2020年9月23日水曜日

広瀬ちえみ「山藤は誰のものでもない高さ」(「杜人」通巻267号より)・・・

 


 「川柳杜人」通巻267号(川柳杜人社)、特集は広瀬ちえみ句集『雨曜日』。執筆陣は荻原裕幸「雲曜日のピクニック」、樋口由紀子「山藤の高さー『雨曜日』を読むー」、月波与生「沼、各種取り揃えております、なかはられいこ「なにもの?『雨曜日』を読む」。まず荻原裕幸は、


 (前略)柳人の関心の中心は、大会や句会にある、と言われて来た現代の川柳の世界で、三冊の句集を刊行するというのは、広瀬が、単純に、一句の川柳が、選者によって選ばれるかどうか、にとどまらず、トータルで読んだときに、感じることのできる、世界観、にこだわっているのだと思う。


 と述べ、樋口由紀子は、


(前略)川柳は同一平面上で意味をひねったり、ずらしたりして、言葉同士の関わりの面白さを表現する文芸である。意味の流れを途中で切り、ひっくりかえすことによって、言葉の旨味やコクを出して、日常の勘所を突く。『雨曜日』には、その仕掛けが随所にあり、意味の不思議さや可笑しさが堪能できる。ちえみ独自の語り口で、おかしくせつなく、飄々と軽々と川柳の本道を見せる。固有の抜け感を含ませながら、読み手の心を開く。言葉は使い方によって、置き方によって、組み合わせによって、どうにでもなることを証明する。川柳がわからなくなったら、まっさきに読めばいい句集である。


 と言う。あるいは、月波与生は、


 (前略)  くちびるを描けば「ああ」と言葉持つ

 があるが、「沼」とは、言葉をもたないものたちのしぐさを言葉に変換したものの総体であり、この句のような心象風景こそが広瀬ちえみの川柳世界なのだと思う。(中略)

 一句一句に仕掛けと企みが施されていて、どの沼もまったく違う出口に続いているようだ。


 記している。また、なかはられいこは、冒頭で、


 以前、わたしは「広瀬ちえみという人はつくづく不思議な人である。あどけないのか、鋭いのか、天然なのか、理性的なのか、さっぱりわからない。たぶん、ぜんぶだ」と書いたことがある。その印象はいまも変わらない。というか、ますます強くなる。そんなひとの作品が集まった句集なんである。


 と述べている。「杜人(とじん」は、あと一冊で終刊するという。ともあれ、本誌本号より、同人の一人一句を挙げておこう。


   ウィズコロナウィズ災害 ウィズ核     鈴木節子

   あの日の太陽 無言館出口         加藤久子

   うなぎの「う」肩のあたりに骨がない    鈴木逸志

   言っておくけど売れ筋のツノらしい    広瀬ちえみ

   神様が大きな椅子を持ってゆく     大和田八千代

   つながらぬ切れているのがわかる日々   佐藤みさ子

   熊が出て呼ぶに呼べない猫のクマ      浮 千草

   則本がいて楽天のワンチーム        都築裕孝



    染々亭呆人、獺祭忌に「しきしきとしきのしきなくきりぎりす」↑

0 件のコメント:

コメントを投稿