2021年3月31日水曜日

黒瀬珂瀾「玄海島がPM2.5にかすむ 母国はありて父国はあらぬ」(『ひかりの針がうたふ』)・・・

 

  黒瀬黒瀬珂瀾第4歌集『ひかりの針がうたふ』(書肆侃侃房)、巻末に、エッセイ「博多湾の朝について」が置かれている。その中に、


 (前略)志賀島から少し南下した、博多湾の中心あたりが最初のポイントとなる。さて、僕らは一体何のために朝一番で船出しているのか――一言で言うと、貧酸素水塊の監視だ。貧酸素水塊とは、酸素がほぼ含まれない水の塊のこと。例えば、海底に深い窪みがあったりすると、上方と下方とで水が混ざりにくくなり、水中に層が生じる。底層では生物の死骸が分解されるなどして酸素が消尽され、生物が全滅してしまう。何かの拍子で貧酸素水が巨大な塊となり、海中をふよふよと動き出したりすると、軌道上の水生生物が大量死する。まさに「死の水域」なわけで、漁業関係者にとっては死活問題。その発生をいち早く察知し、海水を攪拌させるためのブロックを設置するなどの努力が港湾管理行政には求められる――そんな環境調査の一環として、僕らは明け方の博多湾に船を出す。

 ポイントに着くとまず水深計(レッド)を沈めて深さを測る。水深計と言っても目盛りを打ったロープの先に鉄の錘を下げた単純なものだ。手を離せばするするとロープが海に呑み込まれる。(中略)

 次に透明度盤を沈め、海水の透明度を計る。白くて丸い板を沈めて肉眼でどのあたりまで見えるかを計る。(中略)

 そのあとは波高測定、水色測定(赤潮が出ていないかの確認)、状況記録などが続き、溶存酸素量測定となる。(中略)

 能古島の緑が朝日にまぶしい。(中略)

 気温も上がり、今日の調査も終了間近となる。サーベイヤーの上げ下げを繰り返して来た手に鈍い痛みが走る。(中略)気いつけて帰りんしゃい、また来月な、と船を洗いながら船長が手を振る。機材を車に詰め込んだ僕らは帽子をとって礼を返す。こうして今日も博多湾の朝が終わる。帰ったら午後は娘をつれて行こう、そう思いながら帰路に着いた時、僕はまだ、半年後に博多を離れることになるとは知る由もなかったのだ。


 著者略歴によると、現在は、富山市の観念寺住職とあった。 また、集名に因む一首は、


  関門へ流るる海に十月のひかりの針がうたふ霊歌よ     珂瀾


 であろう。それにしても、愚生が最初に黒瀬珂瀾に会ったのはいつのことであったろうか、にわかには思い出せない。ただ、彼がまだ二十代前後の頃ではなかったろうか。その名「珂瀾」が示すように、当時は、塚本邦雄ゆかりにちがいないと、愚生が勝手に思っていたフシがある(事実は春日井建が最初らしい)。門外漢の愚生は、従って、その後の彼の足跡を追っていたわけでない。それでも、いつだっか、偶然に、図書館で彼の本を手にとったとき、タイガース一辺倒だった攝津幸彦の野球の句で「菊月夜君はライトを守りけり」を取りあげてくれていたことは記憶にある。そしてまた、本集では、身近の人たちのことも丁寧に詠んでおられる。そうしたことのなかった愚生には忸怩たるものが生まれる(子は、愚生の孫とさして齢も違わないようだ)。ともあれ、本集より、いくつかの歌を挙げておきたい。


  光漏る方へ這ひゆくひとつぶの命を見つむ闇の端より

  一時間かけて食みたる朝の粥けふのおまへの虹の根となれ

  昇る陽に影はのびつつ小さき刃に老いし漁師は梨剥きくれぬ

     北九州市は石巻の瓦礫二万三千トンを受け入れた

  セシウムをほのかに化粧(けは)ひ南へと遠流され来し瓦礫のあはれ

  鼻よりも腹たかだかと湯上りの児は駆けゆけり父より母へ

     除染作業はまず草を刈り、ひたすら地表の土を削る。

  黒き袋積み上げられてもう土に戻れぬ土がひた眠りをり

     双葉村 警戒区域

  [東電は地域とともに]人あらぬ村の電柱どれもにこやか

     除染の水すべて回収せよ、といふ。

  水洗ひされたる家にしたたれる水に言葉は湿りゆくのみ

  長靴を洗ひし水を持ち帰れ、とぞ言ふ如何に為すかは言はず

  冬田を削る男らの影とほく見てわが被曝けふ10μSv(マイクロシ―ベルト)

     全身線量測定

  先客の名を隠しつつ鉛筆を吾に渡せりスクリーニング受付 

  ゴミ袋提げつつ仰ぐ桜樹の、〈家〉を得て知るさみしさもある

  けふひとひ死なしめず寝かしつけ成人までは六千五百夜

  うみそらの澄みゆく朝に切る舵の肌寒を妻と分かちたきかな

  谿水に透明度(セッキ―)板を沈めゆく高千穂の春よ言葉はあらず   

  火の国に桜散りそめ明日はいまだ固きに会はむ加賀の桜に

  

黒瀬珂瀾(くろせ・からん) 1977年、大阪府生まれ。



        撮影・鈴木純一「三の糸しめて目の行く桜かな」↑

2021年3月30日火曜日

武馬久仁裕「思い出の春来る久屋大通」(「新・黎明俳壇」第3号・選者詠)・・・


 「新・黎明俳壇」第3号・税込800円(黎明書房)、「オールカラーで、俳句の楽しさ、面白さを満喫」とあり、特集は「杉田久女VS西東三鬼」。巻頭の「今月の俳句」は、


 春の俳句

 相合傘の雫や春の鶴揺れて     鳥居真里子

 

 夏の句

 我が触れし激しき虹を天へ帰す   橋本多佳子(1899~1963年)


 特集の「杉田久女VS西東三鬼」の一句の、「鑑賞は、気鋭の若手俳人8人です。8人にお願いしたことは、杉田久女と西東三鬼の伝記によらずに、杉田久女と西東三鬼の俳句の言葉に即して鑑賞していただくことです。これが、本特集の方針でもあります」とあり、久女と三鬼の句の組み合わせは武馬久仁裕が行っている。その8人とは、山科誠、川嶋ぱんだ、福林弘子、村山恭子、赤野四羽、なつはづき、山本真也、千葉みずほ、である。「豈」同人でもあるなつはづきを例にとると、句は久女「めにつきし毛虫援けずころしやる」と三鬼「ひげを剃り百足虫を殺し外出す」である。その鑑賞文の結びに、


 「虫を殺す」という二句だが、久女の句は毛虫に対する「感情が」描かれている事によって句が実景として立ち上がって来る。一方、三鬼の句ではそこに感情を書かないがゆえに暗喩として印象を際立たせる。同じシチュエーションであっても感情の入れ具合によって「実景の力強さ」と「虚構のメッセージ性」とに分かれたのだった。


 とある。また、廣島佑亮は、名古屋句会の「グーグルミートでリモート句会」のレポートを書いている。その中のコメントに、


 リモート句会の最大のメリットは自宅で参加できることだ。句会場への移動時間、費用を節約でき、遠隔地の人も簡単に参加できる。

 今後新型コロナが収束し、対面式の句会が再開しても、リモートは新しい句会形式として、続いていくだろう。


 と記している。パソコン画面を「分割して、全員均等に顔を合わせて話し合ったり、発言者をアップしたりするなど、自在にできる。かなりリアルである」ともある。ともあれ、本誌中より、アトランダムになるが句を引用、紹介しておこう。


  侘助の花弁の白さ風の声        加納 隆

  山茶花の散り敷く赤の孤独かな    稲垣美保子 

  芋虫の鉄骨のぼるパリの空       前野砥水

  木枯らしや時代は姿変へながら     岡本亜蘇

  ケリーグラント再会叶わず冬の虹    太田風子

  小満のボール追う子と見ている子    鈴木芝風

  あきあかね戦の如く飛び交えり     石川幸子(第22回黎明俳壇特選)

  長梅雨や雨また雨よ明日も雨      島田和典(同・ユーモア賞)

  秋の夜の瞳で開ける金庫室       山科 誠(第23回黎明俳壇特選)

  敬老日ひしいものは何もない     杉浦はな子(同・ユーモア賞)

  音たてて揚げる天麩羅冬の夜      小畠春美(第24回黎明俳壇特選)

  芋掘りで掘ってみればつるばかり    長崎 武(同・ユーモア賞) 

     人倫に反し真っ赤な牡丹咲く     武馬久仁裕(選者詠)  



        撮影・芽夢野うのき「小さい小さい心模様の春の花」↑

2021年3月29日月曜日

中里夏彦「日没の/水を/離るる/魂 いくつ」(アンソロジー『東日本大震災と詩歌』)・・・

  

             

 

 アンソロジー『東日本大震災と詩歌』(日本現代詩歌文学館)、奥付の上段には、


 開館30周年/東日本大震災発生から10年

 あの日から、明日へ

 アンソロジー/東日本大震災と詩歌

 令和2年度特別企画展/同3年度常設展/大震災と詩歌

 会期 2021年3月9日(火)~2022年3月13日(日)

    休館日=12月~3月の月曜日、年末年始

 会場 日本現代詩歌文学館展示室 / 入場料 無料


 とあり、館長・高野ムツオの挨拶には、

 

 (前略)展示では東日本大震災はもとより現代の都市型大震災である阪神・淡路大震災など、さまざまな震災の下で生まれた詩歌に焦点をあてました。アンソロジーには東日本大震災を契機として発表された詩歌を、当館ゆかりの皆様のご協力を得て収録いたしました。

