「オルガン」24号(編集 宮本佳世乃・発行 鴇田智哉)、本号の特集は「鴇田智哉『エレメンツ』。論考に、青木瑞季「反抒情の俳句」、関悦史「生える界面」、樋口由紀子「無類な楽天家」、山口昭男「生えている俳句」。座談会は、田島健一・福田若之・宮本佳代乃・西村麒麟・矢上桐子「鴇田智哉『エレメンツ』を読んでみた」。座談会資料として、各人が選んだ10句選がある。宮本佳世乃の選のみが、皆と重なっていない。 従って、全員に選ばれている句はなく、他の4人が、共通して選んでいる句は、
いうれいは給水塔をみて育つ 智哉
いきてゐる体の影を踏む遊び
である。座談のなかで、
田島 (前略)鴇田さんの「生えている句」というのは、最初から不可能なことへの志向性なのだと、僕は思っています。「生えている句」を書こうとすると、どれも途中で墜落するのだと。その落ちた距離がそれぞれ違って、方言や乱父という姿で主体として現れる。もともと鴇田さんの句は基本的に写生に立脚しています。(中略)
福田 〈らっぱたーさん唐草を褒めちぎる〉は乱父由来のはずなんですよ。もとは、〈ワイダ父さん唐草を褒めちぎる〉という句で、これはTwitterにログも残っています。〈ピンもろとも竹がトモロウすっぱい閣下〉は、〈ペンもろとも竹がトモロウすっぱい閣下〉だった。(中略)鴇田さん自身は、あとがきに「乱父の句はそのつど初めて書かれ、その後の推敲や表記の変更はしないことになっている」と記しているけれど、「推敲や表記の変更」がなされた場合には、それによって乱父は乱父ではなくなる、というのがより正確かと思います。こうしたことを踏まえると、乱父の見開きのなかと外をつなぐものは何かといわれれば、まずもって「サドル式」の連作だろうという感じがしますね。(中略)
宮本 (前略)ただⅠ章には『こゑふたつ』の路線が色濃くある。私には、彼がこの句集を作ったことによって自分を確かめたいという思いを感じるんですが、実は俳句を書くことによって「私」が拡散していく、不確かさが増えていくようにも思いました。それは失うということのありようでもあり、根の深化と同等なのかもしれません。
とあった。また、先の樋口由紀子は、
(前略)ふだんの川柳の読みをしていたのでは到底どこへも辿りつけそうもない。川柳も意味をひねったり、ずらすしたりして、切れを作る。鴇田の切れは見た目川柳の切れと似ているが、非なるもので、何よりも意味の秩序の角度や温度を意識的に変えている。決して現実の場には戻してくれない。それが『エレメンツ』なのだろう。
鴇田智哉のような言葉を信じる無類な楽天家に出会ったことがない。
と言い、関悦史は、
(前略)
海胆のゐる部屋に時計が鳴る仕掛
かなかなといふ菱形のつらなれり
自転車に痺れのかよふ葉鶏頭
オルガンの奥は相撲をするせかい
これらの句は生命と非生命の相互浸潤、声と形の共感覚、音響への詩的直観などから未知の光景を展開し、美しくも驚愕的に可笑しい。
と述べている。ともあれ、以下にテーマ詠「「いなたい」から一人一句を挙げておこう。
箱型ストーブエレベーターは工事中 宮本佳世乃
冬草を殺して市役所を建てる 田島健一
春の木にビニールひもが靡くなり 鴇田智哉
日が短いのもラジコンみたいだし川原だ 福田若之
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