2019年5月11日土曜日
村松路生「シベリアのこの月父母も見てをらむ」(「麻」4月号より)・・
「麻」4月号(麻俳句会)は、「村松さんの遺作特集」である。絵画でいえば香月泰男のシベリアシリーズのような句が並ぶ。
夏草に武器投げ出して敗戦す 路生
向日葵の見られて行くや捕虜の列
捕虜寒し監視なければサボる性
雪道を急かす少年監視兵
三日はや流るる捕虜の訃の噂
ラーゲリに帰る雪解の重き靴
百夜外(と)に虱とる捕虜贅の刻
所長来てハンカチ振れりダモイ駅
生き抜きし麦飯もはや美容食
身に覚えあるシベリアの寒波来る
いくつかのエッセイが収載されているが、「巡り合わせ」と題した小文には、
(前略)実践の時の装備は、小銃は持たず、護身用に銃剣(突撃の時小銃の先につける剣)一つだけを携帯し、雑嚢の中にはダイナマイト、導火線、それに万一のときの自決用手榴弾が三発、これが我が工作隊の死に装束であった。(中略)
当時のシベリアの収容所の食糧事情は極度に悪く、飢えと寒さに堪え切れず、比較的労働条件の良かった私たちの収容所でも、千人中七十人位の犠牲者が出ていると聞いた。(中略)
ある日突然に、船の都合か汽車の都合かは「朝令暮改」のお国柄のことだから判らないが、既に労働の出来なくなった病弱の人達の送還に混じって、私達数十人が急遽帰国することになった。夢ではないかと喜ぶと同時に、ナホトカの港を船が離れるまではまた「暮改」に成ってしまうのではないかとの不安がつきまとって離れなかった。
矢張、この帰国の集団の中にも知った顔は一人もいなかった。
何故なら敗戦時武装解除の時点で、日本の軍隊という組織集団を異常に恐れて、まるで麻雀の牌のように全員を念入りに掻き混ぜ、部隊や中隊の細胞組織を完全に破壊して、広いシベリアの各地に分散して送ったとのことであった。(中略)
私は思う(もし、満州の軍事病院での奇跡が起きなかったら?)
(もし、サイパン島転属組の人選の時に健康体であったなら?)
(もし、工作隊で適地に潜入していたら?)
(もし、シベリアで病弱者の送還列車に乗れなかったなら?)
などなど生と死の境を何度も避けることが出来て、今もこの世に八十六歳の生を受けられることは、自分の意志では決して左右する事の出来ない何かがあるのだ、と。
これが巡り合わせと言うものかも知れない。やはり、この命は天から託された大切なお預かり物と思うので、変換するその日までは大切にしなければと何時も思っている。
この村松路生についての紹介に、松浦敬親は次のように記している。
路生さんの本名は村松鐘三。大正十一年四月十九日、静岡県藤枝市の産まれ。句作開始は昭和五十一年四月で、麻参加は平成元年四月である。四月が三つ続いているところが、何やら「嘘のような本当の話」(本号46頁)の〈死神〉を思い出させる。勿論、これは冗談。恐らく、路生さんは自分の生まれた四月が好きだったのだろう。
村松路生、大正11年4月の生まれ月から推測すると、享年96ではなかろうか。ともあれ、本誌本号より、主宰の一句のみになるが、挙げておきたい。
あたらしきたんぽぽけふを生きんとす 嶋田麻紀
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