 自然災害は、未来に向けてどう生きるべきかという厳粛たる課題を突き付けました。特に福島第一原子力発電所の事故は、自然が人間に向けた黙示です。新型ウイルスによる感染も我々に向けられた大きな試練といえます。震災を契機に生まれた多くの詩歌と心で語り合いながら、あるべき明日を思索してまいりましょう。


 とあった。

             

 

 ブログタイトルにした句の作者・中里夏彦は、原発から数キロ地点の双葉町に住んでいた。従って、家も墓もそのままにして、年老いた親と子を連れて、一時、埼玉県の避難所に居た。10年後の現在も帰還できずにいる(いや、原発からの距離を思うと帰還は今後も困難だろう)。今、彼は郡山に居て、復興事業に取り組んでいるらしい。本図録の彼のコメントには、


 東日本大震災に起因する原子力発電所の暴走。あの日とは私にとっては平成二三年三月十一日。あの日以来、私の中で大切な何かが永遠に失われた。その想いは轟然たる津波の後に訪れた静謐な時間の中で、何度も何度も押し寄せて来る。その波打際に、いま佇立している。


  滄海(さうかい)

  波立(なみだ)

   なみだ

  生きてゆくのだ        夏彦


 と記されている。本書は、短歌・俳句・川柳・詩(詩については、長さの制限をもうけた)作品の自選・推薦作品と展示図録からなる。ともあれ、ここでは膨大な作品の多くは紹介しきれないので、愚生の所属する「豈」同人のみの作を引用しておきたい。


  二千十一年三月十一日 一万八千四百四十九人の未遂の晩餐   藤原龍一郎

  春の地震などと気取るな原発忌      山﨑十生

  春寒の灯を消す思ってます思ってます   池田澄子

  土台ばかりを兄貴の家と言ふ蝶よ     橋本 直

  胞衣を脱ぎ原子の灯煌々と        高橋修宏

  つながって握りしめたる龍の玉      加藤知子

  鳥帰る棺の形の貯水槽          須藤 徹   

  かたちないものもくずれるないの春    大井恒行



    撮影・鈴木純一「芥子一粒また来るときの印にする」↑

2021年3月28日日曜日

髙柳重信「目醒めがちなる/わが盡忠は/俳句かな」(『ワイズ出版 30周年記念目録』より)・・・

          


 『ワイズ出版 30周年記念目録』 (ワイズ出版)、ワイズ出版社主・岡田博は、かつて愚生の勤めていた弘栄堂書店で、新刊書・文芸書の担当だった。その人望から、長く労働組合の吉祥寺店支部長も務めていた。立命館大学の映画部に所属していたらしい。日本映画しか見なかった男だ。ある時、彼が関わっていた化粧品の通販の会社が赤字続きで、書店員を辞めて、その赤字会社を引き受けたが、それが、地域限定の新聞折り込み広告や商品の良さも手伝って、売り上げを伸ばした。そして、彼は、もとはと言えば、映画を作りたかったので、生まれた余剰の資金で、念願の映画を作り、かつ映画に重点を置いたワイズ出版を創業した。思えば、その初発の頃に、愚生は弘栄堂書店で出していた「俳句空間」の終刊が決定され、その折り、企画のまま埋もれていた幾つかの書籍を、彼に引き受けてもらったのだ。そして、最初に、愚生が関わったのは、中井英夫『定本・黒衣の短歌史』(1993年)の刊行だった。当時、中井英夫の秘書らしきことをしていた山内由紀人と二人で、本文下段の脚注多くを執筆した。巻末には中井英夫の特別インタビューが収録されている。その山内由紀人は、のちに、同社から『三島由紀夫の時間』(1998年刊)を上梓している。

 とはいえ愚生にとっては、何んと言っても高柳重信の『俳句の海で/「俳句研究」編集後記集’68・4~’83・8』(1995年刊)である。その帯の背に高柳重信自筆から採った「目醒めがちなる/わが盡忠は/俳句かな」が配されている。その帯は鈴木六林男が二つ返事で引き受けてくれた。もとはと言えば、重信3回忌の折の鈴木六林男の発案だったからだ。帯の表には、


 髙柳重信は「俳句研究」において、現代俳句の地平を切りひらくために編集の基本的姿勢を問いつづけた。広い視野。冴えた現象の分析。比類ない未来への洞察力。これら結晶としての「編集後記」は昭和俳句史を形成する。

「編集後記」は、職業としての編集者が想いを〈言葉〉に賭けた歴史である。その重みを本書によって知ることができる。


 とある。本書の元となった原稿は、高橋龍が一日三冊分を毎夜、筆者したものを使わせていただいた。あと一冊は、浅沼璞『可能性の連句』(1996年刊)である。そして、この目録には出ていないが、冨岡和秀句集『魔術の快楽』、中西ひろ美・書下ろし現代句集1『咲(さき)』である。いまさらながら思うのは、愚生の無力をいつもどなたかに助けていただいたことである。このワイズ出版目録は、総ての書影を刊行順に、帯をはずした形で、カラーで収録、第二章ではそれぞれの概要が記されている。30年間に約400冊以上を出版している。その間に、儲からなかった映画もいくつか製作したはずである。だから、初期のころには、愚生も二度ばかり、ボランティア、チョイ役で出演したこともある。映画の本が多くを占めているが、彼の好みの作家たちもかなりあるはずだ。例えば、荒木経惟、つげ忠男、北井一夫、和田誠などである。目録の奥付の上段に、岡田博は以下のように記していた。


 (前略)ちょうど昭和の時代が終わり、平成時代の道のりと重なった。映画に固執して、あえて時代に逆行するような映画本を目指したが、あらためて俯瞰して見ると、時代に通底しているような気もする。


 その岡田博、先日、偶然に電話をした折り返しに、病を得ているようであったが、一日も早い本復を祈っている。


   友よ

     我は

  片腕すでに

  鬼となりぬ      重信  (『俳句の海で』背表紙)



        芽夢野うのき「土筆タンポポ競うと鯨に喰われるよ」↑

2021年3月27日土曜日

坂内文應「春愁ひをさまらぬ儘をさまりぬ」(「『ほとけのこゑ』展」)・・・

  



                                     

   俳句・坂内文應、写真・渡辺康文「ほとけのこゑ展」(新潟絵屋)、2021年4月3日(土)~14日(水)、開館時間/11時~18時(最終日17時)、会場/新潟絵屋(電話025-222-6888・新潟駅万代口から観光循環バス「旧小澤家住宅入口下車徒歩4分)。


 パンフレットの坂内文應「仏教と俳句走り書き」には、


  まずもって半世紀も越佐の仏教美術を撮影してきた無類の居士、文殊堂さんとのコラボ企画を絵屋さんからいただいたことに感謝したい。(中略)

 人類の精神史は、ざっと十数万年前からとみてよいと思うが、全世界的に言葉の統辞構造が確立した時に、同時に生まれたのが宗教と芸術であるという考察があり、わたしもその立場にいる。(中略)小千谷の詩人、西脇順三郎の詩作品に登場する原始人は、しばしばカタカナで叫ぶ。わたしはその滑稽で淋しくもあるこれらの”こゑ”に意味など求めはしない。なにやら心がひろやかに安らぐ。おそらく宗教と芸術以前の原郷的な空気を感じるからだろう。(中略)

 世界の「詩」は全て韻文に始まっているが、その末裔として我が国に俳句がある。写真は、わたしにはフロッタージュの遠隔装置のように見えたりもする。光陰をこそげとっているような感じもある。(以下略)


 とあり、近現代俳句の物故作家の「仏教+俳句33句抄」が添えられている。ともあれ、

以下に、いくつか、坂内文應の句を引用しておきたい。


  水草(みくさ)生ふ首を傾(かたぶ)け如来像      文應

  永き日やよき偈(げ)を唱へ地蔵尊

  角(つの)大師へ氷を踏みて詣でけり

  早蕨を手折りて衿羯羅童子(こんがらどうじ)かな

  留(と)め処(ど)なく湧きては冷ゆる泪かな

  施無畏印(せむいん)のやはらかにして春の闇


 坂内文應(さかうち・ぶんのう) 1949年、新潟生まれ。加茂市龍澤山雙璧禅寺住持、俳誌「白茅」代表。

 渡辺康文(わたなべ・やすふみ)1952年、新潟市生まれ。フォトグラファー。「文殊堂」主宰。





★閑話休題・・・倉阪鬼一郎『廻船料理なには屋/涙をふいて』・・・

「豈」の古参同人でもある倉阪鬼一郎『廻船料理なには屋/涙をふいて』(書下ろし/徳間時代小説文庫)、を店頭の100円均一で、おもわずも買った。最近といっても昨年だが、愚生の家の近くにオープンした古書店・銀裝堂(ぎんしょうどう、上掲・写真チラシ)なのだが、いまだに、店内は整理中とあり、表の通りに、小物、レコード、グッズなどすべてが100円で、代金は吊るしてある缶に入れるのである。いっこうに店主には会わない。通りかかりに、オッ、倉阪だ!と思って、買ったのだ。しかし、愚生は、これまでミステリ、ホラー小説家、エッセイスト、怖い俳句、怖い短歌などのアンソロジーの人としてしか認識していなかったのだが、この文庫本の巻末に「倉阪鬼一郎 時代小説 著作リスト」が載っていて、それによると、本作『涙をふいて』は、記念すべき80冊目の本であった。刊行日が2018年11月・徳間書店とあるから、すでに3年前、となると、もう、すでに彼の著作は、とうに100冊は超えているというわけだ。帯の背には「食欲を刺激する時代小説」とある。

