2018年12月23日日曜日
白木忠「一月の竹のまつすぐなるを泣き」(「韻」第29号より)・・
「韻」第29号(韻俳句会)のなかに、「時代のつれづれに今、白木忠の声を聴く」(白木忠遺稿より)があった。注には「執筆年月日は不明だが、韻発行所に遺されていた遺稿より転載した」とある。愚生の若き日、坪内稔典の「現代俳句」(南方社)?だったか、白木忠特集のために、白木忠論を書いたことがあるが、今となっては、じつのところ何処に何を書いたのか、はっきり覚えていないのである。その遺稿に、彼は自句について、
寝姿を真似て地獄のなかにゐる 白木忠句集『暗室』より
(前略)誤解をされないためくどくどと書くのであるが、寝姿を真似ることが作中における作者の肉体的事実でなくてもよいのであり、作中の作者が対象に対して真似るのは肉体をもってしても、観念的であったとしても何ら真似るという事実に変わりはないのである。たとえばに日常的に使われる伝達の事実であっても言語表現として存在する場合は、たんなる事実を超えるときがあり、それは、伝達的に使われた事実が上下の言語関係によって転倒したり、歪められたとき伝達の言語としての域を超えるのである。
伝達だけの言語表現であれば〈私〉を超える、つまり観念的自己という自己分裂は関与してこないのである。寝姿を真似るという事実を捉えるとき、読手の〈私〉は現実の自己を離れた観念的自己によって作中の作者と出会い、その寝姿を追体験するのである。(中略)句中にいるのは〈私〉ではなく作者なのである。かといって全く無関係ではなく、句中の作者をあやつる現実の〈私〉とは深く関わるのであり、ここで一つの〈作者〉と〈私〉の転倒があると言える。
と示唆的に述べている。他に、後藤昌治「長い時の流れの中」(十二)は亀山巌をめぐる豆本のエピソード、何と言っても、志摩聰(じつは原聡一)についてのことが記されているが、もはや、志摩聰のことを語る人も皆無に近くなってきた今日、彼の詩的行為、作品についての実に貴重な証言であり、まるごと引用したいほどである。ここでは3句のみを引いて供しておこう。
白鳥ヲ
蹂躙スル
あだりんノ
まんどりん
黄体説Ⅱ(黄陰説)
黄彌勒(コウミロク) 黄旗干鰈(コウキヒカレイ) 黄紙幣(コウシヘイ)
絵本ヲ引ク犀 苺じやむヲ煮ル汽罐車ヤ
ともあれ、同誌より一人一句を以下に・・・。
会ふ前の我は逢ひてのちの滝は 片山 蓉
稲刈り機死んだ男の田に動く 金子ユリ
かまつかや紅テントから李麗仙 川本利範
夜学性非常階段より帰る 児嶋ほけきよ
遠景のビル灼けてをり思惟のうち 後藤昌治
覚醒か仮死かしぐれにうづくまる 佐佐木敏
釘打って母は独居へ沈みゆく 谷口智子
研がれ目覚めて冷まじへ駛走せり 千田 敏
危ふくも霧を抜け出て草毟り 寺島たかえ
合歓の花忘れてしまふ影のこと 永井江美子
誰がために朽ちて愛しく萩の花 廣島佑亮
穭田の青々のびる虛穂(うつほ)かな 前野砥水
忘却の手前に忘我をの凌霄花 森千恵子
形式の内なることば心太 山本左門
野菊抱き見えぬ明日を見てをりぬ 依田美代子
泥手にて扱き蓮根の泥おとす 米山久美子
水澄めり神馬のまつ毛長かりし 渡邊淳子
向日葵を刈りつつ焦げる生きのこる 小笠原靖和
白木忠(しらき・ちゅう) 1942年~2012年 享年70。岐阜県生まれ。
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