「LOTUS」第48号(発行人/事務局・酒巻英一郎)、特集1「多行形式の論理と実践(評論編Ⅰ)と特集2「LOTUSプロジェクト《詩と俳句形式》Ⅵ」」。特集Ⅰの執筆・寄稿者は林桂「談話室にてー多行形式を読む前に」、橋本直「『多行』断想」、堀之内長一「多行俳句に素手で立ち向かう」、漆拾晶「多行形式によるメタモルフォーシス」、中里夏彦「寸感・一読者としての多行表記」、豊里友行「私の多行形式の展望」、笛地静恵「初心者の懊悩と展望」、木村リュウジ「酒巻英一郎俳句試論」、川名つぎお「管見」、三上泉「俳句世界という誠実さ」、深代響「世界の片隅でー外山一機『ふるさとのうた』について」、外山一機「依存と郷愁ー俳句の三行表記について」、田沼泰彦「七十光年からの花占いー《架空の摂理》再読。特集Ⅱは、古田嘉彦「抽象俳句について」。それぞれ興味深い論考が並ぶが、多行表記作家を抱えている「鬣」と「LOTUS」合同の印象がある。多くが高柳重信の多行作品の方法に触れているのはうなづけるにしても、多行表記のなかでも、三行書きついては少し冷や飯を食っている感がないではない。例えば「多行作品を一行でも書けるという人がいる。だけど、なぜ一行の方が多行に優先する表記なのか説明しない」(林桂)類のことでいえば、「三行表記は一行で書けるんじゃない?」と、ほとんどの句会では、必ず参加者の一人あたりからは、そう言われ続けてきたはずだ。論考の中で愚生の興味を引いたのは外山一機、彼は、
(前略)僕には、多行表記が試行されるなかで、大岡頌司のような奇妙に懐かしさを孕んだ作品の書き手が現れたことや、『黒弥撒』以降の高柳重信がしばしば郷愁を露わにするような作品を書いたことは、必然的なことであったという気がしてならない。思うにリズムに過剰に依存する多行表記を選ぶということは、自らの生につねにもたらされる新しい状況とぶつかりながらも、昨日の繰り返しを超える新しい俳句を書いていくのではなく、昨日の繰り返しを書くことをあえて選びとるというような、やや奇妙なふるまいを意味するものではなかったか。
と述べている。そして、木村リュウジの「酒巻英一郎俳句試論」は、かたくなに三行表記を実践してきた酒巻英一郎を論じて出色であり、かつ、それを考えていくと、髙柳重信が到達した四行表記や他の俳人の多行表記の作品群とはあきらかに違う世界が展開されていていることに気づかされる。つまり、酒巻英一郎の三行表記の方法は、もはや他の多行表記の作品とは、書き出しから違うことが感覚されるのである。もちろん、師であった大岡頌司の句ともちがう独自の三行でなければならない世界である。そして、「この問題の本質は、俳句を文学の問題として批評することにある」(田沼泰彦)とすれば、これから先に興味ある読者は、直接本誌にあたられたい。ともあれ、ここでは、各同人の一人一句を以下に挙げておきたい(原文は正漢字のものあり)。
冬の雷
夜爪に浅き
深傷かな 酒巻英一郎
傷だらけで寄せてくるブナの木 古田嘉彦
じゃあという言葉あるふぁ春の闇 松本光雄
リュートから零れるままか星のやみ 無時空映
春浅し互(ぐ)の目の蝶を舞はしめて 丑丸敬史
赫赫と今日一切を削ぐ夕日 小野初江
流れ着くもの羽ばかり晩夏海 表健太郎
ニセ十字祖のまなうらに塔くずれ 九堂夜想
鍵穴に春の舌を差し込んでいる 熊谷陽一
凍瀧を聴くときひらく耳の門 三枝桂子
しじまより空飛ぶいのち生まるべし 志賀 康
月明の母より長く踊るなり 曾根 毅
垂
直
な
永 遠 な る 降 雪
虚
無 高橋比呂子
★閑話休題・・・田中淑恵「掌の上の小さな本」2021年9月3日(金)~5日(日)10時~17時(最終日16時)・・・
・会場 なかのZEROホール西館1F(中2階風)美術ギャラリー
JRな貌駅南口徒歩8分
案内に、「ブックデザイナーとして数々の書籍の装幀を手掛けてきた作者の、十代前半からのライフワークである”掌の上の小さな本”。思いの深いテキスト、紙クロス、布、革、木、金属、箔押などで彩られた表紙、こだわりの見返し、展開の妙、文字組みと書体。中野区民フェスタ『文化展』に、新作を中心に約20点を展示いたします」とあった。愚生は、事情あって行けないが、きっと良いはずだ!ご覧あれ!
撮影・鈴木純一「琴坂の雨に別れて瓜二つ」↑
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