(前略)
 ここで肴(さかな)が出た。
「お、これはいきなり凝ったものが出たね」
仁左衛門が笑みを浮かべて覗(のぞ)きこんだのは、早春の恵みの蕗(ふき)の薹(とう)の田楽(でんがく)だった。
「がくを開いて、そっちのほうから油に入れたったら、ぱっと花みたいに開いてくれまんのや」
新吉が身ぶりをまじえて言った。
「その花の上に田楽味噌をちょっとのせたわけか。小粋な料理だね」
富田屋のあるじはそう言って、珍しい蕗の薹の田楽を口に運んだ。
さくっとした噛み味が嬉しいひと品だ。 (以下略)


 倉阪鬼一郎(くらさか・きいちろう) 1960年、三重県生まれ。



     撮影・鈴木純一「今日からは花見て過ごそ亡き母と」↑


2021年3月26日金曜日

有原雅香「手も足も組み換えゲノム蝌蚪孵(うま)る」(『鳩の居る庭』)・・・


   有原雅香第一句集『鳩の居る庭』(ふらんす堂)、鈴木明「序に代えて/手紙」には、


 この句集は、たぶん野の会としては最後の句集となる。ことに有原雅香は一昨年、「野の会賞」を受賞した。栄誉ある同人である。私としては、確りとした序文を書いて送り出したいところであったが、しかし昨年末からの疾病が本年に続き、正直体力が許さない。

 幸いにも、同人会長の岡田路光氏が適確優美な「跋」を書いてくれた。誠意あふれる正鵠を得た文章でそれは尽きている。あとは雅香氏への敬意の念だけを示したいと思う。


 とあった。その跋、岡田路光「雅で天真爛漫ちょっと硬骨」に、


 (前略)「詠句のテーマ」は実に広範囲に及んでいる。自然・事物詠の句も面白いが、本領は人間詠だと思う。句数が多いし中身も濃い。加えて硬派の社会詠の句もある。こうした詠句のテーマの多様性は、鈴木明主宰ひいては「野の会」の特色でもあるのだが、雅香氏はその中でも傑出している。(中略)

 それにしても、我々は良い時代を過ごしたと思う。ともに二十年を過ごした「野の会」も、主宰のご高齢と疾病のため、今年で活動を終えることとなった。たまたまこの会に入ることがなければ、境遇も性格も大きく異なる我ら両名が知り合うことはなかったし、まこと句集稿を通じて、その来し方にまで思いを馳せることはなかったろう。まこと俳句結社は、自由に自分を表現し、そのためのレトリックを磨く場であるべきだ。我々多様な弟子たちのために、こうした場を作り開放して下さった主宰に対して、改めて謝意を感じるばかりである。


 とむすばれている。思えば、序をしたためている鈴木明とは、現代俳句協会新人賞の選考委員として、初めてお会いし、意見をたたかわせていただいた。その折も、少し足が不自由であった様子で、車で往復されてた。そして、その後は、都内で開催された安井浩司を囲む会などでお会いした。愚生が、驚いたのは、高山れおな等、若い俳人たちの雑誌「クプラス」の創刊号の特集が鈴木明だったこと、当時の若い俳人たちにとって、興味を持てる俳人、面白味がある俳句、とうことであったろう。余談はこれくらいにして、、著者「あとがき」には、


  (前略)私の四十代五十代は書道関連の事々に多忙を極めた時期でもございました。海外や日本中を飛び回り、公募展や個展、後進の指導や新しい試みの数々等時間を惜しんで動き回っておりました。その様な中にあっても句会に参加して、先生にお会いし、句友と触れ合うことは至上の楽しみであり、折々の慰めだったと思います。

 母を亡くした時も悲しみは俳句を作ることで癒されました。その時に作った俳句は手書きの般若心経と共に、母の棺に入れて送ることも出来ました。

 今からの私は「老歳」と言う途方もない現実に向かおうとしております。

 どの様な時に遭遇致しましても何らかの俳句が出来、作り続けて行くのだろうと思っております。


 と記されている。集名に因む句は、


   鳩の居る普通の庭の日向ぼこ


であろう。ともあれ、集中より、いくつかの句を挙げておきたい。


      神戸在住中阪神淡路大震災 

   破壊壊滅焼土見下し山凍(こご)ゆ        雅香

   天狗星アンタレスも居て君も居て 

              天狗星=大きな流れ星

   やはり淋しい素足のピエロ コアに蓋

   タゴールの詩(し)パラフィン紙に包む秋

   終戦忌赤い涙は描かれず

   班雪木喰の童子まろく笑む

   ヒルズ発情大夕焼けの真正面

   ナルシスト風な棒になってる彼五月

   知的喪失石に添い寝の蝶凍てる

   カウンターの椅子に秋色節下(ふしおろ)

               節下し=魚の五枚下し 

   八月のドラクロア絵の中は平和

   巻貝にゼフィロスその日の春の海

        ゼフィロス=ギリシャ邨羽の西風の神

   帰らざる日の暗澹へ花筏

   赤シャツの鶴髪老人サングラス

   被爆胎児羊水の中で見たピカドン

   少年は老功となり将狼(はたろう)となり 

   狐火は美しいらし未だ見ず

   銀鼠の爪牙滂沱の梅雨恐怖

      

 有原雅香(ありはら・がこう) 1944年、東京生まれ。


    撮影・芽夢野うのき「俳にまぎるる嬉しさみしさき桜かな」↑

2021年3月25日木曜日

田島健一「初詣おくへ進むと明るい墓地」(「川柳スパイラル」第11号より)・・・


 「川柳スパイラル」第11号(編集発行人・小池正博)、特集は「連句特集 この付合を語る」、小池正博は「編集後記」で、


 川柳と連句は私にとって車の両輪、鳥の両翼のようなものだが、今まで截然と区別し活動してきた。今回はあえて両者をミックスしてみたが、結果はいかがだったろうか。

 連句実作として小津夜景さんとの両吟歌仙、上田真而子さんご参加の非懐紙の二巻を選んだ。歌仙は現代連句の基準となる形式、非懐紙は橋閒石の創始で、歌仙形式を超克する可能性をもった形式である。


と記している。ブログタイトルにしたのは、「【この付合を語る】浅沼璞」のもの。


初詣おくへ進むと明るい墓地     田島健一

 いづる人魂まるめたる餅      鴇田智哉

メスカルはぶよぶよの沈んでゐたる 宮本佳世乃

       オン座六句「あたたかな」の巻

           (「オルガン」二十一号)

 全六連のオン座六句(福田若之捌)の第五連冒頭である。さながらドローン撮影したかのような飛躍的連想〔飛躰(とびてい)〕の打越。それをうけて初詣→餅、墓地→人魂と細かな物付〔四手付(よつでづけ)〕をしたのが前句。これはナンセンス〔無心所着(むしんしょじゃく)〕体のクローズアップで、それに暗示法〔抜け〕を駆使したのが付句である。「ぶよぶよ」はメスカルの沈殿物とも、はたボトルに入れるという芋虫ともとれる。前者なら人魂を、後者なら餅を、それぞれ「ぶよぶよ」と〔抜け風〕に表現しているのだろう。この両義性が〈三句の転じ〉を演出しているのは間違いない。(「ぶよぶよ」の「ぶよ」の部分はおどり字だが、は愚生のパソでは出ないので・・)。


 とあった。他に、石田柊馬の【同人作品評】に、「川柳の作句法、その多様性は個々の川柳人の人間性に繋がっているのだが、これが只今、あまりにも虚弱で、嘆きの声も無い」とあるのは、川柳にかぎらず、俳壇において、なお・・、というところでもあろうか。ともあれ、同人の一人一句を以下に挙げておこう。


  一人で肩組んで歩こ          湊 圭伍(圭史改め)

  とどこおる水の世界の側にいて    清水かおり

  拘置所を透けるあらゆるプロティン   川合大祐

  団欒の蘖に巣作りする燕        飯島章友

  滑舌の悪さは地球温暖化        浪越靖政

  一夫多妻か一切合切かで揉める     兵頭全郎

  壊滅の序曲をかけて除幕式       小池正博

  失神かぐうたらなのか蹴ってみて    一戸涼子

  点で待て一歩たりとも(笑うなよ)   石田柊馬

  回転をしながら月を待ってみる     畑 美樹

  眼と鼻は展望台に置いてきた      悠とし子



     撮影・鈴木純一「芥子一粒また来るときの印にする」↑

2021年3月24日水曜日

鴇田智哉「桃ぁ烟(けぶ)たぁてチャリごと突っくらす」(「オルガン」24号より)・・・


「オルガン」24号(編集 宮本佳世乃・発行 鴇田智哉)、本号の特集は「鴇田智哉『エレメンツ』。論考に、青木瑞季「反抒情の俳句」、関悦史「生える界面」、樋口由紀子「無類な楽天家」、山口昭男「生えている俳句」。座談会は、田島健一・福田若之・宮本佳代乃・西村麒麟・矢上桐子「鴇田智哉『エレメンツ』を読んでみた」。座談会資料として、各人が選んだ10句選がある。宮本佳世乃の選のみが、皆と重なっていない。 従って、全員に選ばれている句はなく、他の4人が、共通して選んでいる句は、


   いうれいは給水塔をみて育つ       智哉

   いきてゐる体の影を踏む遊び

   

である。座談のなかで、


 田島 (前略)鴇田さんの「生えている句」というのは、最初から不可能なことへの志向性なのだと、僕は思っています。「生えている句」を書こうとすると、どれも途中で墜落するのだと。その落ちた距離がそれぞれ違って、方言や乱父という姿で主体として現れる。もともと鴇田さんの句は基本的に写生に立脚しています。(中略)

