2020年9月2日水曜日
藤原龍一郎「月光のあまりの蒼きこの坂を下り終えればなしくずしの死」(『青じゃ青じゃ』より)・・
高柳蕗子著『短歌の酵母Ⅲ 青じゃ青じゃ』(沖積舎)、著者自装の歌論集である。内容は紹介しきれないので、是非、直接、読んでいただきたい。幾つかの部分を抜粋紹介して、その一端を垣間見てほしいと思う。まず、
◆本書は、短歌における「青」という言葉のイメージを考察する歌論集で、『短歌の酵母』シリーズの三作目である。
「短歌の酵母」というのは、短歌という詩型と人間との関係の捉え方の一種である。
言葉が生き物であるならば、人間は共生する酵母菌のような働きをしていることになる。短歌は言語活動のひとつであり、人間が詠む短歌はさかんに言葉のイメージを醸す。-そういう観点に立つ。
したがって、このシリーズでは、作品を通して作者を見ることはない。たくさん詠み重なっていく短歌のなかで言葉が醸されていく様子を考察する、という、特殊な歌論である。 (中略)
◆短歌・和歌のデータについて
近現代短歌については、約10万首収録したデーベースを用いて考察した。
このデータベースは日々収録数を増しており、本稿を着想した四年前には、九万首程度だったが、終了段階では、10万5000首に達した。抽出した〈青〉の歌も、当初は3300首程度だったが、終了段階では3600首を超えた。本文に出てくる短歌は、各稿の執筆当時のものである。
と、このような具合だが、何と言っても、引用された膨大な各作品の制作年と出典がすべて記されているので、作られた時代とそれらの背景を想像できる。目次だけでも相当な数にのぼる(300?)。主要には「青じゃ青じゃー神話の培養」が第1章「青の基本イメージ」から第6章「空と青の神話」(青マニアのために、など)、「青の短歌史ー青じゃ青じゃ歴史編」が第1章「『万葉集』に萌えいづる青」から第4章「近代の真っ青なビッグバン」(短歌史を無免許で走り抜けた、など)、最後は「青じゃ青じゃ補足編」1(青とその他の色たち)・2(その青はなぜ青なのか)」。因みに補足編の「まとめ 傘とカラーボール」には、
右:あのさ、短歌鑑賞も〈青〉がいいね。あやしい憶説でもなんでもニュートラルに。
かぜがおもい、風が重いと言いながら青い傘さす子ども歩めり 吉川宏志
『鳥の見しもの』2016年
左:吹く風や降る雨粒は選べない。言葉は雨風を受け止めるように自然に、同時に冷静にワンクッション置く感じで読みたい。その傘は、赤でも黒でも白でもなく〈青〉がいい。そう言いたいの? (中略)
右:ああ、命中すると、洗っても消えない染料がべっとりくっつくていうやつ。-ははぁ、〈青〉はカラーボールを投げつけるみたいに使われている、って言いたいんだね。投擲みたいで勇ましい。(笑)
右:ま、歌は斬新なものが次々詠まれているのに、批評用語はマンネリだよ。いろいろ工夫すればいいんじゃない。
左:歌の中の言葉たちは成長しているけど、その点、批評の言葉は¨おくて¨だね。
とあって、厳しい指摘だ。著者「あとがき」は、
最初の歌集『ユモレスク』(1985年)を出したとき、私は32歳だった。あれから35年、驚いたことに、時間はおもちゃでなく、本当に流れ、私は本当に歳をとった。そう実感したにもかかわらず、これからも時がたち私がもっとおばあちゃんを極める、という未来を、ちっとも想像できないでいる。
と結ばれている。いつもこれからも「青」なのだ。ともあれ、孫引きだが、ほんの少しだが、挙げておこう。
海賊より空賊がいい 寝転んでこの空を青く青く蹴る男子 千葉 聡
ゼロか死か青柳町こそかなしけれ〇四〇ー〇〇四四 松本 秀
崩れゆくビルの背後に秋晴れの青無地の空ひろがりてゐき 栗木京子
あかつきは青き扇のいろの夢ゆめまぼろしの傘をささうよ 山中智恵子
この秋によきことあれなりんどうは青むらさきの種火をともす 俵 万智
青柳の糸よりかくる春しもぞみだれて花のほころびにける 紀 貫之
予言者の闇には時の星座あれ蒼き髪より蝶を発(た)たしむ 江田浩司
朝顔の赤いラッパをふきならせ青いラッパをふきならせ、肺 東 直子
ゲームセンターの青い光のなかにいてきれいなままで死ぬことを言う 山崎聡子
もしかして今は私が留守なのか寒晴れの空ただただ青い 坪内稔典
幼きよりいじめられっ子を見るたびにあおきせいよくのようなる快感 鈴木英子
冗談ってほんとうは青くつめたくさくらふぶきにごまかされてやる 井辻朱美
雨の午後届いた青い便箋のあなたの文字は裸体であった 加藤治郎
髙柳蕗子(たかやなぎ・ふきこ) 1953年生まれ。
芽夢野うのき「ハイビスカスと舟漕ぐ鬼は北の鬼」↑
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