2019年1月15日火曜日
樋口由紀子「コンテナがもれなくついてくる情緒」(「晴」第2号)・・
「晴」第2号(編集発行人・樋口由紀子)、前号の作品評を山田耕司「見上げれば、空は〈晴〉」が書いている。前号の樋口由紀子「冷凍庫に蛸の頭を補充する」「綿菓子の必要以上に巻く事情」の句をあげて、
(前略)さて、これらの作品は、自らに果たしているさまざまなシバリの果ての結果であることも忘れてはならない。ひょっとしたら、樋口由紀子は、川柳を書く行為を楽しんではならない、と自らを戒めているのかもしれない。あるいは、「ああ、あるある」という他者との共感の回路をあえて塞ごうとしているのかもしれない。
ともあれ、マッス(大衆)がなだれこむ意味回路から距離を置き、シバリを個人単位において課してゆくことは、川柳という形式の内部を安易にまとめて飲み込まず、むしろ、常に革新させていこうとする姿勢の現れであるのかもしれない。
と記している。この川柳、大衆については、無縁とは思えない月波与生が「いま『現代川柳論』を考える/分断される川柳、接続する川柳」と題して論を展開している。それは斎藤大雄「現代大衆川柳論」について批評しているのが、その結びの部分に、
『現代大衆川柳論』は、「わかる川柳、わからない川柳」に分断してしまい「わかる川柳が現代大衆川柳である」としたところに、最初の躓きがあった。それを当事者目線ではなく神の目線のような上位から論じたところに次の躓きがあった。
川柳を分断していくのではなく、この時代を共に生きる者同士が接続するためのツール、つながっていくための方法として川柳を書く、川柳を読む。そのことを意識的に進めていくことが現代大衆川柳のはじめの一歩になるのではないかと考えている。
と、これも誠実に記されているのであるが、門外漢の愚生としては、どうもよく理解できないところがある。「大衆川柳」の「大衆とは何か」という規定のないままのせいか、「大衆」のイメージの違いが見えてこないウラミを残しているのではなかろうか。たしかに「わかる川柳が大衆川柳である」という言い方も相当に乱暴な言い方でもあるが・・。 ともあれ、以下に同誌より一人一句を挙げておきたい。
おぼれてもおぼれなくても海である 松永千秋
報知器が鳴らぬ善人から燃やす 月波与生
うんちくで磨かれている五七五 水本石華
国境にやっと天つゆゆきわたる 樋口由紀子
厄介をかけますお豆腐の角へ きゅういち
助っ人の助っ人になる木が折れて 広瀬ちえみ
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