福田 〈らっぱたーさん唐草を褒めちぎる〉は乱父由来のはずなんですよ。もとは、〈ワイダ父さん唐草を褒めちぎる〉という句で、これはTwitterにログも残っています。〈ピンもろとも竹がトモロウすっぱい閣下〉は、〈ペンもろとも竹がトモロウすっぱい閣下〉だった。(中略)鴇田さん自身は、あとがきに「乱父の句はそのつど初めて書かれ、その後の推敲や表記の変更はしないことになっている」と記しているけれど、「推敲や表記の変更」がなされた場合には、それによって乱父は乱父ではなくなる、というのがより正確かと思います。こうしたことを踏まえると、乱父の見開きのなかと外をつなぐものは何かといわれれば、まずもって「サドル式」の連作だろうという感じがしますね。(中略)

宮本 (前略)ただⅠ章には『こゑふたつ』の路線が色濃くある。私には、彼がこの句集を作ったことによって自分を確かめたいという思いを感じるんですが、実は俳句を書くことによって「私」が拡散していく、不確かさが増えていくようにも思いました。それは失うということのありようでもあり、根の深化と同等なのかもしれません。


  とあった。また、先の樋口由紀子は、


 (前略)ふだんの川柳の読みをしていたのでは到底どこへも辿りつけそうもない。川柳も意味をひねったり、ずらすしたりして、切れを作る。鴇田の切れは見た目川柳の切れと似ているが、非なるもので、何よりも意味の秩序の角度や温度を意識的に変えている。決して現実の場には戻してくれない。それが『エレメンツ』なのだろう。

 鴇田智哉のような言葉を信じる無類な楽天家に出会ったことがない。


 と言い、関悦史は、

   (前略)

   海胆のゐる部屋に時計が鳴る仕掛

   かなかなといふ菱形のつらなれり

   自転車に痺れのかよふ葉鶏頭

   オルガンの奥は相撲をするせかい

 これらの句は生命と非生命の相互浸潤、声と形の共感覚、音響への詩的直観などから未知の光景を展開し、美しくも驚愕的に可笑しい。


 と述べている。ともあれ、以下にテーマ詠「「いなたい」から一人一句を挙げておこう。


    箱型ストーブエレベーターは工事中     宮本佳世乃

    冬草を殺して市役所を建てる         田島健一

    春の木にビニールひもが靡くなり       鴇田智哉

    日が短いのもラジコンみたいだし川原だ    福田若之



芽夢野うのき「ライオンの歯てふタンポポの葉食べたるよ」↑

2021年3月23日火曜日

正木ゆう子「癌くらゐなるわよと思ふ萩すすき」(「禾」第9号より)・・・


 「禾」第9号(編集・折井紀衣)、その「あとがき」に、川口真理が正木ゆう子の句に触れて記している。


  さらさらとただ息をしてわらび野へ

 ああ、そうだったのだのだと思う。人間はただ、さらさらと息さえ紡いでおれば、それで良いのだ。やがて見える真に無垢なものだけ抱けばよい。〈わらび野〉という幻想のような澄んだ大地に読む者は導かれ、その読後感は実に爽やかで深い。 


 そして、もう一人の藤田真一は、菅茶山(かん・ちゃざん)について、


 一七四八年、広島の東部神辺に生まれる。生家の農のかたわら醸造の業をいとなむ。一八二七年焉命、行年八十の長命を保つ。儒及び詩をもって世に聞えたが、生涯官に仕えなかった。反面、誌友は全国に広がり、よく慕われた。

 ただ、家族には恵まれたとはいいがたい。(中略)

 そして、臨終にさいして、「臨終、妹姪(まいてつ)に訣(わか)る」の七絶を詠ず。

「身殲(ほろ)びて固(もと)より信ず百(すべ)てを知る無きを/那(な)んぞ浮生一念の遺る有らん/目下除非(ただ)妹姪を存す/奈何せん軟笑永く参差(しんし)するを」。

末句は、もう歓談することもできないね、の意。

 泪、滂沱たるほかなかった。


 と記している。この菅茶山には、農民一揆を詠んだ漢詩がある、思っていたのだが、愚生の記憶違いか、手元に何も無く、まったく探しあてられなかった。茶山は現在の福山市の人、かつて、愚生は、友人の校長先生に招かれて、福山市の高校の国語の先生たちを前にして、俳句についての講演をしたことがあった(今、思えば汗顔の至りだが・・)。愚生の俳句には無季も多くあったので、当然ながら、俳句と川柳の違いは何ですか?という質問もあった。ともあれ、本号の「禾」より、一人一句を以下に挙げておこう。


   吹越の鬣なせる神の山           中嶋鬼谷

   逢ふまでを人は歩めりいかのぼり      川口真理

   蜃気楼雪花菜(きらず)を提げて海の町   折井紀衣



                                      https://youtu.be/MSZ3vUqgdRk

★閑話休題・・・「3・18 原告勝訴!水戸地裁、東海第二原発運転差し止めを命じる!!」・・・



 愚生の昔からの友人である、嶋崎英治(三鷹市議)から「私も原告団の一人です」というラインが入った。詳しいことは知らないが、河合弘之弁護団長とあったので、現在、東京新聞夕刊に連載中の人、河合弘之「この道」であり、3月22日付けには、「福島原発告訴団」と題して、その結びには、


 原発の差し止め裁判をする弁護士は報酬ゼロで闘っています。着手金はないし、勝訴しても一銭ももらえない。でも、みんなそれぞれの正義感でやっています。僕は「この国をダメにしちゃいけない。守りたい」という愛国心で頑張っています。それだけなんです。


 と述べられている。「この道」によると、かつては、経営者側弁護士として辣腕をふるっていた河合弘之が、ある時、弁護活動のなかで懲戒処分をくらい、世界一周の旅に出る。帰国後、世の中のためになることをしたいと志し、その後、原子力問題で、高木仁三郎に出会い原発訴訟を引き受け、連戦連敗の裁判にもめげることなく、落ち込みながらも、10年前の東日本大震災の原発事故を目の当たりにして、自らの行く道の正しさに確信をもち、波乱の人生を生きて来たことを連載しているのだ。その島崎英治のラインの記事には、「避難ができないというだけで原発を止めた最初の歴史的判決だ!」とあった。



     撮影・鈴木純一「人を待つことも久しやトサミズキ」↑

2021年3月22日月曜日

鳥居真里子「椿一輪からだからああ、出てゆかぬ」(「俳句αあるふぁ」2021春・休刊号より)・・・


 「俳句αあるふぁ」2021春・休刊号(毎日新聞出版)、編集後記によると、「スタート日は未定ですが、4月以降毎日新聞によるウェブサイトからの発信にご期待下さい」とある。本号の主要な特集は「俳句と生きる」、「柿本多映の俳句世界」と、特別企画に「わたしの選んだ2020年の秀句」である。立ち読みでパラパラと捲っていたら、あろうことことか、愚生の句を「『俳句年鑑』2021」の掲載5句から、拾い上げてくれた人がいた。鳥居真里子である。よって取り上げて下さったことへの敬意を込めて、彼女の句をブログタイトルにさせていただいた。先般、亡くなられた青柳志解樹から横澤放川まで45人の俳人が2020年の俳句から自身の句を1句入れて、他に2句、合計3句ずつが掲載され、短いコメントが付されている。これにも敬意を表して、鳥居真里子の選んだ3句とコメントのすべてを以下に挙げておきたい。


   雪花菜(きらず)なれいささか花を葬(おく)りつつ    大井恒行

                           「俳句年鑑」2021

   わが死後の藻の花きつと花のまま             関 朱門

                           「門」8月号

   椿一輪からだからああ、出てゆかぬ           鳥居真里子

                           「俳句αあるふぁ」冬号

  日本古来よりの美〈雪月花〉と永遠に〈切らずなれ〉の意か。藻の花は永劫白い花のまま、彼の世の朱門のまわりを咲き続ける。生還が叶わなった絶唱の一句。「椿一輪」は人間そのものに棲みついている血肉の象徴である。 


 ともあれ、以下には「私が選んだ2020年の秀句」のなかから、愚生好みに偏するかもしれないが、いくつかの句を挙げておこう。 


   マスクして大東京へ立ち向ふ        今瀬剛一

   小さき山いだきて大き山眠る       青柳志解樹

   竹の皮散る機銃掃射や我狙らひ       有馬朗人

   八月の蟬あんな日もこんな日も       伊藤政美

   生き了るときに春ならこの口紅       池田澄子

   こんな日のこんな事情の心太       宇多喜代子

   忘るるなこの五月この肩車         髙柳克弘

   凍蝶や中村哲が野に不在         山下知津子

   ヰルスとはお前か俺か怖(おぞ)や春    高橋睦郎

   悲しきはI can't breathe美智子の忌      蓼蟲

   一ッ火のおほむらさきのいろの闇      黒田杏子

   神の悪戯てふてふもウイルスも       仙田洋子

   麗しき距離(ディスタンス)にて汗を拭く  筑紫磐井

   クラウドに慟哭満てり額の花        対馬康子

   折れ蓮の折れたき方へ折れて空       柿本多映

   手際よく枯れよ今すぐとは言はぬ      中原道夫

   春窮の列に加はりマスク買ふ        能村研三

   万人の命海市に漂へる           山田佳乃

   海の傷もたぬものなし桜貝         檜 紀代 



      芽夢野うのき「警棒にそっとさしだす小判草」↑

2021年3月21日日曜日

中塚一碧楼「すうたらぴいたら少年ピッコロを吹く春の地しめり」(『自由律俳句と詩人の俳句』より)・・・

 

 昨日の「鬣」つながりで、樽見博『自由律俳句と詩人の俳句』(文学通信)。帯の惹句には、


 資料収集に基づく考証でたどる近代俳句史

 とつとう鳥とつとうなく青くて低い山/中塚一碧楼

 何ゆえに、自由律を選んだ人たちが現れたのか?

