池田澄子『三橋敏雄の百句』(ふらんす堂)、巻末の「待遠しき俳句は我ー三橋敏雄」の中に、
敏雄の俳句との関わり方は、よい趣味、というものではなかった。よい趣味として程よい俳句に出会っていたなら深入りはしなかった筈。戦場の先輩から誘われて出会ったそれは、芸術の神の采配によってか、風流韻事には遠かった。それは俳句の中心にあるめでたいものではなかった。
後日、敏雄は、僕は少数派というところに思いがゆく人間、と言っていらした。まさに少数派との出会い、そして共感であった。(中略)
話が大きく逸れるが、その高屋窓秋が句集『花の悲歌』纏める折、窓秋は、句稿を持って、国立から遠路、小田原の敏雄を訪ね、意見をも求められたのだった。敏雄は大先輩の信頼に応えるべく、一句一句丁寧に感想を述べたという。意見の異なる場合も、お互い率直に思いを述べ合われたそうだ。
雪月花美神の罪は深かりき 窓秋
は、その段階では「美神の罪は重かりき」だったのだそうだ。「罪深い」という言葉もあって、「重い」よりも「深い」がよいのではにないかと敏雄は言ったのだそうだ。窓秋は、でもここには「折笠美秋」の「美」と、高柳重信の「重」が入っているのですよと、かなり主張なさったけれど、敏雄は譲らなかったそうだ。(中略)窓秋と、かなりの時間をかけて感想を述べ合い、話が終わって小田原駅の改札口までお見送りした。
深くお辞儀をして、ほぼ放心状態で顔を上げ。扨て帰ろうと体の向きを変えながら、いつものように帽子を被ろうとした。ない!
鞄の中にも、ズボンの後ポケットにも無い。 (中略)
脱線ついでに記せば『花の悲歌』カバーの装幀、小さな芥子の花の絵は、糸大八、出版の労は大井恒行だった。
とあった。その挿画の打ち合わせのための場所に、渋谷区松濤美術館を指定されたのは高屋窓秋。糸大八が渋谷駅近くにお住まいだったこともあるが、当時の松濤美術館2Fは、絵画を見ながら、お茶が飲めるソファーが置かれていた。窓秋お気に入りの美術館であった。その窓秋最後の単独句集となった『花の悲歌』(弘栄堂書店・1993年5月)の刊行は、ひとえに三橋敏雄の慫慂による。「窓秋さんは句を持っておられる。大井君が出したいと言えば、きっと出すと思うよ」と言われたのである。装幀は、先般、本年5月19日、77歳で亡くなられた亜鈴、こと書肆山田の大泉史世。遅れること約3ヵ月後の8月10日、愚生の妻・救仁郷由美子、享年72。思えば。俳号の救仁郷由美子の誕生は、池田澄子のひと言による。救仁郷の前は大井ゆみこの名で「琴座」同人。永田耕衣死去によって終刊した「琴座」から、「豈」への加入を勧めていただいたのも池田澄子。愚生も妻も同じ同人誌に居ることには躊躇があった。「名前を変えれば分からないわよ、『豈』に入れば・・」と言っていただいたのだ。さまざまな俳縁のお蔭で、愚生の成り行き人生もここまでくることが出来た、と言ってもいい。本書の結び近く、池田澄子は、
新興俳句に始まり、戦火想望俳句を書き極め、昭和十五年の、新興俳句無季俳句弾圧事件を近く見て、最も近く親しく学ぶ対象であった俳人たちが、投獄され或いは執筆禁止を受け迫害を受ける様を傍で見た。
俳句の上での反対勢力からではなく、軍国主義の国家によって成功に至らないまま前途を閉ざされた無季新興俳句と、その作者たち、そして戦争という理不尽なものに殺された人間の無念を、敏雄は忘れない。愚直に謙虚に一生そのことに拘り続けた。(中略)
一途な少年は、そのまま一生を一途に生きた。常に新しく、しかし、過去に出会った人、過去に観たモノ、コトを忘れずに生きて、書いた。
更には、各句集は、全く方法を異にしている。『まぼろしの鱶』が現代俳句協会賞を受けた時、敏雄は満足していなかった。僕の俳句はこれだけではない、と思ったのだそうだ。自身の作品が何かに到達してそれを纏めたら、敏雄はもはや其処に居ない。その方法で書きさえすれば、心配なく一応の評価は得られる書き方に到達したとき、その翌日、其処に敏雄は居ない。
と記している。ここで澄子鑑賞句の一例を挙げておこう。
むささびや大きくなりし夜の山 『靑の中』
(前略)高尾山薬王院への参道に敏雄の句碑が建立されている。その句碑開眼除幕式の日には、六曲一双、十二句染筆の披露もあった。その句碑がこれ。昭和二十一年二十六歳のこの句。
高尾山にはムササビが生息していて「ムササビの木」という大木があり句碑はそのすぐ近くにある。建立は大山隆玄貫主である。「大」「山」、そして「むささび」が詠み込まれているという見事な挨拶の句を敏雄は選んだ。(後略)
ともあれ、以下に、本書中より、句のみなるがいくつかを挙げておきたい(あまりに、人口に膾炙した句ははずしたかも・・・)。
鉄条網これの前後に血ながれたり
月夜から生まれし影を愛しけり
新聞紙すっくと立ちて飛ぶ場末
はつなつのひとさしゆびをもちゐんか
一日(いちにち)の日負けのひふを抱き合ふ
桃採の梯子を誰も降りて来ず
高ぞらの誰もさはらぬ春の枝
死に消えてひろごる君や夏の空
あけたての戸道の減りや秋の風
木練柿滴滴たり矣(い)われも亦
大年の黄の夕焼を窓の幸(さち)
信ずれば平時の空や去年今年
土は土に隠れて深し冬日向
われ思はざるときも我あり籠枕
三橋敏雄(みつはし・としお)1930・11・8~2001・12・1、東京八王子生れ。
池田澄子(いけだ・すみこ)1936年、鎌倉生まれ、新潟育ち。
芽夢野うのき「ゆきずりの山茶花にくる白き夕暮れ」↑
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