「藍生」2月号(藍生俳句会)は、特集「渡辺京二と石牟礼道子」である。執筆者は、季村敏夫「過ぎ行く者となりなさい」、米本浩二「もうひとつの『カワイソウニ』」、白井隆一郎「狂女と狂児」、齊藤愼爾「涙の意味をめぐってー石牟礼道子さんと渡辺京二さん」、石内都「石牟礼道子さんの手足のゆくえ」、恩田侑布子「石牟礼道子の俳句ーふみはずす近代」である。なかでも愚生は季村敏夫の語りに、
(前略)この世のものとはおもえないつつましさ。苛烈な戦いの源泉である。速度というものをまったく感じさせない、ゆったりとした物腰。ていねいな句帳。「あのときはほんとうに、大変でございましたでしょう」、おもいがけない激励、即座に応えられず、うなだれた。(中略)石牟礼さんの声の響き、「ございましたでしょう」、語尾の「でしょう」、このやわらかさの意味を今日まで考え続けてきた。生死無常の世にあって出会いはある。そうおもう。
とあった。そしてそれは、かつて阪神淡路大震災に遭った季村敏夫が書肆山田から刊行した『災厄と身体』(2012年10月刊・上掲写真書影)の中に、「死なんとぞ、遠い草の光にー石牟礼道子さんと」があったことにもつながっていた。今、改めて巻末の初出一覧を読むと、それには「『記録室叢書』第一冊、震災・活動記録室、一九九六年九月」とある。それは不知火の石牟礼道子を訪ねたときの、季村敏夫、石牟礼道子、季村範江(「市民グループ・まちのアーカイブ」代表)の会話なのである。
この内容は、阪神淡路大震災から、ほぼ一年後、水俣訴訟の一定の決着が出た(1996年)直後のことである。
石牟礼 国も行政も地域社会も担いませんから、全部引き受け直して自覚的になって、もうゆるす境地になられました。未曾有の体験をなさいましたが、もう恨まず、ゆるす。ゆるさないとおもうときつい、もうきつい。いっそ担い直す。人間の罪をみなすべて引き受ける。こう言われるようになったのです。これは大変なことです。今まで水俣にいて考えるかぎり、宗教も力を持ちませんでした。(後略)
季村(前略)イエスが神から見捨てられ、全能の神であるのに、どうしてこの俺を見捨てるのかと声をあげる。いわば自分を見殺しにした神をもゆるすという、水俣の患者さん達の苦痛の果ての声の姿。まさの既成のキリスト教理解を、遥かに凌駕した精神性だとおもいます。
石牟礼 それでなければもうきつい。病気を抱えているだけできついのに、迫害の歴史でした。差別どころではありませんでした。
人をゆるさない、ゆるさないでは、もう行く先がありません。チッソからも政府からも、地方行政からも裁判所からもね、地域社会からも拒絶されて来て。これまで、もがきにもがいたすえに。そういう人達がでてきたんです。
ともあれ、以下ふいくつか本誌より句を挙げておこう。
さくらさくらわが不知火はひかり凪 道子
死におくれ死におくれして彼岸花
祈るべき天とおもえど天の病む
★閑話休題・・天皇「慰霊碑の先に広がる水俣の海青くして静かなりけり」(平成26年)・(「東京新聞」2月5日夕刊)・・
石牟礼道子つながりで、「東京新聞」2月5日(火)夕刊、永田和宏の毎週火曜日の連載「象徴のうた 平成という時代」(52)に、
患ひの元知れずして病みをりし人らの苦しみいかばかりなりし
あまたなる人の患ひのもととなりし海にむかひて魚放ちけり 天皇(平成二十五年)
(中略)いずれも水俣病の患者に思いを寄せる歌である。
この他に当初お忍びで組まれたもう一つの面会があった。お二人だけで胎児性水俣病患者と会われたのである。母親が妊娠中にメチル水銀を摂取し、胎児期にその中毒を受けた子供たちである。車椅子で、しかも重度の言語障害がある二人の言葉にじっと耳を傾けられ、励まされたという。
この会談は、代表作『苦海浄土』で知られる作家、石牟礼道子さんが皇后さまに出した直接の訴えがそのきっかけを作ったという。社会学者故鶴見和子さんを偲ぶ「山百合忌」は毎年行われているが、そこに出席されていた美智子さまから水俣行きのことを聞いた石牟礼さんが、後日、ぜひ胎児性水俣病患者と会ってやってくださいと訴えたのだいう。異例のことであり、直前まで関係者にも伏せられていたというが、両陛下がこの面会を何とか実現させたいという強い思いからなる計画であったのであろう。
と記事中にあった。
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