 俳句とは何か—俳句に関わるものは、五七五定型、季語、切れ字の効用に凭れかかることなく、考え続けなくてはいけない。自由律俳人たちの懸命な足跡はその意味を教えてくれるのである。


 とあり、帯の背には、「定型は疑う余地のないものなのか」と記されている。著者「あとがき」には、


 近代俳句史をたどる上で、新興俳句系の資料は数が多いこともあるのか、多くの資料が現在も残っており、古書市場にも出て来る。その資料を基に前著『戦争俳句と俳人たち』も書くことが出来た。一方で、自由律俳句の資料は殆ど姿を見せず、ましてや、『層雲』とか『海紅』の自由律俳句誌が数年分まとまって古書市場に出て来ることは期待できそうにもなかった。(中略)

 ところが、珍事が起きた。東京のある古書店の主人が高齢の爲、長年収集してきた倉庫に眠る膨大な古書群を古書市場に放出し始めたのである。その中に『ホトトギス』『雲母』『馬酔木』『天の川』『石楠』『鹿火屋』『寒雷』など戦前戦中の主要俳句結社誌、俳句総合誌『俳句研究』の塊りが含まれていた。そのような夢のような事態が起こらなければ、前記拙著も完成できなかった。その他に『海紅』数年分と、三重県で出されていた新傾向俳句誌『碧雲』の十年分くらいがあって、幸いにも入手することが出来た。(中略)

 私は四十年間古書業界の世界で生きて来た。『日本古書通信』という雑誌の編集が仕事で、厳密な意味では古本屋とは言い切れないが、業者の古書市には参加でき、かつ神保町古書街がそばにあるという、資料を入手する機会に恵まれている。偶然にも私の元に来てくれた俳句史資料を活かすことは使命と考えている。(中略) 民族民衆の芸術である俳句を生彩あるものにしようとぶつかっていった自由律俳人たちのことを少しでも本書を通して知っていただけたら本望である。実のところ私の俳句解釈は深いものではない。その点はよく自覚しているので、あくまでも資料の紹介に重点を置いて書いたつもりである。


 と、述べられている。内容については、大きく、「第一章 自由律俳句について」、「第二章 自由律俳句の諸相」、「第三章 詩人の俳句」、付録として「荻原井泉水著書目録抄」によって構成されている。これらの膨大な資料を紹介しながら、樽見博がそこから得た短いながら的確な評にはうなづける。例えば、『俳壇春秋』での座談会においての尾崎放哉への短律句への否定的な評価が話されているのに対し、くり返し反論している部分を引用し、


  これはまだ放哉生前の評である。井泉水が認めなければ放哉はやはり埋もれたままだったろう。


 と評するのである。詩人の俳句では、鷲巣繁男に触れているのは、嬉しかったが、かのカトーノヴィッチ・イクヤ―ノフこと加藤郁乎論の一巻『戯論(けろん)』がなかったのは、愚生にとっては、ちょと淋しかった(もちろん、愚生は、その内容について、すべて忘却の彼方なのだが・・・)。ともあれ、本書中より、いくつかの句を孫引きしておこう。


   春の人屑へがくりと遮断機が鰓をあけた      栗林一石路

   夜もこゝろ安くゆくゆくの蟲の声を家路を     安齋櫻磈子

   海辺の枯草噛みかみ軍馬らいなくなる        横山林二

   かお                      青木此君楼   

   いろ                       〃  

   あつい湯さしては行水をしていちじくの青い実   池原魚眠洞

   蛙のこゑの満月                  大橋裸木

   干足袋の夜のまゝ日のまゝとなり         河東碧梧桐

   分け入つても分け入つても青い山         種田山頭火

   足のうら洗へば白くなる              尾崎放哉

   すかんぽぽつきり折つた音です           北原白秋

   しほざゐほのかに月落ちしあとかな        野村朱鱗洞

   花八ッ手満月路地をはなれけり           木下夕爾

   雪が積もつていよいよ崇高の峰だ          千家元麿

   空風に小手かざしゆく河童かな           北園克衛

   時計師の俯向勝や秋冷ゆる             竹中 郁

   松を立てず門に倚りて病脳の芽を測る       日夏耿之介    


 そうそう、昨日のブログの「鬣」第78号には、樽見博の、これも一読に価するエッセイ「勝峰晋風と映画『復活』」が掲載されていた。「蜜柑むく爪愚にも伸び居たり」晋風の句を挙げていて、晋風主宰の俳誌「黄橙(こうとう)」の昭和六年七月号に、


 (前略)この「新連句復活」が全文収録され末尾に「フォックスの映画化より新連句へ」とあった。つまり映画を見ての作品で、後の新興俳句による戦火想望俳句の先例といえようか。昭和六年ごろに上映された映画『復活』を晋風はどこかで見たのである。無論、島村抱月・松井須磨子の芝居『復活』は世に知られている。(中略)

 この重厚な映画を連句にするのはかなり困難だろう。それにしても、晋風のような俳人にもモダニズムの波が打ち寄せていたとは興味深い。


  と記されてあった。


          

     撮影・鈴木純一「しゃんとおし御覧スナップエンドウを」↑

2021年3月20日土曜日

九里順子「もの言はずもの言へぬ国黄落す」(「鬣」第78号より)・・・


「鬣/TATEGAMI」第78号(鬣の会)、本号は、第19回「鬣TATEGAMI俳句賞」の発表である。森田廣『出雲、うちなるトポスⅡ』(霧工房)と大久保桂『鷹女ありて その「冒険的なる」頃』(ふらんす堂)の書籍に対して贈られている。その理由に、


 (前略)このような森田の作品でありながら本格的に論じられることは少なかったように見える。それは「非在から立ち顕れる存在、表現に於ける存在の根源的な意識」に言及する森田の「緊張感に満ちた句群」を受容する力が現在の俳句に乏しいという状況を明らかにしているのかもしれない。(中略) 

 森田が言及する俳句を書くということに対する「根源的な意識」、また大久保が選んだ基本的な資料に即くという姿勢は、そのどちらも当たり前のことのように思えるが、実際には、いつなんどき、どのように手放してしまうか分からないことなのだ。つまり俳句に向き合う人間ならば何度でも自らに問うべきことなのである。(以下略)

                      鬣の会編集員会(文責・水野)


と記されていた。ともあれ、以下に、一人一句を挙げておきたい。


  みたまみな彳ちつかれたる石の家      堀込 学

  眼鏡にはゴーストがいていたからう     永井一時

  泣きボクロのほうが兄さん山ぶどう     伊藤裕子

  天秤の片方の乗る黒き雲          西平信義

  宇宙軍今日はきっとカレーの日      永井貴美子

  陸封の十二月どの国もどの国も       佐藤清美

  おしくらまんじゅう居ない子に弾かるる    蕁 麻

  冬桜約束のない待ち合わせ         青木澄江

  死なぬ人一人も無くてクリスマス      堀越胡流

  ダイアナロスか蘭ちゃんか春一番      樽見 博

  シンバルの出番は一度年暮るる      中川伸一郎

  秒針ニ振レル冷タイ          西躰かずよし

  運という字の頼りなき日向ぼこ       大橋弘典

  シーソーの空き待つてゐる十二月    吉野わとすん 

  カステラに蝶ふるさとのやうな街      外山一機

  淡雪や猫のかたちに寝転べば       水野真由美

  手かざしや天啓の百合開きたり       後藤貴子

  村雨が西の木橋を越えてくる        丸山 巧


  (わた)つ神(み)


  若紫(わかむらさき)

  吾亦紅(われもかう)           林 桂

 

      頭上(づじやう)

  樹上(じゆじやう)

  (き)に病(や)む猿(さる)

  木(き)を揉(も)みぬ         中里夏彦


  霧の奥の

  樹の

  炎上を

  見尽くせり               深代 響


  温室の外は棄景にするさうな       九里順子



     撮影・芽夢野うのき「穢れゆく花となるまえ花二片」↑

2021年3月19日金曜日

筑紫磐井「吾(あ)と無」(「現代短歌」No.84より)・・・


 「現代短歌」No.84(現代短歌社)、特集は「震災10年/2011.3~」。高山れおな選「東日本大震災から生まれた五十句」、川野里子選「東日本大震災からうまれた短歌五十首」と二人の対談「短詩型にとって東日本大震災とは何だったか」。他に論考として、和合亮一「三月十六日、静かな夜に。」と長谷川櫂「当事者とは何か」、あとは「記憶に残る歌集/残すべき歌集 2011.3~2020」。そして関連性の深いと思われる新連載第一回・添田馨「呪神礼讃/言葉がひらく鎮魂の鍵穴」。対談では、高山れおなが、川野里子に尋ねられて「げんぱつ は おとな の あそび ぜんゑい も」「いろ も なき げげげ の かぜ に ざ して し を かく」の自句自解めいたものを披露している(震災当日、お二人は、高山は仕事で京都、川野はイタリアに居たという)。


高山 (前略)東京の住人でありながら地震に遭わなかったことに、大袈裟に言えば、天の意志を感じて、地震については詠まないことにしました。一方、原発事故のほうは関東も含めてずっと続いていく問題なのでまた別ということですね。

