2019年11月26日火曜日
前田一石「乱舞しているから影は映らない」(「川柳スパイラル」第7号より)・・
「川柳スパイラル」第7号(編集発行人・小池正博)、特集は「短歌と詩の交わるところ」、執筆陣は彦坂美喜子「〈型〉を越えるために」、金川宏「二つの楽器」。彦坂美喜子の文中に、
(前略)記紀歌謡における三音や四音あるいは六音や七音を規範とした字余り字足らずなどではない固有のリズム構成をふくんで表出されているとして、「五音とか七音とかいう音数の選択は、日本語の法則性からしても美的要請からしても、おそらく三浦のいうほどには原理的な必然性はなかったとわたしにはおもわれる」という。これは短歌定型の五・七・五という音数の必然性、絶対性を否定する。
と述べている。また、
(前略)俳句は五七五の十七音であっても拍数としては三十二拍に他ならない、ということを必須の条件としているに等しい、という考え方にも驚かされた。
五音句も七音句も、ほんらい八拍分の時間をふくんでなりたっているから、古来、「字余り」はかならずしも変則・破格として否定されはしなかった。むしろ五音句における六音、七音句における八音も「正格」として許容するものでさえあった、と書かれている。これは「字余り」「字足らず」の許容であろう。こういう論を読むと、短歌や俳句の音数律がその後の変遷のなかでいかに型にはめられてきたかが、思われる。
とも記している。思えば、俳句形式についても、かつて坪内稔典が言挙げしていたように、まぎれもなく、「俳句」が生まれて100余年、いまだに「過渡の詩」なのである。毎号、言ってることだが、愚生のような川柳門外漢には、小池正博「現代川柳入門以前 第五回『読みの変遷』」は、川柳の有様を知るには有り難い連載である。
ともあれ、以下に同人の一人一句を挙げよう。
中央はあたためられてゆくばかり 畑 美樹
ずっと間違っていた階段の段の数 湊 圭史
孫か曾孫か 遭えたねカエル 一戸涼子
猛毒が茶道室でも毒のまま 川合大祐
老残より9月の杉の半分 影 石田柊馬
自由祭ばななバラバラぶどうポロポロ 悠とし子
アナログのまま四次元に来てしまう 浪越靖政
火の鳥が羽ばたくばらもんばらもんと 飯島章友
苦味とは白魚の目が黒いこと 清水かおり
月ふたつ口から吐いて三つにする 小池正博
ソテツのソ ラは蘭鋳の腹の裏 兵頭全郎
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