2019年11月10日日曜日
桑原正紀「孤独とは負(ふ)ならずまして恥ならずしづかに己かへりみるとき」(『秋夜吟』)・・
桑原正紀第9歌集『秋夜吟』(青磁社)、2014年後半から2019年前半までの4年間の作品から506首を選んだという。著者「あとがき」には、
この集の始めの方で長年の教職を辞し、終わり近くで七十歳になるという、人生の大きな節目が背景となっています。十四年前に脳動脈瘤破裂で倒れた妻は、その後いくつかの病院や施設を経て、二年前から終生を過ごすことのできる老人ホームに移りました。依然として低い認知度ですが古い記憶は残っていますし、身体的な健康も年齢なりの状態を保てています。これで私に万一のことがあっても困らないような体制を整えることができました。
と記されてある。また、帯文の惹句には、
施設の妻の元への往還の日々。晴天の空を仰げば思わず「車椅子日和」と呟いてしまう。一人用の惣菜を提げて帰り、ひとりで酌む夜長。そうした日常の隙間を埋めるように一首一首はぼつぼつと歌われる。時に政治に怒り、ある時は歌の友や教え子の死を悼む。揺るぎのない短歌観に裏打ちされた、確かな抒情が迸る。
とある。本集を読めば、まことその通りだと思う。今度「俳句四季」の「一月を詠む」の歌句競詠の愚生の相方が桑原正紀である。愚生と同年生まれだが、愚生とは似ても似つかない、まさに精一杯の人生をまともに愚直に対峙してここまで来られたという印象である。いくつかの著書を恵まれたが、愚生も少しばかり、府中市中央図書館で国会図書館や、他の図書館からのものを借りた。感慨深かったのは、これまで上梓された彼の数冊の歌集が「雁書館」の発行だったことだ。「雁書館」の社主は冨士田元彦。映画の評論と短歌の雑誌「雁」を発行していた。愚生が勤めていた吉祥寺弘栄堂書店に、直接本を置くためによく来られた。「雁書館」で歌集を作りたという人を紹介したこともあった。ただ、愚生の忘却は天下一なので、はっきりした年月は忘れてしまったが、或る年の年賀状が来ず、奥様から突然の訃の寒中見舞いが届いたのだけは覚えている。まだまだ働き盛りの死だった。そして本歌集の発行は、好青年・永田淳の青磁社である。嬉しいことだ。永田淳の父は永田和宏、母は河野裕子、淳の姉?妹?もまた歌人の永田紅だ。桑原正紀第一歌集『火の陰翳』(1986年刊)に、
死ぬことは〈言(こと)〉切るること死者達の遂に成らざる声想ふべし
があれば、即ち、インスパイアされた一句を献じる。
死者たちの成らざる声や雪月花 恒行
ともあれ、本集より、いくつかの歌を以下に挙げておこう。
卓上に寄り添ひふるさと語(がた)りする大和の柿と信州林檎 正紀
ひらがなを生みし女性の感性を讃へて一時間の授業を閉ぢぬ
不甲斐なき上の世代に怒りあ今その位置に押し上げらるる
今日妻の夕食に出でし筑前煮食べたくなりてスーパーに寄る
一九四九年、カープは私が一歳のとき誕生した
ヒロシマの長き〈戦後〉と重なれるカープの歴史私の歴史
戦争とながき戦後と つづまりは昭和を干戈の時代と思ふ
一センチの段差が世界の行き止まり 浮く敷石に妻は阻まれ
ひとつ灯の下で家族が過しゐしころは原発なんてなかつた
山の子のまづしさまして戦中のひもじさあらは母のめぐりに
学校のチャイム鳴るたび生き生きと目覚むるらしも妻の教師脳
世事人事みなとほくとほく見渡して世界をゆるすやうな和顔施(わがんせ)
十二月十四日、つひに美ら海へ投入せるは〈戦後〉の汚穢(をわい)
小さなる鏡餅見て「これ何?」と妻は飾りを破いてしまふ
この瀬戸の果てのまほらを奪はむと東征しけむすめろきの祖(おや)
桑原正紀(くわはら・まさき) 1948年 広島県生まれ。
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