも、麻原彰晃の死は、その信者たちにとっては、殉教の死であり、麻原が人間からほんとうの神になることにほかならない。オウムは死せずである。その意味では、死刑執行は最悪の選択だったかもしれない。
刑死あり烈暑豪雨下なりまかる 恒行
撮影・葛城綾呂 セミの羽化↑
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