川野 「げんぱつ は おとな の あそび」という言い方が腑に落ちるかというと、むしろ震災後は原発の巨大さが途方もないものだというのがみんなの実感だと思うんですよね。怪物だ、と。あえて「おとな の あそび」と言い切られた心はどこにあるんでしょうか。(中略)非常に複雑なニュアンスを織り込まれてますよね。人間の文明全体を遊びといえば遊び、なのですが。

高山 しかし、その「遊び」も「大人の遊び」と言ってしまえば、文明的なニュアンスは後退して、一種の商業コピー的な調子の低さを帯びるでしょう。それも狙い。それから「ぜんゑい」という言葉のニュアンスこそ、歌人のみなさんには伝わりにくいかもしれません。前衛短歌運動自体は比較的短命だったとしても、塚本・岡井・寺山の名は栄光と共に歴史化されているはずですが、俳句では前衛というのはある時期以降、否定と嘲弄の言葉ですから。そのうえで、「大人の遊びだ、(わたしがやっている)前衛俳句も」と言っているわけです。

 次の句は「色なき風」という古典由来の格調高い季語を、「いろ も なき げげげ の かぜ」と取りなして、被曝のことを詠んでいます。「し」がダブルミーニングで、「座して死を待つ」を「座して詩を書く」にずらしている。「げげげ」はもちろん「ゲゲゲの鬼太郎」から来ていますが、震災前年のNHKの朝ドラで、ゲゲゲという言葉がいつもより目につく状況だったことも発想のもとになっているでしょうかね。(中略)

  身にしむといふは春もよ昼寝覚  『冬の旅、夏の夢』

 春の句ですが、「身にしむ」は秋、「昼寝覚」は夏の季語です。季の異なる季節を一句にできるだけたくさん入れる技術的な遊びが目的で作った句で、同時に実感の裏付けもあることはある。その実感は別に震災に結びつけなくてもいいものですが、この句自体は二〇一三年の作で、震災以来の気分の落ち込みが続いていたことの反映がありそうです。広い意味での震災関連詠としてあえて自選三句に入れました。

川野 わたしのほうは奇妙な震災体験ということになるかと思います。というのはイタリアで体験したからです。息子から電話があって、とりあえず無事だと・・・それで切れちゃって、日本とつながらなくなったんです。夫の家族は福島にいますから、メールで連絡を取り合って。 (中略)イタリアでテレビに映し出されいたのは真っ赤に塗られた日本地図で、それが海の中にポツンと浮かんでいたのに・・・。

 列島に日本人のみ残るといふあの舟に吾は帰るべきなり  『硝子の島』

あのときの心情です。(中略)

 爆風のやうに桜花は白く咲き三度目の原爆かくもしづけき   同

 原爆は二度も落されて、これっきりにしようと思ったはずなのに、三度目があった。水素爆発を起こしてまっ白に雲がひろがる映像は忘れられません。

 あやまちはくりかへしませんから あやまちは いえあやまちはくりかへしませんから 

                              同


 引用が長くなってしまったが、他の部分でも短歌と俳句における私性の違い、あるいは現場性とフィクションについてなど、興味深い問題が語られていた。ともあれ、同号の50句・50首選のなからいくつかを以下に挙げておこう。


  津波のあとに老女生きてあり死なぬ      金子兜太

  春寒の灯を消す思ってます思ってます     池田澄子

  原子炉の無明(むみやう)の時間雪が降る   小川軽舟

  行方不明者一人残らず卒業す         小原啄葉

  

  帰還不能(きくわんあたはず)

  日(ひ)

  (ほ)に熟(う)れて

  眼裏(まなうら)に             中里夏彦

  

  ヒヤシンスしあわせがどうしても要る     福田若之

  八方の原子爐尊(たふと)四方拝       高橋睦郎

 心を入れ替えて入れ替えて入れ替えた心の前にも怖い現実        花山周子

 ありがたいことだと言へりふるさとの浜に遺体のあがりしことを    梶原さい子

 生き残りしものの簡素よさまざまな器抱へて給水を待つ         佐藤通雅

 二人子を亡くした母がわたしならいりません絆とかいりません     小島ゆかり

 被災せし人は誰も見ず 鳥瞰的津波映像を見るはわれらのみにて    花山多佳子

 「私はふつうの子ども産めますか」見えぬ被曝に少女は叫ぶ       芳賀ナツ

 うさぎ追いませんこぶなも釣りません もう しませんから ふるさと  斉藤斎藤

 あなたのいふ「人の住めない処」に住みをれば何やらわれは物の怪のやう 高木佳子 


 そうそう、ブログタイトルにした筑紫磐井の句「(あ)と無」には、これ以上分割できない「アトム」=「原子」も隠され、掛けられていよう。俳句という極小形式も、わずか三音、もはやこれ以上には望めない短さではある(潜在する残りの十四音の欲動が介在しているとは言え・・)。



       撮影・鈴木純一「限りなくゼロに近づく寝釈迦かな」↑

2021年3月18日木曜日

糸大八「天秤や蚤の跳躍忘ぜしか」(「円錐」第88号より)・・・

 

「円錐」第88号(円錐の会)、「円錐の一句」のコーナーで、橋本七尾子が「糸大八と長岡裕一郎」と題したエッセイの中に、


  (前略)創刊号の表紙は、糸大八の絵による巨大な蚤である。何故巨大な蚤なのか。亡くなってしまった糸大八に聞くすべはないけれど、聞けたところで笑ってのらりくらりと言を左右にすることだろう。一緒に俳句を作って、句会をやって、夜の街を飲み歩いて、遠くまで旅をしたりもしたけれど、意見らしい意見を言う人ではなかった。大きな身体をすぼめて、半分隠れているような風情であった。

  行く年の踊場の灯は點けておく   創刊号

  心太突き出されたる岬かな      二号

  水仙の風で航海してをりぬ      三号

  天秤や蚤の跳躍忘ぜしか       四号

  こほろぎの脚をかけたる飯茶碗    五号

 四号の作品の題は”焦げる蛋白質”という奇異なものである。これは「上九一色村の蛋白質の焦げる夏」の一句に由来する。いうまでもなく、オウム真理教の上九一色村での無残な犯罪をイメージしてをり、糸大八がどれほどの怒りを持っていたかが推測される。めったに見せない糸大八の激情である。(中略) ちなみに表紙絵は四号から長岡裕一郎の絵に変わった。

 長岡裕一郎の花の絵は攻撃的なささくれだった線でアネモネやカラーやバラを描いた、一癖も二癖もあるものである。長岡裕一郎の句、

  自転車ではこぶムラサキシキブかな    三号

  みずからを紙にくるみて春祭       四号

  空蝉はグラスのふちに架かる午睡     五号

  妹とひなたぼこりを切り遊ぶ       六号

「円錐」創刊時の同人は十六名である。その後、八十七号の今に到るまでの三十年間をともにしてきたのは七名にほどにすぎない。

 そして私たちは糸大八と長岡裕一郎を失った。二人の思い出を書くのも最後の機会になりそうだ。

 糸大八は病を得ると外界との接触を断ってしまった。その意思を尊重した私は見舞いにも行かなかったし、葬式にも行かなかった。(中略) 死の前後については何も知らないため、糸大八は今も昔の姿のままで思い出される。(中略)

 長岡裕一郎は一人で死んだ。朝から酒を飲んだりしていて心配ではあったが、結局寄り添ってやることはできなかった。人は一人で自分の生を背負うしかないと解っていた。だから誰も恨んではいなかったろうし、私たちにも悔はない。


 とあった。愚生は「円錐」同人ではなかったけれど(「未定」時代の仲間だった)、確か西荻窪の橋本七尾子の大邸宅(転勤多き夫君の借り上げ社宅)で、不定期で行われていた句会に、攝津幸彦、澤好摩、仁平勝、糸大八と夫人の荒井みずえ、長岡裕一郎、池田澄子さんもいたかもしれないが、その会にお邪魔していたことがある。じつに充実した時を過ごさせてらったように思い出す。他の稿では、とりわけ、連載二回目の今泉康弘「三鬼の弁護士―藤田一良(ふじたかずよし)と鈴木六林男」が読ませる。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。


   一対の蝶の足浮く潦           江川一枝

   握りたる空蝉虚ろなき微塵        澤 好摩

   あらそひて果てて白鳥鳥くさし      大和まな

   ヘブンローブルーの絡みし先の梲かな  和久井幹雄

   初電話「めっちゃげんき」を疑ひぬ    後藤秀治

   死に際がけつこう長いばつたんこ     立木 司

   天皇の嚏のあとの御名御璽        栗林 浩

   コスモスへ物柔らかに物を言ふ     荒井みづえ

   一枚の枯葉ポストへ届きけり      田中位和子

   厚着の児帽子の長き耳二つ       原田もと子

   生涯に一音たてて朴落葉         丸喜久枝

   時鉦なき時計のみ在り八月来       小林幹彦

   抜刀ノ隊長ヲ撃て!月の森       三輪たけし

   くりかへしわれより翔てり秋の蝶     横山康夫

   誰も彼(か)も遺されし者冬紅葉    山﨑浩一郎

   大鍋の形(なり)に立たせて冬の水    山田耕司

   ニュートンは嘘を語りき雪ばんば     味元昭次

   たいがいは易々と死ぬ冬の蠅       八上新八

   よく見えねど冬芽は赤にちがいなく   橋本七尾子

   鳥の巣を見に行ったまま春の山      今泉康弘  



        芽夢野うのき「たんぽぽを摘む指鳥に似て困る」↑

2021年3月17日水曜日

鈴木六林男「墓標かなし青鉛筆をなめて書く」(「575」7号より)・・・


 「575」7号、「NS」2号(いずれも編集発行人・高橋修宏)、「NS」は、詩篇を収め、本田信次との二人誌という印象である。愚生は、誌は門外漢なので「575」についてのみ、引用しておきたい。エッセイの冒頭は、「豈」同人でもある打田峨者ん「だ。それは――Aug2020/Jan2021」、三枝桂子「『春と修羅』断想」、髙野公一「芭蕉・『軽み』へ」、そして、髙柳蕗子の『青じゃ青じゃー短歌の酵母Ⅲ』の変奏ともいうべき俳句版の松下カロ『青について」、今泉康弘「シジョンとムリオ」で、かつて、乾いた抒情と言った金時鐘と鈴木六林男の交流を描いている。巻尾には、六林男の孝行弟子・高橋修宏「六林男・断章十四 鉛筆肉体」、その中に、


