2019年3月3日日曜日
彦坂美喜子「海深く目のない大きないきものが反芻している列島の闇」(『子実体日記』より)・・
彦坂美喜子『子実体日記(しじつたいにっき)』(思潮社)、副題に「だれのすみかでもない」とある。栞文は、倉橋健一「口語自由律のあらたな地平へ―今はただその渾沌こそ凝視」、北川透「ポリフォニーのこだまー彦坂美喜子『子実体日記』随感」。詩集のようでありながら詩集と銘打たれていないのは、それが「あとがき」に、
五句三十一音のみが短歌ではない、という自由な発想を敷衍して、型を少し崩せば表現は詩にもなります。
日本語で書くということは、膠着語や等時拍音形式、母韻律、漢字・ひらがな・カタカナ表記など、日本語の特性に作用されます。定型音数律表現も口語自由詩もその日本語の特性の上に成立しています。分節の不適切な切断、屈折した詞と辞の連携、文法の破壊が行われていても、日本語の持つ特性から解き放たれることは無いと思われます。そこにもし日本語のリズムがあるとすればどのような表情を表すのだろうか、そんな問いから子実体日記は始まりました。
『万葉集』以来の和歌や短歌定型も俳句定型も、近代以降の口語自由詩も、いわば日本語が培ってきた遺産といえます。ジャンルの枠組みを外し、その表現の遺産の使い方でもっと広い世界を獲得できるのではないでしょうか。この作品は、私の既存の詩形への挑戦です。
と、言挙げされていることにも関係していようか。それを、北川透は、
ここには意味やイメージを聚合する建築的な意志は、ほとんど働いていない。中心は空洞であり、空洞の中に世界は痛い破片としてある。いや、破片すらないハヘンとして倒れ込んでいる。それを別に言えば、空洞とは遺骸であり、ハヘンとは遺骸に取りついて生きるものたちだろう。『子実体日記』とは、世界の遺骸にとりついて生きる卑小なものたち(それは胞子と化したわたしたちの姿)の、一つの塊りにはならない流れ動く姿のように見える。
と記している。倉橋健一は「主な初出は私たちの同人誌『イリプス』で、(中略)一貫して短歌として発表された」と記しているから、そのかたちを一篇のなかに多く留めている。ブログタイトルに挙げた一行「海深く・・・」も、「私でなくなる」の冒頭の一行であり、その篇の最期の一行は5字下がりに、「涼風が吹くころ海は受精して月の卵が育ち始める」で括られている。それらを帯の惹句に、
アナーキーでどこまでも逸脱していく異質な声たち。詩と歌の解体/生成へ、詩形をめぐる新たな挑戦、30篇。
として掲げている。ともあれ、本著のなかから、もっとも短い一篇を以下に挙げておこう。
生きもののように
(こんやもママはきのうとおなじはなしをする)
三百年前も変わらずここにいて三百年後もここにいるもの
(手首が泣くと赤いカニがたくさんやってきて笑う)
抱えてる卵を吐けば夜空からしろいみるくが降ってくる
(なにもかも皮膜に覆われていく)
白子を口にはこぶ少女の眼の奥に液体窒素の溜まる空洞
(瞬間冷却瞬間解凍自由自在装置付人体)
凍結精子を解凍しているラボの外 窓から覗く無数のこども
(生きもののようにぬめぬめと濡れて)
軽量スプーン一杯の精子かたむけて冷静に冷静に天秤皿は
(欲望の累積債務はヨクボウで決済できると)
ネットから手が伸び舌がのびてくる記述記号が顔になるまで
(クローン猫の販売会社は、同じ毛並みの猫が作れなくて倒産した。)
それぞれの方向むいて笑ってる声のない声目のない視線
(累々と時間だけが積もっていく)
この明るさは今日のつづきの眠らない夜のつづきのままの今日
(アカシアの棘のなかに棲む蟻のように いる)
湿潤な部屋に並んだ数百のベビーベッドの同じ顔の子
彦坂美喜子さんのこの「詩集=歌集」をよくぞとりあげてくださいました!非常に自覚的な韻律詩です。堀本吟。
返信削除ワザワザのコメントを頂き強縮です。大井
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