「小熊座」7月号(小熊座俳句会)、武良竜彦連載の「俳句時評」を興味深く読んでいる。特に「八年目の『震災詠』考」は4回目である。前号の「新元号『令和』-天皇制の白髪こそ」も、世の中には祝賀ムードのみが溢れ、まるで全体主義の予兆のようですらあるなかで、
天皇が象徴するのはその季語を含む農耕文化と詩歌文化である。その稲作文化のど真ん中に象天皇制がある。
というもの言いには、かつて、竹内好が「一木一草に天皇制が宿る」と述べたことに通じていよう。天皇あってこその天皇制だが、その天皇こそ天皇制から解放されなければ、人権あるひとりの人間として、天皇自身もまた生きられない。じつは「八年目の震災詠」には、これまで溢れすぎた震災詠もまた、震災を詠まなければ俳人(詩人)ではないというような全体主義的な煽りを思わせるような不快感を、そこに見出していたからなのではないだろうか。公共性と倫理的正しさが強調されればされるほど、それに積極的でない人は、表向きは口をつぐんでいくしかないのが一人の弱い人間である。おっとどっこいオイラは生きている、というふうに生きられればまだしも、精神的な風圧と、それが社会的に大きな声になれば、法的な根拠を拡大解釈されて、その空気感のなかで、権力の弾圧にさらされるのは、かつての歴史が示している。それらの両義性をもって、武良竜彦は、
天皇の白髪にこそ夏の月 宇多喜代子
の句を捉えている。本号の「八年目の『震災詠』考」は、「照井翠」の思索から➀」で次のように記している。
照井翠の『竜宮』所収の俳句は、作者の直接的な心情吐露ではない。創作的〈表現の虚実〉という文学的な自己表出への心的欲求を自己の内部に奮い立たせて詠んだ俳句なのである。そうすることで彼女は凄絶な狂気を孕む惨状から、自己を立ち直らせたのだ。『竜宮』の俳句表現の内面的な強度が、同じような被災体験をした者たちの心を震わせるのだ。
その表現手法の淵源を、照井翠の師事した「寒雷」・加藤楸邨の『野哭』とリンクさせて論じている。俳句が困難なのは、その短さにもよるが、作者の思いの多くを断念せざるをえないからだろう。そうしなければ、現実を契機とする象徴性はなかなか生まれないからでもある。ともあれ、武良竜彦の論に敬意を表して、本誌本号より照井翠と彼の句を以下に挙げておきたい。
双子なら同じ死顔桃の花 翠
亡き娘らの真夜来て遊ぶ雛まつり
改元や蟻が出て来て陽を担ぐ 竜彦
咲き満ちて無きが如くに霞草
★閑話休題・・・朝倉玲子(全労協全国一般三多摩労組書記長)参議院選挙(東京選挙区)、社民党より立候補!・・
開けてビックリ玉手箱ではないが、テレビニュースを見ていたら、どこかで見た顔が・・と思ったら、愚生がかつて,企業を超えて組織される個人加盟の地域合同労組の委員長だったころ、その書記長で実に優れた丹力の持主だった朝倉玲子(れい子)ではないか。企業を超えた地域の労働運動一筋の女性である。趣味は、たしかダイビングで、素潜りでは、日本において、三本の指?に入るくらいの実力の持主である、と聞いた。当時、新設された労働審判制度で、東京都での唯一の女性審判員を務めていた。もとはエースコックでハイヒールを履いての営業廻りによる腰痛を、職業病だと訴え、解雇され、会社を相手取って一人争議として闘った人だ。選挙ポスターには「働く人の笑顔のために」とある。
愚生は、そうした地域合同労組活動から、10年前に足を洗ってしまったので、すっかり、情勢に疎くなってしまっていたが、彼女もいよいよ政治家の道か、と思って少し驚いたのだった。大変お世話にもなった。彼女なら、いかなる権力にも、理不尽な攻撃にも、立ち向かっていくと思う。但し、当選して、国会に行くとなると相当高いハードルだと思う。頑張ろう!!!
ブログ読者より ジャガランタ↑
大井恒行様
返信削除武良竜彦です。
いつも「小熊座」の拙文「俳句時評」を丁寧に読み込んで、的確な論評を、このブログで公開していただき、有難うございます。
連載担当というのは孤独な作業ですが、大井さんのような批評には、励まされております。
わたくしごとですが、わたしが書いた評論が、今年の「第三十九回 現代俳句評論賞」を受賞いたしましたので、ご報告いたします。
やっと念願を果たしたという気持ちと、さて、ここからどこへ、と身の引き締まる思いでおります。
今後とも的確なるご批評にて、ご支援のほど、お願いいたします。
コメント有難うございます。現代俳句賞受賞おめでとうございます。益々のご健筆を祈ります。
返信削除正確には、現代俳句評論賞でした。入力ミス失礼しました。大井拝
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