2020年9月9日水曜日
柿本多映「炎昼へからだを入れて昏くなる」(『拾遺放光』)・・
高橋睦郎編・柿本多映句集『拾遺放光』(深夜叢書社)、序は「小序」と題して高橋睦郎。全文を以下に引用しよう。
柿本多映さんの句は他の誰の句にも似ていない。多映さんの句自体についても、どの一句も他の句とは似ていない。多映さんはつねに最初の一句を吐く俳人なのだ。『柿本多映俳句集成』の既刊七句集の一句一句との一回づつの出会いを愉しんだ後、改めて楽な気持ちで拾遺に対った。結果は七句集に劣らぬ光を放つ句との衝突の連続で、そのつどしるしを付け、さらに厳選して百句に余った。拾遺放光と名付けるゆえんだ。
また、著者「あとがき」には、
(前略)改めて庭をみると、家居の私を癒し続けた名も無い草花やどくだみの白い花は、螢袋や捩り花にとってかわり、おなじみの蜂は相変わらずすぐ傍を通り過ぎ、カマキリの子はかろうじてはなの茎をよじのぼり、蜂は新たな巣作りに励むといった具合で、彼らは変化する自然に身をまかせ行動しているのだった。この小さな営みこそすべての生命の源であるという当たり前のことを、改めて思う自身に愕然としている。それはまたどこかで私の作品と繋がっているとことをそっと願いながら。
と、あった。愚生は、集中の、
遮断機の降りしあたりのすべりひゆ 多映
の句には、永田耕衣の、
踏切のスベリヒユまで歩かれへん 耕衣
の句を思ったりした。遠い昔のことだが、須磨の耕衣宅の近くの坂に踏切があったように思うのだ。それと、かつて、吉岡實が『耕衣百句』を編んだことが、ふと、愚生の脳裏をかすめたからかも知れない。ともあれ、以下に集中よりいくつかの句を挙げておきたい。
ピアノ鳴る家や西日の鬼瓦
水にして壺中の春も見飽きたり
老人をいぢめつくして野の在りぬ
翼欲し十万億土に雪降れば
分け入らぬ山こそ思へ冬の鳥
いなびかりこの世の際に鯉眠り
春昼の畳の芯が浮いてゐる
魔の山も仏の山も雪迎へ
ひとまづは棒を跨ぎて去年今年
どうしても記憶が曲る蝉の穴
陽炎を跨いで入る非常口
柿本多映(かきもと・たえ) 1928年、大津市圓城寺(三井寺)に生まれる。
高橋睦郎(たかはし・むつお)1937年、北九州市八幡に生まれる。
芽夢野うのき「キバナコスモス神人一如の色灯す」↑
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