  墓標かなし青鉛筆をなめて書く       『荒天』

 六林男の第一句集『荒天』(一九四九年)に収められた戦場俳句「海のない地図」の章。その終盤、「帰還」の前書きの直前に、この一句は置かれている。この「青鉛筆」は、戦死者の墓碑銘を記するものなのか。いや、それだけではあるまい。むしろ、それは厳しい検閲から逃れるように、自らの俳句を「頭の中に隠してきた」六林男の〈書く〉ための「青鉛筆」であったはずだ。なお本章には、「新戦場寒き鉛筆を尖らする」という句さえある。(中略)

 この六林男の〈書く〉という行為を、早くから六林男俳句の主軸をなすものと注目しつづけてきた宗田安正は、戦場俳句以後も射程に収め、次のように指摘する。(中略)

 この宗田に指摘において見落としてはならないのは、六林男の俳句を〈書く〉という行為の根底には、たえず「その状況(自然と社会)の中に身を置」きつづける、己れの肉体が横たわっていたことだ。予て〈書く〉=エクリチュールとは、尖筆によって銅版の上に版画のように刻みこまれた〈傷〉なのだと、くり返し語ったのはジャック・デリダであったが、六林男にとっての〈書く〉という身振りもまた。己れの肉体に刻みこまれた〈傷〉を確かめ、たえず呼び戻すことではなかったか。

   永遠に孤りのごとし戦傷(きず)の痕     『雨の時代』


 そして、万博会場にいる鈴木六林男が「突如として自らの〈肉体〉に起こる甘美な苦痛のような変調、つまり戦後の流行歌『上海帰りのリル』を思わず口ずさんでいる自身に気づく」シーンがある。余談になるが、愚生のとっての「上海帰りのリル」は攝津幸彦である。攝津幸彦は哀調を湛えて、「カラオケ」ではよくこの曲を歌った。だから、この歌を聞くと、また、自身で口ずさむときは、必ず攝津幸彦の面影がそこに纏いつくのである。ところで、話を元にもどそう。冒頭の打田峨者んのエッセイの締めくくりは、以下のよう記されている。


  近未来の某日の夕べ。「懐かしい元の生活って何?」「スキンシップって?密着ってどういうコト?—もうぢき未来圏から”コロナ前(・)を知らない子共たち”がやって来る。

   ポプラにまねぶ雪暮の底の待ち姿

   石化満了》春《菊石の巻(まき)ゆるぶ

   迫る春ヒトは眩(くら)りと光塵裡          峨者ん  


ともあれ、本誌本号より、以下に一人一句を挙げておきたい。


  風花や我がうろくずの相別れ        増田まさみ

  勘弁の隙間に貝の息しろし          三枝桂子

  妹の方が長身かきつばた           松下カロ

  


          撮影・鈴木純一「一寸の蟲を救ふて春の雷」↑

2021年3月16日火曜日

岡田一実「囀りの影といふ影天降(あも)りくる」(『光聴』)・・・

 


  岡田一実第4句集『光聴』(素粒社)、帯の惹句は岸本尚毅。それには、


この作者は、目に映り、耳に聞えるものを、ふつうの感受のしかた以上に克明かつ分析的に捉え、それをやや理屈っぽくも見える、解像度の高い言葉遣いで再構成する。

だが、決して「言葉だけで遊んだ俳句」ではない。生身で受け止めた世界の手応えを、徒労すれすれの誠実さと、いくぶんかの不器用さと生硬さをもって一句に仕上げる。その句はしばしば、今まで見たことがなかったような物事の相貌をみせてくれる。


 と記されている。また、著者「あとがき」には、


 前作『記憶における沼とその他在処』上梓以降、現場の理想化前の僅かな驚きを書き留めること、些末を恐れず分明判断を超えてものを見ること、形而下の経験的認識が普遍性に近づくその瞬間を捉えること、イメージを具象的言語表現で伝えることなどは山険しけれど古い方法ではなく、現代の俳句を切り開く方法の一つになり得ると思うようになりました。(中略)

 加えて、持病の幻聴がもたらす生きることの困難さと闘う日々でした。古今の俳句などに親しむことによって自分の俳句観が大きく変わっていくのを実感した時期でもありました。前作までは採らなかった編年体を、若干の構成も入れつつ、今作で採ったのは、この疫禍を挟み俳句をどう書いたのかの「私(わたくし)」の標がいるように思ったからです。

「記録」ではなく「書くことを書く」という俳句を記せていたら幸いです。


  とあった。ともあれ、愚生好みに偏するが、いくつかの句を以下に挙げておこう。


   菊吸や茎に微塵のひかり入れ         一実

   鳰潜るときいきほひの少しかな

   あをうすき天たうきびの花もこゑ

   句を残すため中断の姫始

   幾風に廓や今し春の風

   水馬の水輪の芯を捨て進む

   蟭螟の羽ばたきに空(くう)うごきけり

   書を写す胡瓜のあぢを口中に

   銀河濃し酔の咫尺(しせき)に死を覚え

   いてあをば銀杏黄葉とうち鬩ぐ

  

 岡田一実(おかだ・かずみ) 1976年 、富山市生まれ。



    撮影・芽夢野うのき「烏の巣あさなあさなの朱は何処」↑

2021年3月15日月曜日

神野紗希「眠れない子と月へ吹くしゃぼん玉」(口語俳句振興会会報「原点」No.7)・・・


 口語俳句新興会会報「原点」No、7(主流社)、特集は「第3回口語俳句作品大賞 顕彰・記念(誌上)俳句大会」(主催・口語俳句振興会、後援・現代俳句協会)である。代表・田中陽の「あいさつ」に、


 作品大賞の杉本青三郎さん、そして、奨励賞六名のみなさん、おめでとうございます。コロナ禍のために、表彰式をこのような誌上大会に代えることにしました。(中略) 

 過去「口語俳句全国大会」は「天の川」吉岡禅寺洞の福岡で第一回を、そして五年前、「主流」地元の静岡にて最終の第六〇回大会を開催して来ました。

 今回は、口語俳句協会を口語俳句振興会と改称して以後の初めての(誌上)全国大会です。「協会」を振興会としたわけは、口語俳句は正真正銘の現代俳句であり、裏を返せば、現代俳句はもはや口語俳句によって表現されると言ってよいと思うからです。


 とあった。相変わらず、田中陽の熱情に溢れている。参考までに、愚生が特選に選んだ句と、選評を以下に挙げておこう。


    どうしようもない人間へ初日の出     暉峻康瑞

 一読、山頭火の「どうしようないわたしがあるいてゐる」の句が思い浮かぶだろう。つまり、この句は本歌取りの句である。そういう人間(わたし)にも、等しく初日の出は上るのである。山頭火と同じように、どうしようもなく、逃れられない人の営み、生活が描かれているのだ。三橋敏雄には「あやまちはくりかへします秋の暮」の句もある。それでも初日の出は上る。等しく生かされているのである。


 その他には、「誌上講演」として、神野紗希「コロナ時代を行く俳句」と渡辺誠一郎「ウイルスと俳句の現在と未来」。杉本青三郎の作品大賞「朝」20句と「受賞の言葉」、また、羽村美和子「口語俳句の醍醐味」、萩山栄一「コロナ差別と客観写生」、さいとうこう「コロナ時代を行く」、細根栞「奨励賞受賞」、鈴木和枝「自分への丸」などのエッセイが掲載されている。ここでは、神野紗希の講演の小見出し「4 コロナ禍での句作 肯定する力」の部分を引用しておきたい。


 新型コロナウイルスによって、私個人の生活も大きく変容せざるを得なかった。春の緊急事態宣言下は、保育園の登園自粛を求められ、朝から晩まで子どもと一緒。毎日、人混みを避けては、家の周囲や近所の公園で遊ぶ。

   ぶらんこの背押しつつ金がない      紗希  (中略)

 どこにも行けないので家の前でしゃぼん玉を吹いていると、道ゆく人が眉をひそめる。「やめてほしいな。あの子がコロナだったらどうするの?」しゃぼん玉に吹き込んだ息にウイルスが入っていたら、ということらしい。おいそれとしゃぼん玉も吹けない。コロナ時代はなんと厄介なことか。しょうがいので、なかなか寝かしつけのうまくいかない夜に、ベランダから小さな虹の玉を飛ばす。息子は「わぁ、きれい!」とはしゃいでいる。

   眠れない子と月へ吹くしゃぼん玉     紗希

 定職をもたない生活者として、子育て中の母として、疎外感を強く突き付けられるコロナ禍だが、社会から遠ざかった分、見えてくる風景もある。息子とゆっくり散歩していると、公園までの五分の道のりが、三十分の小旅行に変わる。たんぽぽにしゃがみ、空の雲のかたちを指さして、世界がぐっと近く感じられるようになった。 

   

