2020年8月3日月曜日
今井聖「陶片も骨片も白夏の浜」(「街」NO.144)・・
「街」NO.144(街発行所)、今井聖は、色々考えてくれていて、なかなか面白い。本号の「作ってみようシリーズ⑤」は「波多野爽波を作ってみよう!」である。愚生も昔、ある句会で、蕪村風を真似て俳句を作るということをやったことがあるが、いわば、遊びとしての面白さだった。今井聖はもう少しマジメである。だいたいが彼流ではあるが波多野爽波を以下のように分析、かつ分類して、即吟会をやろうというのである。例えば、
波多野爽波になりきる
〇「知」を捨て口を開けて「もの」を見る。(放心状態を意識する)
〇典拠、根拠を求めない。
〇常識を求めない。
〇辻褄を求めない。
〇自我を入れようとしない。
〇自らで句の成否を求めない。句の成否は座(句会)の反響を以って推し量る。
〇速写、直感に徹する。
〇リズム、文体は工夫を入れない。鋳型に嵌め込むことだけを考える。俗調の肯定。大衆芸の口上を思わせる。「さても南京玉簾」「ありがとうなら芋むしゃはたち」
〇右の点をを総合すると多作他捨の本質は「心霊写真」、他力本願である。
その「結果」現われてくる作品の特徴を分類してみる。
A「もの」の形の拡大・強調
B日常的でありながら従来の情趣の範疇を逸れる
C季語との因果関係の感じられない偶然性
D構図の関係性のへんてこ
E比喩の意外性
F動詞、形容詞、副詞の違和感を効果とする
及びこれらの組み合わせ。 (以下略)
これに基づいて、爽波作品を、各A~Fに分類している。これを研究会で即吟実践をした作品も掲載されている。これ以上に興味のある御仁は、本誌に直接あたられたい。
また、今井聖は「未来区鳥瞰144」のところで、
(前略)「戦争が廊下の奥に立つてゐた 白泉」「いつせいに柱の燃ゆる都かな 敏雄」こんな一般的な戦争の映像や感慨のどこをどう評価すれば「秀句」になるのだろうか。戦争が廊下の奥に立っていたという擬人法がどれほどの個性的な比喩表現だろうか。一斉に柱が燃えるという明らかに「戦」を思わせる「映像」がどれだけ新鮮な視点を獲得しているだろうか。無季や反権力の意図を言う評者もいるが、何より内容に新鮮さがない。(攻略)
と記しているが、俳句は新鮮であればよいというものでもなかろう。今井聖が寂しがらないように、愚生が少し異見を挟むが、この今井聖の見解にはいささか賛成できない。
ほかに本誌本号には、愚生と同じ「豈」同人の高山れおなが、「街から街へ 143号を読む」を寄稿し、松野苑子「雛の眼の象の眼に似る寂しさよ」の鑑賞・批評を行い、雛の句を多く引用しながらの示唆的な内容である。結びには、
(前略)〈象の眼〉が現代のわれわれの胸に喚起するもろもろの感情もまた、古美術(主には仏教美術)の表現の背景にある感情と無縁ではないからだ。そうした感情の束を受け止めた〈寂しさよ〉が、奇想的とも言える〈雛の眼〉と〈象の眼〉の対比を深いところで支えている。
と述べて、納得させられた。ともあれ、以下に、愚生の面識のある方々の一句を挙げておきたい。
鉱毒の記憶や虹の緑にも 今井 聖
蠅叩き子供に使つたことがある 北大路翼
蟇一億人が縫ふマスク 柴田千晶
似顔絵のやうな兄妹白木蓮 竹内宗一郎
夜の雲を祭太鼓が押し返す 黒岩徳将
少年の産毛金色おぼろ月 栗林 浩
出口だけ暗い牡丹園巡る 髙勢祥子
環七ががらんと突き当たり虹 箭内 忍
撮影・鈴木純一「梅雨寒をいたはりくれて伊勢ことば」↑
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