2019年3月12日火曜日

渡七八「とことわに花の天涯駆けられよ」(「つぐみ」NO、186より)・・



 「つぐみ」NO・186(編集発行・津波古江津)に、津波古江津「追悼 谷佳紀さん~ありがとうございました~」が掲載されている。そしてまた、渡七八は「1月号共鳴10句」に、谷佳紀の遺稿であった作品を、10句中、異例ともいえる以下の4句を選んでいる。

   愛は消えてもそこはまぁ紅葉です   佳紀
   ただ風を思うなるべく小春日の
   紅葉に隠れ石は石のままの夕焼
   紅葉や心が心呼ぶような

 いかにも、谷佳紀らしい句ばかりである。また、追悼文末尾に追悼句が寄せられていたので、ブログタイトルに挙げた以外の句を以下に挙げておこう。

   マラソンの春一番と並走す     有田莉多
   春あかね逝きし谷さんの余韻    津野丘陽
   枇杷の実がちょっとふくれる谷佳紀 平田 薫
   鳥雲に入るごと谷佳紀逝きぬ    藤原夢幻
   僕はねと首を傾げて君子蘭    らふ亜沙弥
   春光のまなざし遠く走るひと    渡辺テル
   谷さんが走る神奈川沖浪裏    津波古江津 

 また、同誌今号には外山一幾が「俳句形式と『楽になる』こと」を執筆している。そのなかに、

(前略)ようするに高柳は、「俳句を書く習慣」の更新時期が来たときに、それを更新するのではなく、「回復」することを選んだのである。それはいってみれば、自らの生にもたらされた新しい状況とぶつかりながら「昨日の僕の手で書き終わったものの繰り返し」を超える新しい俳句を書いていくのではなく、「昨日の僕の手て書き終わったものの繰り返し」をすることを選びとるというような、やや奇妙なふるまいを意味するものであった。『山川蟬夫句集』に見られる試みは、そうした選択によって初めてなされうるものだったのである。

 と興味深く書かれている。これにからめて、伊藤亜紗『どもる体』(医学書院)の「吃音を持つ者がリズムに『ノる』ことで流暢に話せるようになる現象について論じるなかで、同じ幅の単位の反復である『リズム』の法則性に依存し『リズム』とともに運動していることで楽になる状態(運動を部分的にアウトソーシングしている状態)こそが『ノる』という状態であると述べている」(同前)ことを引き合いに出して論証を試みている。



★閑話休題・・原満三寿の松林尚志『一茶を読む やけ土の浄土』(鳥影社)評(「現代俳句」3月号』)など・・・


  谷佳紀つながりで、「ゴリラ」をともに発行していた原満三寿の松林尚志『一茶を読む やけ土の浄土』についての書評が目に留まった。最後に以下のように記してあった。

(前略)だから作者は、六十五歳のとき、柏原大火で類焼し、土蔵暮らしを余儀なくされて、ついには最期を迎える一茶なのだが、それは「やけ土の浄土」であった、と結論する。
 本著にあえて異見を言えば、作者は一茶の小さい生きものへの眼差しを「アニミズム的志向」とするが、わたしたは、仏教の「悉皆仏」の顕現のように思われるが、如何。

 今号「現代俳句」は神野紗希『新興俳句アンソロジー』発行にあたり」、松本誠司「加藤楸邨と私」も感銘深い玉文であったが、何と言っても、川名大「桂郎対と兜子、十対九という誤伝ー第九回現代俳句協会賞選考の誤伝を正すー」は、選考経過について、当時の選考経過資料を駆使して、これまでの誤伝に終止符を打って、事実を明らかにしたものであり、貴重な論である。結びに、

 なお『証言・昭和の俳句上下』(角川書店ー平成十四・三)は語り手の記憶の風化による多くの錯誤だけでなく、語り手によっては意図的な虚飾も含まれている(たとえば、中村苑子ー「昭和三十六年と言う年は現代俳句協会が分裂した年です。その当時、高柳も私も幹事をしていました〈・・・・・・・・・・・・・・〉-傍点部は虚飾)。こうした語り(聞き書き)や評伝等の二次資料を使用する場合は、特にその信憑性に留意する必要がある。

と、念を入れて述べている。


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