1993年ごろ(28年前)との添え書き↑
本日、さとみ謙作こと可野謙二の訃がもたらされた。元妻という方の、その便りには「1月10日に可野謙二はおりからの寒さで『低体温症』で他界しました。1月2日でちょうど80歳になったばかり」とあった。彼は山中で一人で暮らしていた。30年以上前から、愚生の娘や息子にと、山で拾った団栗や木の実、木彫りの牛を贈ってきてくれていた。だから、まだ、子どもだった姉弟は、彼のことを「牛のおじさん」と呼んでいた。そして、物心ついたころには影絵の組み写真を贈ってきてくれたり、彼が手作りの竹笛・篠笛もあった。福岡県みやこ郡にあるらしい、その山小屋は「風工房」と名付けられていた。電気も水道もなく、自給自足の生活だったという。そして、時折、俳句を作っていた。「豈」誌の購読を申し込んできてもいた。自ら影絵と物語を作って、近所の小学校で、ボランティアでみんなに披露していたこともあったらしい。そのうちの一つが、「不知火海のエビガレ」だった。短いので以下に紹介したい。
不知火海のエビガレ
不知火海は島々にかこまれて まるで湖のようです。
まだ夜中の3時過ぎ船だまりでは漁師らの声がとびかって それぞれ夕方仕掛けた立網を目指して船をだします。
薄暗い海にチロチロとタルの熾火浮きが咥えて近づいて来ると船首に身をのり出して構えて一瞬の内に浮きを引き寄せます。それから2時間余り所々に仕掛けた網をヨイショヨイショと引き上げます。
海の底から生まれた様に網にかかった車エビがビビンビビンとはねると年輪を刻んだ漁師等の顔にきらりとひかる微笑が浮かびます。
他にも、影絵「しまった!!オオカミ」ろいうのもあった↓
とはいえ、彼(さとみ謙作=可野謙二)と直接会い、話したことは、たぶん数回にしか過ぎないだろう。愚生が二十歳のとき、つまり立命館大学2部・夜間部の学生だったとき、彼は既に28歳(10歳くらい上だと思っていたが、このたび正確な年齢をはじめて知った)。大阪にある某大学に、彼を含めて3,4人で、夜、その学内に入ったことがある。学園闘争が吹き荒れていた頃のことだ。その大学のキャンパスは右翼が支配していた。いきなり我々は7,8人の男たちに取り囲まれて、逃げようにも逃げられない。袋たたきにされて放り出されるか、闘うかしかない、と観念した。その時、愚生より、わずか斜め前にいた彼が、突然、空手の構えを見せて、「お前らやるのか!!」と恫喝した。数では圧倒的不利だった愚生らは、その一喝で、向うが折れて、無事に学内を案内してもらった。彼は小柄だったが、すでにして、そこらの学生より遥かに年上のいいオッサンだったに違いない。事実、空手は相当な腕前だったらしい。生まれは、和歌山県熊野の山奥(中辺路町内井川)と言っていた。縁はあるもので、大牟田の俳人・谷口慎也とは地元で知り合いになっていたらしい。さらに大昔、堀本吟・北村虻曵宅に泊まったこともあるらしい。
この度の訃の便りには、一人で山小屋を作り、50歳から30年を一人で自給自足、これまでさしたる病もなく、生き抜いて、自分のスタイルを貫いての大往生、とあり、100日をめどに実家のある和歌山にいくまで、地元の人の世話になりながら、遺骨も春先までは、その山小屋に安置されいるという。無宗教だったので、戒名は、元妻と娘さんで次のように付けられたという。いい戒名である。
風魂貫宙赤捲遊泳仙人
最後に、愚生の元にある5年前のレターパックに記されていた彼の俳句をいくつか挙げさせていただいて、ご冥福を祈りたい。
平成29年3月「上関原発を建てさせない祝島島民の会/御礼とご報告」が貼りつけられていたレターパック↑
湖底の月の溺れて空に沈む刻 謙二
地震降りて闇一頭のいななきを聞き
たんぽぽのぽぽのあたりで風にのれ
汚染水垂れ流すなよ魚怒る
金玉を直して強き相撲かな
虚空よく物容ると兼好いふてダークマター
水の面にあや織り乱れアメンボ―
尺取虫宇宙に広さ刻々告げり
樹液あびた個体は暗から闇へ転化をはかれ
3・11春の心の置き所なし
母は海漁師魂と枇杷の島
山怒る核汚染どうしてくれる
可野謙二(かの・けんじ) 1941(昭和16)年1月2日~2021(令和)3年1月10日、和歌山県生まれ。享年80.
芽夢野うのき「どこまでも冬野いっそう白き野風」↑
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