「コスモス通信」とりあえず26号(6月2日)、妹尾健「自由律の出現 九/荻原井泉水の『時代について』」。妹尾健は言う。
(前略)井泉水は確かに俳句作法を斥けた。だが別の俳句作法を作ったのではないか。それも時代のためだ。自由律俳句もまた時代の所産なのだということになりはしまいか。この時代というものを、もっと身近にいえばなんだろう。それは生活している、といってよいかもしれない。(中略)
芭蕉は先人たちの背後に貫通するものは一つであると言い切ったのである。歴史を貫いているものは一つであって、それは時々の時代の背景や流れといったものではない。そうしたものを(時代)を越えて、つらぬいているものが一つあるのだ。それが風雅というものなのだ、と彼は言いたかったのだ。(中略)
表現上の苦悩、そうしたものに対する回答を得ようとする苦悩、そうしたものが自由律俳句を生んだのだと井泉水はいいたかったのかもしれない。そしてこの苦悩を表現するためには、より新しい形式がいる。これまでの制約の上にいくらひねってみても、何も出てはこない。まず素直に対象を見てその感動のさまを、前にひろげてみるといい。井泉水はこういいたかったのではあるまいか。(中略)
かくて「層雲」を代表する自由律俳人は三人とも出家して仏門に入るということになる(愚生注*ほぼ同時期に得度した3人、井泉水・放哉・山頭火である)。(中略)
無論三者は三様に信仰の内容を表現してはいる。しかし、貫通するのは、近代の表現の苦悩に対して宗教的解決を切にもとめたからで近代の表現の苦悩が対象となるよりも、むしろ無常と救済が切々と表現され、一途に現世の放棄が表現される。最後には安穏の境地が表現されてくる。(中略)
彼らの多くの読者が俳壇外にいたのは、この仏門に帰依した安穏と静けさに共鳴したからにほかならない。
近代の表現の苦悩に逢着した井泉水が自己の内部の葛藤を仏門に帰依することで解決しようとしたとき、自由律俳句は特異な宗教性を獲得するとともに、その近代性そのものもまた放棄したのでるある。あとは形式が残るということになる。この問題をひろいあげたのは、むしろ定型俳人たちである。彼らは定型にあることで近代性の苦悩に出会うことになる。(中略)
ひとたびは近代の表現の苦悩をとりあげながら、それを形式の制約性にのみ求め、宗教的解脱を求めたところに自由律俳句の代表的俳人の在り様をみることができる。昭和の俳句はこのような試作を経て出発したのである。
ともあれ、以下は妹尾健「句日記」の約100句から、数句を挙げておこう。
葉裏吹く風のあたりの青あらし 健
見え隠れしては南都のつばくらめ
花芒むれなすところ人を見ず
なつかすみかつてはみえし天王山
さるすべり天より父の声がして
★閑話休題・・・武藤幹「巣立ち鳥ジャン・コクトーの本買ひて」(第13回「ことごと句会」)・・・
一応、5月16日(土)の日付は入っているが、文通である。雑詠3句+題詠1句「綿」。
リアル句会がないので、事務方が色々骨を折っている。一人一句を以下に挙げておこう。
綿花蒔く土の緩みに線と点 渡邉樹音
蝌蚪たちも不要不急を思案中 照井三余
多羅葉(たらよう)に記す 落し文を拾う 金田一 剛
綿の花オールド・ブラック・ジョーの歌 武藤 幹
消すようにろうそくを吹き綿花吹く 大井恒行
次回は6月20日(土)(於:ルノアール区役所横店)の予定。さて、リアルに開催になるのかどうか・・・。愚生のシルバー人材センター請負業務の府中市中央文化センター会議室は、どうやら6月15日(月)から、再開のようだが、貸し出すためには、人数制限、窓解放などの規制がいくつもあり、非常事態宣言は解除されても、事実上、自粛???モードは継続している・・・。
芽夢野うのき「春咲き桔梗知らないところで悪さして」↑
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