2020年8月11日火曜日
小川軽舟「道ばたは道をはげまし立葵」(「オルガン」22号より)・・・
「オルガン」22号(編集 宮本佳代乃・発行 鴇田智哉)、本号の特集は今どきのZOOMとやらでの座談会である。題は「作り手、読み手、選」、メンバーは安里琉太・生駒大祐・阪西敦子・宮本佳代乃。いわば作家としての言葉に対峙する姿勢が示されていて好ましい。引用したいところは、たくさんあるが、そうもいかない。まずは冒頭の「書けなさ」については、
安里 (前略)まず考えるのは、十七音という俳句の短さによる書けなさではなく、もっと倫理的なことにも触れるような「書けなさ」です。(中略)とはいえ、そういう「書けなさ」をステイして、書きはじめてしまえば何とかなるというものでもなさそうです。書いたことが読み手にうまく伝わらないということもあります。なんでもない公園のフェンスと西日を詠んでも、沖縄の人が書いたとなると、それは基地への思いだとか、単なる釘を書いただけで、痛みの表象なんだとか、さっきの「書けなさ」とは別の次元ですが、喩としてばらける、そういう「書けなさ」を感じたことはあります。(中略)
阪西 (前略)「書けなさ」は、俳句に何らかの到達点を設けないと考える必要がない。書くことと、伝わること・到達点については私は切り離しています。到達点に行きつかないことは表現の問題になるので、作り手が完成図に興味をどれくらい持つか、そこにも違いがある気がします。
安里 (前略)震災後の「新米」についても汚れたという概念が続く、そういう危機感があったのかもしれない。直線的に延びてゆく時間が加わって、円環に閉じた時間には戻れなくなる。そんな考えもあったかもしれない。ところが、そうとも限らない。何もなかったかのように季語は戻りうる恐ろしさがある。(中略)
阪西 「ホトトギス」の季題の考え方って、いい句が集まったら歳時記に載るっていうものなんです。作品でしか季語に昇格させられない。「新米」の件でもそういう作品が多くなれば変わっていくんですが、本意が閉じているとは思わないんです。(中略)
安里 僕の持っている季語の考え方は、阪西さんのおっしゃることとさほど乖離はなくて、季語が変わっていくものではなく、結局本意に戻る働きがあるんじゃないかなと。そして、本意は書けなさみたいなものを誰かにもたらすのではないかと思います。
季語(季題)の持っている二重性、あるいは本意が無限定に論じられているきらいがないではないが、こうしたことに、少しでも突っ込んだ意見がかわされるのは、次世代の俳人には、じつは避けては通れない道であるにちがいない。このほかにも興味ある発言がなされているが、これ以上は、愚生の力量が及ばないので、直接、本誌にあたって確かめられたい。ともあれ、同人の一人一句を以下に挙げておこう。
くさむらを出てゐる虹に苦みあり 鴇田智哉
草の葉の寝ぐせも夏の川のなか 福田若之
栃の花道の向うへ通勤す 宮本佳代乃
率に日が明らかとなり冷奴 田島健一
芽夢野うのき「ひまわりはほんとは暗い日を廻す」↑
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