2020年12月22日火曜日

高岡修「ネイルには原子雲から残光を」(『凍滝』)・・・

 


 高岡修句集『凍滝』(ジャプラン)、集名に因む句は、巻尾の、


   凍滝のなか月光の氷りたる     修


  であろう。また、「あとがき」には、


 十一月の初め、原詩夏至著『鉄火場の批評』(コールサック社)が送られてきた。(中略)

 鍵穴からみえるぐらいがちやうどよい かぎ開けてみる真実はわな 北神照美

 肉親の殴打に耐えた腕と手でテストに刻みつける正答       遠野 真

 真葛這うくきのしなりのるいるいと母から母を剥ぐ恍惚は    野口あや子

 (中略)

 一読、短歌は今ここまできているのかと眼を見張った。というのも私は、これまでのただごと歌(・・・・・)の流れを高く評価できないでいたからである。引用の多くは若い歌人のものらしいが、吉川(愚生注:吉川宏志)の言う「いま生きている時代の本質を手づかみ」しようとしている姿が、私にはじつに新鮮に思えたのだ。

 ひるがえって俳句はどうなのか。現代文学を標榜する以上、俳句も「時代の本質を手づかみ」にしなければならない、そう思った。これまで以上に先鋭な方法意識をもって、私もまた現代を俳句で表現してみてみたい、そう思ったのである。


 と、記している。果して、現代の猥雑を「手づかみ」にできたか否か、髙岡修の自家薬籠中の「蝶」は舞い、「闇」は蹲ってはいる。それでも、想いを述べるには、短歌に比して、いささか手ごわい俳句形式を相手にしている高岡修の焦燥を、手触りとして受けとることはできそうである。高岡修の骨頂はなんと言っても、俳句的詩性と沈黙の深さを、時代を呼吸しながら抱え込むことにあろう。その意味では、深く人生と年齢を閲した高岡修には、若書きの時代はすでに終わり、深く批評を沈潜させた洞察の季節にあるはずである。「凍滝」の選択にも富澤赤黄男の幻影を見、さらなる困難を思った。もとより、芭蕉とは歩く道を異にしてきたはずだが、やはり、俳句は言いおおせるところの詩形ではなさそうである。ともあれ、集中より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておきたい。


  己(し)が影の殺意に凭れ春の斧       修

  木の縄に垂れていて空を縊る企画

  しゃぼん玉飛び子殺しの世を映す    

  花の闇臓器をすべて入れ替えて

  遅着せる蝸牛の爆死証明書

  手花火がはじけて遊ぶ人の闇

  死者の胸に義手も組まれて深睡る

  棄てるべき天あらざるに草雲雀

  月光を裂き月光の血に痴れる

  捨てられて終夜を歩きいし靴か

  展翅凾花野を掛けてあげようか

  折鶴が火の粉ちらして飛ぶ未明

  


撮影・鈴木純一「死の手紙(ダイイング・メッセージ)Sだけ冬の大蚯蚓」↑

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