 ともあれ、アトランダムになるが、本誌の文中より、いくつかの句を挙げおこう。


  埃を拭き取ったコンセントに頼る       無 一

  キルスとはお前か俺か怖(をぞ)や春    高橋睦郎

  一葉落つ疫病天に及びしか        渡辺誠一郎

  ペスト黒死病コレラ虎列刺コロナは何   宇多喜代子

  光り立つアマビエもがな春の海       関 悦史

  マスクしてあらざることを考ふる     雨宮きぬよ

  噴水の飛沫を浴びて帰りけり        仁平 勝

  元日やどこにもいかぬ顔洗ふ        小川軽舟

  飛んでいないと初蝶と見做さない     杉本青三郎 

  連行される男の肘に春の泥       きむらけんじ

  母はもう着ることのないシャツたたむ    鈴木瑞穂


         撮影・鈴木純一「春水を飲み忽然として鴉」↑

2021年3月14日日曜日

森田峠「冬空やキリンは青き草くはへ」(『森田峠全句集』)・・・


 『森田峠全句集』(ふらんす堂)、栞文は、深見けん二「写生の範」、宇多喜代子「ゆるぎのない客観写生」、片山由美子「写生に飽かず」、三村純也「縁」、岸本尚毅「写生と諧謔」。その深見けん二は、


 森田峠さんに、私がはじめてお会いしたのは、あの第二次世界大戦の終戦の翌年、昭和二十一年である。私は世田谷区成城にある叔父の家に未だ疎開していた。そこへ未見の峠さんが、わざわざ訪ねてこられたことはよくこそと思う。

 戦争中の「ホトトギス」の雑詠は三段組、姓もなかったが、地名に学生は大学名を入れていた。峠さんは、昭和十九年には國學院の学生で、岡安迷子さんに連れられ小諸に虚子先生を訪ね、峠という俳号をいただいている。


 と記している。また、岸本尚毅は、


(前略)峠氏の師の青畝は天才であった。そのような師を持った幸せと、その俳壇的継承者たることを運命づけられた重責が俳人峠を作った。峠氏の辿った道は当然、凡才の道であった。それは写生と諧謔の融合である。一途な写生が思わぬ笑いを誘う。そのような俳句は、青畝はもちろん清崎敏郎や波多野爽波などにも見られる。峠氏はその道を、最も愚直に進んだ。天才青畝の前ではどんな才能も無に等しい。峠氏は才を消すことによって青畝から自立したのではなかろうか。(以下略)


と、述べている。そして、宇多喜代子は言う。


 (前略)昭和四年に阿波野青畝より創刊された「かつらぎ」は、平成二年に森田峠に渡され、その後森田純一郎に継承された。『避暑散歩』に、

  父として日記は買はず絵本買ふ

  避暑に来て絵本読まされどほしかな

がある。ほほえましい父子の場が見えてくる。

『森田峠全句集』の刊行は、まず森田峠の句業を残すことであり、阿波野青畝孝行であり、多くの「かつらぎ」ファン待望の句集でもある。刊行が待たれる。


 加えて、森田純一郎の「あとがき」には、


(前略)峠が生前に上梓した八冊の句集、逝去翌年に平田冬か・村手圭子両副主宰が峠の句帳から選んでくれた句を含め発行した遺句集、平成三年に刊行した「森田峠作品集」の中からの補遺句、そして句集に収録されなかった「かつらぎ」近詠からの句、及び遺句集にも入れなかった句帳からの句を含め、合計四七三七句をこの全句集に収めました。


 とある。愚生が思い出す森田峠は、巨漢で恰幅のいい、穏やかな無類の人である。30年以上前、「俳句空間」第8号(弘栄堂書店版)での、阿波野青畝自宅でのインタビューに、仲介をしていただき、かつ同席していただいた。聞き手に宇多喜代子、藤川游子も一緒だったように思う。ともあれ、膨大な句に比すれば少ないが、いくつかの句を以下に挙げておきたい。写生は自ずから、その時代をも写し取る。


   森田家の背高の墓を洗ひけり         峠

   見えねども富士へ向けたる避暑の椅子

   起立せぬ卒業の子に式進む

   唇をとぢたる師あり卒業歌

   たゞ一戸たゞ一槽や紙を漉く

   一機いま南十字の一つ消す

   足もとに海金剛のすみれかな

   地震にも耐へし玉垣さねかづら

   一羽さり一羽となれば囀らず

   数へたくなる鶏頭に出合ひけり

   正面といふもののなく花氷

   これ以上下手には吹けずひよんの笛

   つつがある選者いでます翁の忌

   ただ一人渚伝ひに遍路急く

   傾ける杭をかはせみ好みけり

   卒業はまだかと言はれまだといふ   

   

  森田峠(もりた・とうげ) 1924(大正13)~2013(平成25)、大阪府生まれ。

享年89。  


          芽夢野うのき「冷えてます椿の朝の素足です」↑

2021年3月13日土曜日

樋口由紀子「耳と鼻どちらか先を保存せよ」(『Picnic』No.2)・・・


 『Picnic』No.2(TARO^冠者)、巻頭頁の添え書きに、「5・7・5を企む『Picnic』」野間幸恵とあって、


 俳句を始めてもなかなか面白いと思えるようになりませんでした。そんな時に俳人の梶真久さんに出会いました。

 彼は毎日電話で5・7・5の可能性を熱心に語り、何故俳句をしているかを問うと、「世界の王になるあため」とイラっとするようなことを言ってました。(中略)意気消沈しているときに俳人の城門次人さんが「言葉は差異によってのみしか詩の文脈を創出することは出来ない。徹頭徹尾言葉の差異に賭けた定型詩のいさぎよさを楽しむ心境ははじめてです」と、作品をほめて下さいました。また、「言葉中心に展開される文脈(文体)は常に自己を重く持していないと、いつか知らぬ間に無個性になってしまう」と教えて頂きました。結果として、5・7・5を書くことで一喜一憂しないことを学んだように思います。


 とあった。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。


   ユウレイニナッタラチャントシマスカラ     広瀬ちえみ

   想像に少し遅れて象の群れ            松井康子

   ではないと考えており氷点下           岡村知昭

   お医者さんごっこに使い切る唾液         榊 陽子

   ボランティア終わり乾電池に戻る         月波与生

   一月の水仙早すぎる抒情            大下真理子

   爆撃の後の焼芋掘り出しぬ           木村オサム

   すきますきまのはるかなセロリさくり       妹尾 凛

   これを塗る前にはあれを剥いておく       樋口由紀子

   つれづれを一枚二枚崖の上           中村美津江

   立春の記号しばらくあいしてる          石田展子

   土曜日の濁流となるものおもい          野間幸恵



撮影・鈴木純一「姫夜叉五倍子(ヒメヤシャブシ)よき名を貰ふ女の児」↑

2021年3月12日金曜日

髙野ムツオ「みちのくの今年の桜すべて供花(くげ)」(『あの時』)・・・

           みちのくの今年の桜すべて供花(くげ)↑
          土饅頭(どまんじゅう)百を今夏の景とせり↑
          
               こちこちとこちこちこちと寒の星↑

            児童七十四名の息か気嵐(けあらし)は↑


  高野ムツオ『あの時』(朔出版)、写真は佐々木隆二。帯の惹句に、


 心に響く/いのちのの俳句

 大震災以後の100句を/自解と写真で綴る保存版!

 あの時、なぜ俳句だったのか。東北に根ざし、自然本来の姿を通して

 人間の生き方をみつめる/高野ムツオの世界


とある。また「あとがき」には、


 一昨年、仙台文学館で「語り継ぐいのちの俳句」展が催されました。私のエッセイ集『語り継ぐいのちの俳句』所収の自句自解100句から二五句を選び、写真家の佐々木隆二さんが写真を組み合わせパネル展示したものです。自解は避けるのが俳句本来のありようですが、読みづらい句でも少しは理解してもらえる糸口になるかと、思い出すままに綴ったものが、「文字に見る震災資料展」の一つとして取り上げられ、開催にいたりました。

 これをきっかけに、全国数か所で展示会を催すことができ、昨年の多賀城の展示会では新たに一〇作品が加わりました。(以下略)


 とあった。一例だけ自句自解を以下に引用する。


 春天より我らが生みし放射能     『萬の翅』平成二十三年

   福島の原発事故のニュースが、夕刊の一面を大きく覆ったのは三月十五日あたりだったろうか。その衝撃は忘れられない。しかし、その時はどれほどの大事なのか、その真実は知る由もなかった。海外に脱出した人、沖縄に逃れた人もいた。命を守るためには、じつはそれが当時取るべき正しい選択だったと知ったのは、だいぶ後になってからである。もっとも、たとえ知ったとしても、その時は天を仰ぐ以外、何も手立てはなかったが。


 以下にいくつか句を挙げておこう。


   四肢へ地震(ない)ただ轟轟(ごうごう)と轟轟と    ムツオ

   膨れ這い捲(めく)れ攫(さら)えり大津波

   すぐ消えるされど朝(あした)の春の虹

   冬の波五体投地のきりもなし

   この国にあり原子炉と放射能

   揺れてこそ此の世の大地去年今年(こぞことし)

   死者二万餅は焼かれて脹(ふく)れ出す

   紅涙は誰にも見えず寒の雨

   みちのくの闇の千年福寿草

   人住めぬ町に七夕雨が降る

   生者こそ行方不明や野のすみれ


 高野ムツオ(たかの・むつお) 1947年、宮城県生まれ。

 佐々木隆二(ささき・りゅうじ)1940年、宮城県生まれ。

  


         芽夢野うのき「木蓮のわっと帽子脱ぐ日和」↑