表現主体がその精神をどこまでも自由にしてこの空っぽな形式にかかるとき、とんでもなく魅力に富む、見たこともない俳句が生じ得るということだろう。
と述べられている。また、青鞋の息女・中川専子(麗女)は、「歳月人を待たず」に、
尾谷という所では一軒家を借りて住んだ。当時の引っ越しの荷物の移動手段は馬車によるものであった。そして、ここ尾谷で昭和二十二年の初冬、私は生まれた。
とあるから、麗女は、愚生より一歳上、攝津幸彦と同齢である。思えば青鞋は愚生らの父親の世代である。そして、
(前略)お世話になった海田へのお礼として、阿部羽音作詞・作曲「海田茶摘音頭」を提供している。昭和三十一年より岡山市・後楽園での茶摘祭には、毎年五月の第三日曜日に、海田地区の皆さんによる茶摘みと踊りが披露され、今年で六十二回目を迎えた。
という。さらに小川j蝸歩「俳縁奇縁(青鞋さんと不舎先生)」には、「平成七年、第二回『西東三鬼賞』の翌日、『綱』の主宰、白石不舎による企画『阿部青鞋と渡邊白泉の旧跡を訪ねて』と題して、岡山県英田郡美作町で講演がなされた」とあり、
津山は西東三鬼により俳句の街づくりを始めて久しい。私はここ美作の地が阿部青鞋により俳句の街になる事を夢見ている。私たちはやっと小さな一歩を踏み出した。しかし、これは夢を実現するための大きな一歩かもしれない。
と結んでいる。本誌20ページの下段には、写真があり、そのキャプションに、「左 阿部青鞋氏 中 清水昇子氏 右 高柳重信氏」とあるが、名前は記されていない。が、昇子と重信の間に見える顔は、若き日の金子兜太であり、重信の右には赤尾兜子が写っている。貴重な写真だ。
その他、多くの地元の関係者の方の執筆、例えば、右手采遊「阿部青鞋と永田耕衣」には、
この間柄は、「刎頸の交わり」と言われた程で、俳句にも共通しているものがあり、二人が同じ題材を詠んでいる句がある。
さびしさや竹の落葉の十文字 青鞋
竹の葉のさしちがい居る涅槃かな 耕衣
青鞋は、牧師だということもあって、「十文字」に深い精神性を感じる。耕衣の句には、禅宗の境地を窮めようとした人の厳しさを感じる。
と記している。また、遠山陽子は「阿部青鞋と三橋敏雄」のエッセイを寄せている。
本書、冒頭の永禮宣子「初めの一歩」を引いておこう。
わが師白石不舎が、生前目標にしていたことに「作州・三俳人の句碑建立」があった。
三俳人というのは、西東三鬼、安東次男、阿部青鞋のことである。
三鬼、次男のことは、津山出身の方でもあり、情報に触れる機会も多いが、青鞋についての知識は、第二回西東三鬼賞俳句大会の後で、住居の跡を訪れるまでは白紙同然、その後も不勉強のままであった。(中略)
その作風は誰にも似ていなくて、俳句は摘みたての魂のように新鮮であった。
とある。いま、若い俳人たちの間で、青鞋って、誰だ!面白い!と少しずつ人気が出てきているらしい。本書は、地元の方々の熱意が伝わる一書である。ともあれ、以下に収録句のなかからいくつか句を挙げておこう。
虹自身時間はありと思ひけり 青鞋
想像がそつくり一つ棄ててある
半円をかきおそろしくなりぬ
日本語はうれしやいろはにほへとち
おやゆびとひとさしゆびでつまむ涙
わが前にくるほかはなき冬日差
コーヒーをのめばコーヒー過去になる
はじめから葱をぬく手が葱をぬく
阿部青鞋(あべ・せいあい)1914年~1989年、享年74.東京都渋谷生まれ。
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